参―続
秀さんの声を合図に、僕らは並んで絵絹に向かう。
右隣で木村君が炎の赤を画面に入れていく。左隣の秀さんが曙色の海岸線を描く。その向こうに観山さんの秋の風景。
今日は新聞社が写真を撮りに来ている。
彼らが言うには、僕らの絵は欧米での高評価が伝わって見方が変わってきているらしい。文展の開催に合わせて写真を載せて紹介するのだそうだ。散々、朦朧だの化け物絵だの叩いてきて現金なものだ。
まあ、今度はこちらに風が吹いてきたかと思えば嬉しい。なんて僕も大概現金だな。
部屋の入口に据えられた写真機の向こうから声がかかった。
「どうぞ、いつも通りに絵を描いてくださって結構です」
そう言われたのだけれど、僕は写真師に顔を向けた。
自然そのものが芸術という。僕も写実的な絵は描くけれど、自然をもっと芸術的に表現しようと考える。
在るがままを写す写真師も、芸術的に表現できれば僕らと同じではないのかな。光も空気も「こころもち」も写真に写せたら芸術の表現ができるのではないだろうか。
それなら、もしかして写真のような絵を描いても日本画になるのかもしれない。少し不思議な思いつきが頭をよぎる。
あの人達はどんな考えで写真を撮っているのか聞いてみたい。頭の中に渦を巻く考えを振り切れず、じっと写真師を見つめる。
おかげで皆が絵に向かっている中、僕だけが顔を向けている写真になってしまった。
もっとも、今考えている構想を練り上げないと下絵にかかるのも難しいから、「いつも通り」絵筆を握った格好はできなかったのだ。
この文展に向けては『賢首菩薩』という中国唐代の僧侶を描こうと思っている。傍らに置いた金獅子像を比喩に、華厳宗の教えを説く図が知られていて、僕もその場面を表したい。
少しかみ砕いた講話を聴かせていただいたけれど、やはり仏教の教義というものは難しい。歴史画として描くためにその教えも参考にしてみようと思ったのだけれど、世界にあるものはすべて自分の意識の反映である、というのはどう考えたらいいんだ。
世界が自分の意識の反映なら、例えば僕の表す「こころもち」も、引いた線も、描き込まれる色も、それは世界でもあるけれど僕自身のことでもある。と言っていいのだろうか。
それなら絵画は僕であり、僕は絵画だ。ああ、こういう考え方なら面白くて好きだな。
小さな考えも心に留めておこう。道具の類いも資料を探さなくては。袈裟は写生しないと模様がわからない。これは作るとして……
「痛っ」
ぼうっと考えながら針を動かしていたら指に刺してしまった。ざっと作ればいいし、こんなものかな。後は模様を描き入れて、と。
「よし、できた」
さて、と誰に着せよう。ああ、ちょうどいいところに。
「木村君、少し手伝ってもらえるかな」
「なんですか」
「これ着て座ってくれる?」
座って手を広げてもらって着せた衣を直す。こんなものかな。
「これ、なんです?」
「袈裟」
「は?」
「袈裟だよ。どうしても袈裟を掛けた時の模様の出方がよくわからなくて作ったんだ。ちょっと写させてほしいんだよ」
「それ本当にちょっとですか? 菱田さん、描き出すと時間忘れてしまうんだから」
大丈夫だと言いながら、つい没頭してしまう。
「まだ、ですか……」
「う、ん……もう少し。そこ右手もうちょっとあげてくれるかい」
「あ、安田君! ちょっといいかい」
僕の頼みをそっちのけに、木村君は部屋の前を通りかかった安田君に手を伸ばす。
ああもう! 動かないでくれるかな。衣の具合を見たいんだぞ。ため息混じりに鉛筆を置く。
今、美術院の後輩が五浦に来ている。岡倉先生はこれと見込んだ人材をここに呼んでいて、安田靫彦君と今村紫紅君もそうなのだ。
彼らも本当に仲がいい。今村君は弐拾六歳だったか。安田君は弐拾参歳だから僕とは十歳も違う。ふたりとも若い。僕がこの年齢の頃は美校の講師をして『水鏡』を描いていたっけ。
あれから様々、技法は試したけれど、このふたりも試行錯誤の最中なのだろう。僕もまだまだ試したいことがある。互いにいい刺激を受けたいものだ。
「いやあ、菱田さんに頼まれたんだけど、手が疲れちゃってね。これ着てもらえる?」
「はあ」
ああ、そういうことか。ならいいや。
木村君は訝しそうに後退っていく安田君をがっしりと押さえ、手作りの袈裟をぐるりと巻きつけた。
「うん、似合う似合う」
木村君はなんでそんなにすっきりした顔をしてるんだ。
「菱田さんが絵の参考にって協力頼むよ」
「ええ!? それ絶対時間かかるやつじゃないですか! ちょっと待っててください。今、紫紅を呼びますから」
なんだか失礼なことを言われた気がするぞ。




