壱―続
涙が流れるままに馬鹿ですと繰り返す。
「高橋様がいらっしゃらなかったら、なにも知らないままだったじゃないですか。もし、ミオさんが戻ってこなかったらどうしたらいいのかと、怖くてどうしようもなくて」
「ごめん」
「ご無事で戻られて本当によかったです」
子どものように泣く千代さんの背をさすって、僕はごめんと繰り返す。
しばらく泣いて落ち着いてきたらしく千代さんはようやく涙を拭った。
「すみません、取り乱してしまって」
「謝るのは僕だ、また病気のことで千代さんを泣かせてしまった。本当にごめんよ」
「違うんです、責めてるわけじゃないんです」
千代さんは言ったきり口を押さえて俯いてしまった。
病気を軽くみたつもりはなかったのだけれど、無鉄砲な自分の考えにうそ寒くなる。絵が描けることに浮かれていた。遠出をするなら、もっときちんと準備をしなければならなかったんだ。
「ふたりの言う通りだな。きちんと休むよ。仕事も少し減らす」
千代さんがほっとした顔で頷いた。
「高橋様にもお礼を申し上げないといけませんね」
「うん、本当にあいつの心遣いがありがたいよ。だけど千代さんにこれ読ませるのはなあ。ちょっと口が悪いぞ」
赤い目の千代さんが、やっと少し笑ってくれた。
「私の鬱憤晴らしになるから、思いっきり言ってやれって言われました」
まったく錬逸ときたら。なんてことをするんだ。
「入れていた予定は待ってもらえるように手紙を出すよ。少しゆっくりやらせてもらう」
その後、家に籠るようになってからは、また少しずつ落ち着いてきた。今の僕はあちこちと動き過ぎず、このくらいの調子でやるのがいいんだろう。
今日は病院へ行く予定だ。ゆるりと歩いて電車に乗る。
東京へ来たばかりの時は馬車鉄道だったけれど、今は電気の工事がされて府内のあちこちに楽に行けるようになった。景色が流れる中をゆらゆらと電車に揺られていく。
昔は鉄道賃も高くて中々乗れなかったんだよなあ。この二十年という時の流れと技術の力には目を見張る。
今日も人々は忙しなく流れていく。強かに生きていく。こんな風に活気がある人々の様子も面白い。のんびりした代々木とは別世界のようで興味深い。だけど僕の描きたいものとは少し違う。
僕は草木の静かな勢いが好きだ。静かで力強い遠く広がる世界を描きたい。
子ども達にも絵を描いてあげようか。一緒に走って遊ぶことはできないけれど、これなら僕にもできる。
「絵を描いてあげよう」
夕飯の後に言ってみた。
「とうさま、なにをかくの」
三人に囲まれながら描いていく。
「すごい、手品みたいにどんどん絵ができていくね!」
柳に鷺、林の中の鹿、竹林、葦に鴨、それから山水、思いつくままに十枚ほども描いてみた。
「実はね、なにか描いてあげようと思って、電車の中でずっと考えていたんだ」
春夫は絵を描くのが好きなようだ。僕の手元を覗きながら、いつまでも傍を離れない。
「描いてみるかい?」
「うん!」
子ども達に聞くと、やはり春夫が一番に声を上げた。
筆運びはあまり早くならないように。紙に筆をつく時と離す時は力を入れること。
形はあまり似ていなくてもいいから、多少大胆でも思い切り描く方がいい。
美校の頃を思い出すなあ。
古画の模写も写生もたくさん描いた。もちろん一文字の線描きも。やまと絵も南画も描いたし、狩野派や円山派の絵も、光琳、宗達も勉強した。
「最初はいろいろな絵を一度にたくさん描くよりも、ひとつのものを何度も繰り返し練習するといいよ」
「父様みたいな絵も描ける?」
「うん、でも僕の絵と同じものじゃなくていいんだよ。春夫は春夫の絵を描けばいいんだから」
この子はどんな絵を描くんだろう。優しい温かい絵だろうか。
願わくは、この子が自分の絵を自分らしく描けるような世界であってほしい。




