漆―続
「ほら、ミオさん」
秀さんが足を動かそうとした僕の手を引っ張る。その手と声が低い場所に動く。
もう一度、ほら、と声がして自分の肩に僕の手を乗せてくれた。おぶってくれるつもりなのか。
「子どもじゃないんですから」
「千代さんに無事に引き渡すまでは放っておけねえよ」
「……すみません、お願いします」
僕をおぶった秀さんは軽いなと呟いた。
霞む目でもなんとかしようと気を張っていた時はできていたのに。こんなにも動けなくなるなんて。
「ん? どうかしたのか」
「いえ、ちょっと昔を思い出して……」
背に揺られているうちに、僕は記憶の中を子ども時代に戻っていった。
「結構きかん坊だったんですよ、弟や妹が怖がっていたくらいで。その時は、なんやかや冒険気分だったんでしょうね。遠くへ出てしまって、気づいたら知らない場所にいたんです」
「へえ、今からじゃ想像つかんな」
「普段のわがままっぷりはどこへやらで心細くて泣きそうで。兄が探しに来てくれて思わず飛びついてしまったんです。帰りは今みたいにおぶってもらったっけ……」
こんなに心細くなるなんて自分が情けない。
河本先生が言われるように、本当に可能性は少しでもあるのだろうか。ちゃんと治るんだろうか。治らないんじゃないかと思うと怖くて仕方がない。
「いい歳して恥ずかしいですね。参拾歳過ぎてこの体たらくですよ。こんなことで怖くなるなんて」
「いいんだよ、気持ちはわかる。画家にとって目は大事だからな」
「次に河本先生の診察を受ける時、内科もって言われたじゃないですか。きっと他の病気もあるんでしょうね」
「先生は念の為って言ってただろ。気に病むのは、それこそよくないってもんだぞ」
ぽつぽつとこぼす僕の言葉を秀さんが拾う。
返ってくる言葉が僕を安心させてくれる。
「僕、本当に治るんでしょうか」
「当たり前だ! 治るに決まってる。俺が保証する!」
ああ、美校の入学試験を受けた時と同じだな。秀さんは待ってるぞって背中を叩いて、大きな口を開けて笑ったんだ。あれで不思議と受かるような気分になったんだよなあ。
僕の中から少し波の音が離れて小さくなった。
「ありがとうございます。もう大丈夫そうです。歩けます」
秀さんに手を引かれて歩く。
その先に迎えに出ていた千代さんの声に向けて、どうにか笑ってみせることができた。
病院から帰った翌日、兄さんに手紙を書こうと筆を握った。
霞む目で書く文字がぎこちなく揺れる。体の具合も、東京へ戻ることも、伝えることはたくさんあるというのに。
めがみえなくなりました。
えがかけません。
そこまで書いたその先は、伝えようと思うほどに筆が進まない。
「……千代さん、続きを書いてくれるかな」
ため息をついて書くのを諦めた。
目を閉じると波の音だけが大きくなる。寄せて返す波音に引きずられて床に身を横たえる。
渡米する時はあれだけ魅力的に見えたのに。ここに来たときはあれだけ雄々しく轟いていたのに。
海は昏い波濤となって砕け散る。ほの暗い波音が僕を誘う。
絵の注文をと来た人は、僕の様子を見ると気の毒そうな声を残して去って行く。それは、仕方がないことなのだけれど。
……なんで僕なんだろう。
描かない人ではなく、描きたい僕が見えなくなるのはどうしてなんだ。どうしようもなく虚無に囚われ落ちていく。
虚しさをじわじわと潮騒が満たしていく。
思考も呼吸もこのまま波に委ねてしまおうか。人から離れて波になってしまえば楽になるかもしれない。
「とおたん?」
拙い言葉と温かい小さな手が僕に触れる。その小さな刺激で思いの海から呼び戻された。
「大丈夫、行かないよ。おいで、駿」
千代さんに抱かれて来たのに大きくなったな。一年半か……ここにはもっと長いこといたような気がする。
抱き上げてあやしていると、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。
「母様、駿、父様のとこにいたよ」
「とうさま、おきてる?」
この子達の温かさを感じると人に戻ってこられる。
「うん、起きてるよ」
三人ともどういうわけか、僕のところに来て遊ぶ。まるで不安定な僕の心がわかるみたいに傍に来る。
何をするでもないけれど、こうして子ども達に囲まれているのが一番落ち着くように思う。
僕らは、もうすぐ五浦を出る。
秀さんのおかげで思ったより早く家を借りる算段がついた。これからは代々木に住まうことになる。
荷物も送って空になった部屋を出る。
見送ってくれる皆の声に足が止まる。
ああ、心がちりちりと焼けるその答えはわかってるだろう。動けよ、僕の足。
ぼんやりと霞む視界の中、僕はわかりきった答えを心に抱えながら皆に背を向けて歩き出した。




