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つきが世界を照らすまで  作者: kiri
東京美術学校にて日本画を描くの事
6/72

参―続

 数日後、晴れて美校に入学した僕は、この昔風な制服を着て通い始めた。


「おはようございます」


 教室の空気はいつものように暗い。


「はああ……」

「朝からため息つくなよ」 

「だってよう。この妙な制服のおかげで通学の間中、じろじろ見られるんだぜ」

「いい気はしないよなあ」

「復古主義にも程があると思うんだ。俺らは公家じゃないっつうの」

「袍ってなんだよ、袴でいいだろ。そっちのほうが楽なのに」

「帝大は角帽だろ。詰襟に外套(マント)でさ」


 そして最後に皆で言うんだ。


「バンカラなのもいいよなあ」


 この言葉とため息で会話を締めるのが毎朝の日課になっている。実はこの制服、学生の間ですこぶる評判が悪い。


「もう学校で着替えることにするよ」

「ああ、いいな! 俺もそうしよう」


 時代に逆行したような古さを揶揄(やゆ)されるのが、気持ちのいいものではないっていうのはわかる。周りの話をうんうんと聞いているものの、そこまで服装に頓着(とんじゃく)しない僕にとっては、なぜ皆がそこまで(こだわ)るのかがよくわからない。


 結局は先生も含め美校の中では全員同じ服なのだから、どうということもないだろう。そう言ったら呆れたような顔をされた。


「お前は! どうして気にならないのか逆に聞きたいわ!」

「これだから顔のいい奴は」

「俺達はなあ!」

「この格好だと女の子にモテないって言ってるんだよ!」


 あっ、そういうことか。

 確かに袴をつけて短靴(ブーツ)を履くような女の子の隣にこの服は合わないなあ。


「まったく、この朴念仁(ぼくねんじん)は……やっとわかったか」


 皆に小突かれながら、僕は苦笑いで頭を掻く。


「授業の準備はできているのかな」


 騒がしい僕らの中に、授業開始の合図と先生の声が混ざり込んだ。

 慌ただしくなる教室の中から窓の外を見ると、晴れ空の下を行く先輩達の姿。なにか議論でもしているのか難しい顔で歩いていく。あの着崩した様子は格好良く見えるけどなあ、なんて思いながら僕はそれを見送る。


「さて、授業を始めるぞ」


 先生の声が外を向いていた僕を授業へと引き戻した。

 僕ら一年生は最初のひと月、ひとつのことしかやらせてもらえない。例の懸腕直筆(けんわんちょくひつ)。結城先生のところでやったあれだ。

 毎日毎日、絵を描くというより線を描く。ただまっすぐな線をひたすら描く。狩野(かのう)派の修練方法のひとつで、美校ではこれを徹底的にやるんだ。


 ここへ来てわかった。

 僕はまだ全然下手くそなんだってこと。

 基本のこれだって、他の人の線はもっときちんとしている。筆の運びも引かれた線も(なめ)らかで綺麗で真っ直ぐで。僕はまだ線を書いているだけだ。描けているつもりだったけれど、まだまだ足りないんだ。


 先生方がいつかこれに感謝すると言う。基本は(おろそ)かにしてはいけないのは当然のことだ。まして、まだ全然できていない僕は、余計にこれをがんばらなくちゃいけない。

 わかってるんだ、それは嫌という程わかってる。ああ、僕は本当に下手だな。長い時間ずっと自分の拙い線と向き合っているとがっかりしてへこむ。


「目がチカチカしてきたな」


 休憩時間になって、隣で描いていた人が目を押さえながら言った。


「そうですね」


 半ば、ぼうっとしながら僕はそう呟いた。


「なんでこればっかりなんだろうなあ、いい加減飽きてきた」


 飽きたなんて言ってられない。大変だけどこれはきちんとやるつもりだし、やらなきゃいけないんだから。


「へえ、そこは愚痴らないんだ」

「僕はまだ下手だから、もっとがんばらなきゃいけないんです。前にも基本をやっていて良くなってきたって言われたから、これはきちんとやるつもりです」

「ふうん、君は真面目だなあ」


 僕の隣にいた人は、そう言ったきりまた首や腕をぐるぐる回した。

 始めるぞ、という先生の声でまた筆を取る。


「よしっ、やるか。あ、俺は天草(あまくさ)神来(しんらい)ってんだ。よろしくな」

「僕は菱田三男治です。よろしくお願いします」


 この人は僕よりいくらか年上だろうか。文句は言っていても率先してやるところを見ると、この人こそ真面目な人なんだろう。

 あれ? なんだか、さらっと話ができてしまったな。


 この最初の会話以来、僕らは互いに声をかけながら描くようになった。

 不思議と気が合うこの人は、熊本の出身でやっぱり僕より年上だった。兄さんが熊本の学校で教えてることを思い出して余計に親しみを感じる。


 僕を気にかけてはくれるけれど、あまりこちらの交友関係に突っ込んでくる人柄ではなかったから、そのこざっぱりとした距離感はなんとも心地のいいもので。そういう性格が気に入って、僕が神来さんと一緒に下宿を借りようという話になるまで、そう時間はかからなかった。

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