弐―続
絵を描くのは面白い。だけど画塾では基本の運筆から始めるから、好きなものだけを描くわけにはいかない。
本式に習うっていうのは、こういうことなんだな。
紙に筆をついてすっと引く。終わりは軽く止めて筆を離す。これを肘をつかないようにやるんだ。
「菱田君」
「はいっ」
「面倒だとか、何のためにだとか、退屈だとか色々思うだろうが、これほど大事な練習はないんだからね」
「……はい」
先生には見透かされてたみたいで、そんな風に言われた。
「ふふ、私も好きではなかったよ」
「えっ?」
「絵を描くのが好きなのは一番いいことさ。だが一番力がつくのは基本の練習だよ。まあ、いつかこれに感謝する日が来るから、それまでしっかりやりなさい」
毎回、縦横斜めの線を書くのに結構な時間がかかる。丸を書くのも難しい。だけど、この練習をやらないと模写も写生もやらせてくださらないんだよなあ。感謝する日っていつ来るんだろう。
そんな毎日を過ごして半年ほど経っただろうか。兄さんが僕の絵を見て言った。
「ミオさん、上手くなったなあ。やはり先生について教えてもらうというのは全然違うのだね」
「そ、そうかな。自分じゃそんなに変わらない気がするんだけど」
「う……ん、いや、これは確かに前よりも線がしっかりしているよ」
「本当!?」
そうか、これが基本練習の成果なのか。
よく見てごらん、と兄さんに言われて以前の絵と比べてみた。
言われたとおり線の確かさが違って見える。描いている時はそこまで深く考えてはいなかったのだけれど、ふらふらと自信なさげな線は減ってきている。なるほど、これが先生のおっしゃっていた感謝する時というやつなんだな。
こんなに変わるとは思っていなかった。ようし、もっとがんばろう! もっと一本一本の線を意識して丁寧に描くんだ。
「これはね、懸腕直筆っていう基本の運筆練習をしっかりやってるからだよ」
僕が威張って言うと、兄さんは感心して頷いた。
「そうなのか。やはり、どの分野でも基本は大事なのだな」
もちろん、その日からの僕がこの基本の練習を大いに真面目にやるようになったのは言うまでもない。
絵を描くことに熱中しているうちに、あっという間に時間が経ってしまう。僕が上京してから一年が過ぎた。
考えてみれば、初めての東京は人力車に気をつけることで精一杯だったな。騒々しくて忙しなくて、僕なんかがやっていけるのかと思ったこともあった。けれど、これが人の生きる強かさなんだ、と思うくらいには東京にも慣れた。
今日も忙しなく人は流れていく。僕も流れにのって歩いていく。
そうして僕は美校の校舎の前で立ち止まった。
そう、ついに試験の日がきたんだ。
流れから分岐してここに入っていく人達は、僕と同じように絵を描きたくてここに来たんだよな。
ああ、もう試験だなんて信じられないくらいだ。
なんだか他の人は僕より上手い絵を描くように見えて不安になってくる。先生から教えていただいた全てをもっとやっておけばよかった。もっと学んでおけば、こんな不安なんて感じなかったんじゃないかな。
いやいや! 弱気になってはいけないぞ。先生が教えてくださったことは、とことんやったはずだ。先生の助手をさせていただけるほどにもなったじゃないか。最初の絵に比べたら僕の絵だって変わっただろう。
手が震えているように思うのは、これは武者震いというやつなんだ。
あの横山という人だって、大変な思いで試験を受けたって聞いた。他の人もそうかもしれない。だけど僕だって絵を描きたい思いは負けていないんだ。それに為吉兄さんは、本当は自分がここに来たかったんだぞ。僕のためだけじゃなく、兄さんのためにもしっかりしなくちゃ。
大きく息を吸って吐く。よし、精一杯、試験を受けよう。僕の思いを見てもらうんだ。
僕は東京美術学校へ足を踏みいれた。