玖 実は二月に渡米したいと思ってるんだ
結局、僕らは渡英せずに半年ほど滞在した印度から帰ってきた。
「ただいま、千代さん」
ちょうど玄関先で箒を手にしていた千代さんが振り向いて目を丸くした。急に動いたことに驚いたのか、千代さんの背で春夫がふにゃふにゃと泣き出す。
「ミオさん! お帰りなさい。ご無事でよかった」
もう一度ただいま、と千代さんの手を握った。
顔を見ていると胸が温かくなってくる。互いに目を見ているだけで満たされるように思うのは僕だけかな。千代さんもそうなら嬉しく思う。
僕と千代さんの間に春夫の泣き声が割り込む。
「ごめんごめん、春夫のことも忘れてないよ」
背から下ろしてやると泣き声が止んだ。自分で動きたかったのだろう、と千代さんは困ったように笑う。
「だいぶ動くようになったので目が離せなくて、どうしても忙しい時はおぶってしまいます」
「重くなったなあ、これじゃあ千代さんも大変だ。しばらく僕が見ているよ」
春夫を抱いて外に出る。同じ暑さでも日本と印度はまた違うな。
「春夫、この空気を描いてみたいね。君なら何を描くかい? 君の目にはどんな風に世界が見えているんだろうね」
僕の問いに春夫はにこにこと笑う。僕なら次は何を描こうか。暑い頃なら涼しさを運ぶような絵もいいかもしれない。印度での体験を生かすものも描いてみたい。
春夫の手が僕の頬をぺちぺちと叩いた。
こら、とその手を掴まえる。この小さな手もいつか夢を掴むだろう。それまで僕は家族を守ってやらなければ。
次に描く絵の工夫を考えよう。
またここで絵を描く日々を始めよう。
美術院での五年間、岡倉先生の理想とする日本画を追いかけてきた。
僕の絵はどこまで来られたのだろう。まだ掴めたとは思えない。どうすれば描けるのか、なにができるのか、もっと考えなければ。僕は絶対にこの手でそれを掴むのだから。
次の共進会へ向けて、さっそく絵を描きはじめた。
良い評価がもらえたものもあるけれど、売るとなると厳しいものだ。
なにしろ絵を売ることを美術院経営の基盤に据えているのだ。このところあまり経営が捗々しくないらしいから、どうにか売れてほしい。
そんな苦闘の中に嬉しい知らせを告げたのは秀さんの声だった。
「おい、聞いたか。岡倉先生が波士敦美術館で東洋美術の仕事をされるらしいぜ」
漆工家の六角紫水さんもご一緒されるのだそうだ。
沈滞する美術院は久しぶりの話題に沸く。
「ミオさん、俺達も随伴させていただけるそうだ」
「本当ですか!?」
「ああ。ただ官費留学じゃねえんだ。一緒に連れていってもらえるってだけだからな。俺達は金が集まらなけりゃ渡米できん。とにかく絵を買ってもらわんとな」
行きたい。先生とご一緒させていただける機会なんて、そうそうないんだ。絶対に行きたい。資金を集めてなくては。
秀さんと目を見交わして頷く。
「がんばりましょう!」
それからの僕らは渡航資金を調達するために駆け回った。
「ミオさん、今日もお出かけですか」
支度をしていると、千代さんは春夫をあやす手を止めて言った。
参ったな。できたら捕まる前に出かけたかった。
「うん、頒布会のお願いに行ってくるよ」
歯切れの悪い僕の言葉を捉えて怪訝な顔をする。
「なんだかいつもより積極的ですね」
折を見て話そうとは思っていたんだけれど、これはもう話さなくてはならない。
「実は二月に渡米したいと思ってるんだ。岡倉先生が米国の美術館で仕事をされることになったから、それに随伴させてもらえるんだよ」
「そうだったんですね。岡倉先生のお話は聞きましたが、どうしてミオさんがそわそわしてるんだろうって不思議だったんです」
言葉がちくちくと痛い。言ったら反対されるかもしれないと思って言えなかった。それでも僕はどうしても先生とご一緒したい。
「今更だけど、千代さんは渡米するのを止めるかい」




