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つきが世界を照らすまで  作者: kiri
落葉の先、黒き猫を追いかけるの事
53/72

肆 光あふれる場所

 いつか仄暗い海に引きずり込まれるのだと思っていた。

 崖っぷちを歩いているような、深い森で迷っているような、そんな気持ちになっていた。


 治療のおかげで光が見えてきたはずなのに、それでもここは遠い場所だった。足掻いて足掻いて、ようやく抜けられたのだ。

 ここは木の下闇を抜けた光あふれる場所そのものだ。


 作品が展示される、その瞬間を見たくて僕は早い時間から会場内をそわそわと歩き回っていた。

 久しぶりの展覧会が嬉しい。早く絵を見たい。あちらこちらで掛け軸がかけられ屏風が開かれる。絵の全体が見えるこの瞬間がたまらない。この空間にいられるのはなんて幸せなんだろう。


「楽しそうだねえ、菱田君。もう大丈夫なのかい」

「観山さん。お久しぶりです。河本先生には許可をいただきましたから」

「その言い方はまだ治ったわけじゃないのか。君はあまり物事を言わないからねえ、こちらも用心してかからないと」


 参ったなあ。

 (いぶか)しげに目を(すが)めて寄ってくる観山さんから、すいと目を逸らす。


「慢性腎臓炎があって、まだ治らないから無理はするなって言われました」

「隠し事は無しにしてくれないかい。皆そうだと思うが、君の力になりたい気持ちに変わりはないんだ」

「ありがとうございます。実は、だいぶよくなったので治療費の件については斎藤隆三先生にご相談したんです」


 これからは絵を売った収益で払っていくつもりだと言ったら、斉藤先生は自ら発起人になって春草会という頒布会を立ち上げてくださった。


「そうか、それは何よりだったねえ」


 観山さんは安心した、と顔をほころばせた。

 画家が金のかかる仕事だというのは変えられないけれど、注文していただいた(かた)の絵も描けて、どうにか生活できるようにもなってきた。僕はこれから大いにやろうと思っている。


「そういえば観山さん、前回の『大原御幸(おおはらごこう)』は間に合ったんですね。確か(はら)三溪(さんけい)氏が買われたのでしょう?」

「ああ、実は岡倉先生と意見が割れていてねえ、まだ完成していないのだよ」


 驚いた。美校の教授を辞任してまで描いたと聞いたけれど。岡倉先生は大変に興味を持たれて、いろいろと助言をしてくださったらしい。


「原さんには気に入っていただけたようだから、また続きを描いているんだ」


 岡倉先生のお考えを表現できる観山さんだからこそなのだろうな。完成まで描くために、そこまで助言をいただけるのは羨ましい。


「あの人は『賢首菩薩』も買われただろう」

「僕の絵はあまり気に入ってなかったんじゃないですかね。あの方は、観山さんのような古典的で格調高い絵がお好きなようだし」

「傾向としてはそうだろうがねえ」


 我ながら意地の悪い言い方をしてしまった。好みがあるのは当然なのだけれど、つい口が悪くなってしまう。


「買っていただけるのはありがたいですけど、好みじゃないのなら買っていただかなくてもいいんです。僕は絵を気に入って買って下さるのが嬉しいんですから。僕だって自分が納得しないものをお渡ししたくはないですし、おあいこでしょう?」


 実際、『賢首菩薩(けんしゅぼさつ)』は細川護立(もりたつ)氏に譲られたと聞いた。好文亭(こうぶんてい)へ来てくれた、あの若い(かた)のところへ行くなら絵も嬉しいに違いない。


「やれやれ、君のきかん気は変わらない」

「もう、僕のことはいいですから! それより今回の『小倉山(おぐらやま)』は『木の間の秋』にも通じるものがあっていいですね。藤原忠平(ふじわらのただひら)でしょう」


 忠平が帝の行幸(ぎょうこう)を願い、和歌に詠んだ景色が美しい。色づく紅葉や(つた)、写実的で丁寧な木々の描き分け。金地の鮮やかさが木の間に当たる光のようだ。こんなに鮮やかな秋の様子なら僕だって誰かに見せたいと思う。


「光琳風なのは僕も研究してみたいと思ってるんです」


 古典的な画面に光琳風の装飾は華やかだけど決して煩くはない。秋の静けさと忠平の思いがその中に見える。


「君の絵もいい秋の色を出しているじゃないか」

「習作もありましたし、画面に向かったら絵が見えてきて嬉しくなってしまったんです。楽しくなって一気に描いてしまいました」

「無理はしてないだろうね」

「大丈夫ですよ、久しぶりで本当に楽しかったんです」


 楽しい気持ちは皆に伝わるものなんだろう。最近は千代さんも子ども達もにこにこしている。だから僕も嬉しくなって楽しくなる。


 さてと、そろそろ秋元さんの絵巻を完成させなくては。この楽しい気分のままに描いたらきっと絵の中にもそれが見える。

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