弐―続
家に帰るのがいつもより少し遅くなってしまった。
千代さんが表に出てる? どうしたんだろう。
「千代さん?」
顔を俯けていた千代さんは、こっちを見たかと思うとその場にへなへなと座り込んでしまった。
「千代さん!」
思わず駆け寄る。
「どうしたの、大丈夫かい」
震えている。どこか具合が悪いのか。医者に連れていかなくては。
「ミオさんは駆けちゃ駄目です。それに大丈夫かは、こちらが言うことですよ!」
そう言って僕を見た目が、溢れそうなくらいの涙でいっぱいになっていた。いつも笑っている千代さんのそんな目を見て狼狽えてしまう。
「散歩に行くのに春夫達を連れて行かないし、帰りは遅いし、昨夜からちょっと変だったじゃないですか。もしかしたら……帰ってこないのかもしれないなんて思ってしまったら、怖くて」
ああ、そうだったのか。
千代さんは知っていたんだな。知ってて、知らぬふりをしてくれていたのか。
「あ、父様だ。お帰りなさい」
春夫と秋成が走ってくる。
「とうさま、聞いて。かあさまったらね、とうさまかえってこないかもなんて言うから、ぼくびっくりしちゃったよ」
「もう! 父様、母様泣かせたら駄目でしょう」
春夫は頬をふくらませて僕に怒った。ああ、ごめんよ。皆ごめん。千代さんは動揺して思わず言ってしまったんだろう。
僕は馬鹿だ。自分のことだけで手一杯だったからって、こんなにも皆に心配かけて。
情けない。
その横を、駿がとことこと寄ってくる。
「とおたん、めっ」
千代さんと僕の間に、ぽすんと小さな体が飛び込んだ。
「はい……ごめんなさい」
春夫と秋成も首にぶら下がるやら手を引っ張るやら。
「養生しなきゃいけないのも、焦っても仕方がないのもわかってるんだ。だけど絵を描きたいのに描けなくて、苛々して落ち込んで……」
子ども達の体の熱で、少しずつ僕の凍った心が溶けていく。
本当にごめんよ、心配してくれてありがとう。
「僕みたいな絵を描きたいしか言わない、わがままな者と一緒になったから千代さんは苦労ばかりしている」
「そんな! そんなの心配しなくていいんです」
「僕なんていない方がいい、そう思ってたよ。僕は本当に甘ったれだ。千代さんに甘えるだけ甘えてしまっていたんだ」
「ミオさん、私は好きでここに居るんです。そんな風に言ったり、私のことを心配したりするよりも、ちゃんと体を治して絵を描いてください」
こんな僕でも必要としてくれるのか?
僕はここにいていいのか?
僕は絵を描いていていいのか?
僕の問いに千代さんは大きく頷いた。
「私が嫁いだのは、画家の菱田春草なんですよ」
ああ、僕の心の中の月は千代さんと子ども達だ。西方浄土に行かなくとも仏はここにいるじゃないか。
凍った心が溶けて、涙と一緒に零れていく。
帰ってきてよかった。
僕はここにいたい。
ここで絵を描きたい。
僕は、生きていたい。




