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つきが世界を照らすまで  作者: kiri
五浦にて絵画制作をするの事
39/72

参 五浦へ、行ってもいいかい

「行かないのですか」


 美術院が五浦へ移転することを聞いたらしく千代さんが言った。


「う……ん、絵はどこだって描けるし。小さい子がいるんだ。千代さんだって大変だろう?」

「それはそうなんですけど。ミオさんは本当にいいんですか」


 本当は、どっちだろう。

 わかってるくせに、と僕の中の僕が言う。

 僕が描いてみたいのは岡倉先生の理想だ。確かに絵はどこでだって描けるけれど、未熟な僕が一人で描くより、先生のご指導やご意見をいただけるなら嬉しいし五浦に行きたいと思う。


「実は岡倉先生からもお誘いの手紙がきたんだ。五浦へ、行ってもいいかい。また苦労をかけてしまうけれど」

「絵を描いても楽しくないなら、それはミオさんではないでしょう」


 思うところはたくさんあるのだろう。だけど何も言わずにそう言って笑ってくれた。本当に千代さんは僕の宝物だ。

 大変だろうとは思うけれど、僕ら一家は五浦へ行くことにした。


 潮の香りがする。海沿いの道は、波の音がざわざわと満ちている。

 ごつごつした岩と切り立った崖に張りつく防風の松林の間に、美術院への細い道が続いていた。千代さんは駿(しゅん)を抱いていかなきゃならないから、僕は春夫と秋成と手を繋ぐ。


 崖下の海が、おお、おおと声を上げる。三人でやっと通れるくらいの道を、僕らは並んで歩いて行く。

 僕らの他に秀さんも観山さんも木村君も。皆、家族で五浦に移住するのだ。なにもないとは言うけれど、皆と一緒だったら気もまぎれるかな。


 海の音に呼ばれた気がして、ふと立ち止まる。じっと見ていると無性に絵を描きたくなってきて、知らず口元が緩んだ。


「とうさま、うみすごいね」


 春夫が僕の手を振り回して言う。


「そうだね、とても絵が描きたくなる風景だと思わないかい」

「えをかくの? ついてからねって、かあさまがいってたよ」


 そんな真面目な顔で言われたら、どっちが大人かわからない。


「違いない。春坊の言う通りだ」


 秀さんが大きな声で笑う。つられて大人達が笑う。それを見た子ども達も笑う。

 不安な心を吹き飛ばすような秀さんの笑い声。この明るさに僕はいつも助けられる。



 五浦は岡倉先生が気に入られて、別荘をお建てになるだけの趣があった。

 ここには大地と海の営みが息づいていて、海中からごつごつと岩が沸き立つように見える。


 その奇岩の様子を中国庭園に見立てて、岬に小さな雪見灯篭(ゆきみどうろう)が作られていた。そこを、あの印象的な六角堂が見下ろしている。

 この堂宇(どうう)で絶え間ない変化を続ける大波を見て瞑想にふける。こういうのは、いかにも先生らしいお考えだ。


 荷解(にほど)きもそこそこに紙と鉛筆を持って外へ出る。


 岩に砕ける波の面白さ。

 空と海が水平線で溶ける。

 風や潮に負けない松の力強さ。

 木の間からこぼれる月の(さや)けさ。

 絵画に表したい世界がそこかしこにあった。



 美術院の画室は僕ら四人が並んで描いてもだいぶ余裕がある。広い場所で描けるのはいい。ここなら大きな作品でも遠慮なく描ける。まあ、それは準備できる画材次第なのだけれど。

 さて久しぶりに人物を描いてみようか。


 濡れ縁(ぬれえん)に座る千代さんを写す。痩せたなあ。やはり無理をさせてしまっているのだろう。

 それでも大丈夫かと聞けば笑って頷く。その笑顔が凜と綺麗で。僕は思わず、ほう、と吐息を漏らした。


 写生をそのままは描かず「こころもち」として絵に落とし込んで『今様美人(いまようびじん)』を描く。今、買い手を探しているところだけれど、まだ売れたとの話が来ない。


 次の下絵を描き終わって絵筆を握る。

 その横をすり抜けて観山さんの前に画商が座った。

 それを見ると千代さんにすまなく思う。残念ながらこの国の画商は、まだ僕や秀さんの絵に寄ってこない。


 欧米での売上からの蓄えも底をついたから、画材を買うためにも売れてほしいのだけどなあ。そうだ、今度おかずがなくなったら釣りにでも出てみようか。海がすぐそこなんだ、せめて何か足しにしなくては。

 

 目を閉じ心を絵に寄せる。

 今は松の緑、波涛の轟きを表す時だ。

 目を開けて画面に色をのせる。



 五浦に移ってしばらく経ったある日、その知らせはきた。

 政府による文化振興策として、文部省美術展覧会「文展(ぶんてん)」と通称される展覧会が開かれることになったのだ。


 これは美術団体を一堂(いちどう)(かい)する盛大なもので、しかも入場料が十銭と安い。映画を見るよりも安いのだから、普段は絵を見ない人達も気軽に来ることができるだろう。


「東京府の各新聞に審査の経過が載せられるそうだ。作品の紹介や批評も載るらしいし、これはますます注目が集まるぜ」


 相変わらず秀さんは耳が早い。


「どうでも賞牌を取らなきゃならんなあ。そしたら一気に知名度が上がるぜ」


 文部省、つまりは国が開催する美術展なのだ。そこに並ぶ作品の価値は日本国が保証するということになる。そこで賞が取れたら絵の注文も入りやすくなるだろうな。


「さあ、大いにやろうじゃないか」

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