陸―続
嫌だ、と僕は首を振る。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
言ったら僕は、
「菱田君は多分、目が見えていない」
絵が描けなくなる。
「は、はは……嘘だろ。今までそんな素振り全然……」
「騙されたねえ」
「皆さん、どうしました? 向こうで誰もいないって、言って、ましたよ」
木村君の話す言葉にだんだん不審がこもっていく。
「木村君、菱田君は目がよく見えていないと思う」
「えっ? 大丈夫だって言ってたじゃないですか!」
ああ、君も騙された口か、と観山さんは力なく言った。
「武山、知ってたのか」
秀さんが木村君に言う。声が、怖い。
「知っていたというか、賢首菩薩の曲録の線が曲がってるから見てくれって言われて。その時は疲れてるんじゃないかって言って」
「そんな前からかよ」
呆然とした秀さんの声は、悲しみを絞り出すようなものに変わっていった。
「なんで言ってくれなかったんだ。俺達はなんの支えにもなれねえのか。俺達は仲間じゃねえのか」
「言ったら描くのを止めろって言ったでしょう!」
今は休めって。次の機会に出せばいいって。
僕の「こころもち」は止まれないのに。
僕の気持ちも工夫もあの時のものなんだ。経験は考えを変えていく。今、賢首菩薩を描いたら表情も構図も色も違うものになるだろう。その時以外に描いたものは別のものになる。
今の僕はもっと別のものを描きたい。別の工夫を考えたい。
「だって、ちょっとぼんやりするだけなんですよ? 目を凝らせば見えるんですから。だから絵は描けるんです」
縋るように言った僕の言葉に返ってくるものはない。
写生もたくさんした。構想もある。試してみたいこともある。描きたい構図が目の前にあるのだ。僕は絵を描きたい。
それに絵の描けない僕なんて岡倉先生は必要とされないだろう。だから描くのを止めてはいけないんだ。先生の理想を描きたい。その夢を取り上げられたら僕はどうすればいいのかわからなくなる。
「だから、言わないでください。他の、誰にも」
息を切らして言った言葉に、皆は黙ってしまった。
……そうだな、こんなわがままを言うなんてまるで子どもだ。僕のような馬鹿は呆れられて当然だ。
「ばっか野郎っ!」
「秀……さ」
「ミオさんが絵画馬鹿なのは皆知ってる。けどな、本物の馬鹿は俺のほうが上だ! 俺にそんなこと言っても無駄だぞ。いいか、これから医者に診てもらって治すんだ。逃げるなよ!」
「秀さん、無茶苦茶だ。僕は言わないでくれって言ったのに」
なんでだよ、僕の好きにさせてくれよ! 僕は絵を描きたいんだ!
「岡倉先生に相談して医者を紹介してもらおう。ここから医者に連れて行く。飯村先生に人力を呼んでもらうから。こいつ五浦に戻ったら多分、梃子でも動かねえぞ。武山、決まったら千代さんに知らせてくれ」
秀さんは僕の言葉を聞かない。
「秀さん!」
「俺は馬鹿だからミオさんの言うことなんざ聞けねえよ!」
行くぞと二人が動く。
「観山、そいつ逃がすなよ」
秀さんの強い声だけが残った。
無理だ。医者にかかるお金なんて今の僕に払えるわけもない。医者を紹介してもらえたところで、どうなるわけもないのに。
「菱田君、もう少し私達を頼ってくれていいんだよ」
観山さんは、ため息と共に肩を叩く。
「治療費の心配をしてるんだろうが……いいかい、君もそうだが私や木村君も文展で結構名が売れたんだよ。頒布会を開けば少しは助けになれる。横山さんが今ここから行こうって言ったのは、あわよくば支援も取り付けたい腹なんじゃないか。なにしろ地元だしねえ」
「そんなご迷惑、かけられません」
「もちろん描けるようになったら君がやればいい。それまでの間ってことだよ」
それでも皆にとっては多大な迷惑に決まっている。絵描きの生活の大変さは誰よりも僕が知っている。
項垂れたままの僕に、いいから、と観山さんは背を押す。
「さ、行くよ」
離れた方から伝わる人の話し声と床のきしむ音、ざわついた空気。僕がそろそろと歩いて行くと、それが水を打ったように静かになった。
先生は、岡倉先生はどこだろう。
「君の絵に対する気持ちはわかっているつもりだったのだが認識不足だった。もっとこちらも気をつけてやればよかったね」
温かい手が僕の冷たい指先を包む。
「先生……」
「帝国大学に河本重次郎博士という眼科専門医がおられる。電報を打っておくから診てもらいたまえ」
「すみません、ありがとうございます」
揺れる視界が潤んで余計にぼやける。
「河本博士は己に薄く他人に厚い、博愛主義で高潔な方だ。安心して任せなさい」
「あの、僕はまた絵を描いても……治ったら、また先生の元で絵を描いてもいいのでしょうか」
もちろんだ、と先生は震える僕の手を強く握った。
「待っている。きちんと体を治して戻ってきたまえ。私は君の描く日本画の行く先を見たいのだ」




