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つきが世界を照らすまで  作者: kiri
落葉の先、黒き猫を追いかけるの事
54/72

肆―続

 秋元(あきもと)洒汀(しゃてい)さんには五浦で初めてお会いした。

 流山(ながれやま)醸造業(じょうぞうぎょう)(いとな)んでおられる方で、芸術の支援をなさっている。


 あの時、もうほとんど見えなくなっていた僕に絵絹と依頼の前金まで申し出てくださった。

 治るかどうかもわからなかったし心の余裕もなかったから、罰当たりなことに迷惑にも思ってしまったんだ。そんな意固地な僕に、秋元さんが言ってくださった言葉を思い出す。


「あなたの絵が気に入ったのです。治ってからゆっくり描いてくださればいいのですよ」


 何度もそう言ってくださった。

 それが嬉しくてお言葉に甘えることにしたのだ。その後も生活のことまで何くれとなく面倒をみてくださって本当にありがたかった。


 一年という年月を描いてお渡ししようと思う。


 曙色に色づく春の山。桜吹雪が舞う中、水音が聞こえ始める。暖かい空気はやがて湿気を含んで雨になり、揺れる柳の下を川が流れ季節が移る。

 霧の中、旅人は山を越えて先を目指す。小さな集落に辿り着けば、そこは木々が色をつけ実りの秋になっていた。荷を運ぶ人は牛を引いてのんびりと歩く。

 やがて紅葉は川に錦を織り、そして冬がやってくる。深閑(しんかん)とした空気が木々の間に満ち、川は海へと流れ込む。

 月は静かに世界を照らし出す。


 ちょうど描き終わった頃に秋元さんから連絡が入った。仕事の都合もあるからと、わざわざ家へ寄ってくださることになったのだ。


「本当ならこちらから伺ってお渡しするべきなのに、お越しいただいてしまってすみません」

「いえ、こちらこそ急に伺ってしまいまして」


 まだ、あまり遠出はできないからありがたいけれど、なんだかこちらに都合を合わせていただいてばかりで申し訳ない。


「こちらがご依頼いただいた絵です」

「見せていただいても?」


 手に取った秋元さんは絵巻ですかと唸った。

 全部で三(じょう)ほどの長さになる絵を手に取って春から夏、秋、そして冬へと辿っていく。しばらくじっとご覧になっておられたけれど、ようやく顔を上げられた。


「これは……いや、掛け軸を一幅(いっぷく)いただけるのだと思っていましたから、これは嬉しい誤算です。叙情性と自然観察の目が素晴らしい」


 これは嬉しいことを言ってくださる。

 秋元さんには絵の前金だけなく、もうずっと毎月のようにお世話になっている。

 せっかくご依頼いただいたのだ。納得できる絵をお渡ししたい。この絵はこの方のためだけに描いたのだから。

 僕の絵はこの方の心の中の月になれるだろうか。


「少し長めの掛け軸になってしまいました」


 そう言ったら、くすりと笑って礼を言われた。

 どうやら喜んでくださったようで、ほっと小さく息を吐く。秋元さんには本当にどれだけお礼を言っても足りないくらいだ。


「お体のほうはいかがですか」

「おかげさまで大丈夫のようです。あまり無理はできないんですが、絵の注文も少し入っていますので描かせていただいています」

「そうですか。私もまた折を見てお願いすることにしましょう。どうかご無理なさいませんように」


 帰っていく秋元さんの背中を見送る。まっすぐに顔を上げて。

 これでひとつ、画家としての仕事を終えることができた。世話になるばかりではなく、自分の絵を買ってもらえると前を向ける。また次の絵を描ける。


 雨の冷たさ、陽の輝き、空気の含む湿気、風や草花の匂い、花びらの散る音、木々の騒めき。そういったものはもっと様々な表現ができるはずなんだ。

 描きたいものがたくさんある。どんな絵を描こう。次はどんな工夫をしてみようか。

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