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つきが世界を照らすまで  作者: kiri
日本美術院奮闘するの事
26/72

伍 空っぽの僕は、なにを描きたいと思うだろう

 さっそくこの課題に取り組もうと、考えを整理するところから始めた。

 まずは今までの考えをなくしてみようと思う。頭を空っぽにして僕に何ができるかもう一度考えてみるんだ。


 写実に寄れば西洋画なんて考えも、日本画の輪郭線の有無も、なんなら画家の考えを表すことも忘れよう。習ってきたことも、狩野派の画風も、模写で覚えたことも頭から追い払って。色彩も頭の中から消そう。


 空っぽの僕は、なにを描きたいと思うだろう。

 子どもの頃、最初に絵を描いた時は墨だけで落書きみたいなものを描いたんだっけ。手習いの先生には叱られたけれど、楽しかったことだけは覚えている。

 またそこから始めてみようか。


 西洋画と日本画の違いは、光や空気、距離や空間の見せ方。輪郭線を描かないところ。

 今の日本画の描き方とは違う考えを、まっさらな僕に取り込む。

 まず試したいのは、線を使わず濃淡だけで描くこと。墨だけでどこまで光を表現できるかということ。これだけをやろう。


 林と、岩に猿。今までもよく描かれてきた題材だ。

 目線は下げて、雑木林の写生画を描くように構図を決める。ここは西洋画の風景の描き方を参考にして描いていこう。


 背景の奥だけに明るく光が集まるように、絵の中心に向かうごとに薄く墨をぼかす。猿は中心に置いた岩の上で遊ぶのだ。岩に乗る猿の向こう、林の先に光を見る。

 輪郭線を描かないという課題に『寒林(かんりん)』という僕なりの答えを描いてみた。


 ひと区切りついたところに、本を抱えた秀さんが通りかかる。


「秀さん、出かけるんですか」

「こないだ岡倉先生のところへ島村(しまむら)抱月(ほうげつ)先生が来られたろう。その時の屈原(くつげん)の話が面白くて俺も読んでみてるんだが」

「えっと『離騒(りそう)』でしたっけ。詩を論じておられましたよね」

「そう、それの中でよくわからんところがあってな。講釈(こうしゃく)してもらおうと思ってるんだ」


 じゃあな、と手を振って大股に歩いていってしまった。

 秀さんは想を練っているところなのだろうな。僕も今はいろいろな描き方を試したい。そうだ、他にも写生した景色がいくつかあるし、あれも絵にしてみるか。


 いくつか違う風景の下絵を描いてみたけれど、これについては『武蔵野(むさしの)』という伝統的な題材を選んだ。

 基本的には富士と(すすき)を描くもので、これまでは余白を残した箱庭を楽しむような構図で描かれていたものだけれど、画面いっぱいに色をのせてやはり西洋の風景画のように描こうと思う。


 前景には芒に留まる百舌鳥(もず)を一羽。ここだけは輪郭線を描いてはっきりと見せたい。その周りの芒は風に吹かせて、これは秋らしく涼しさを含む。


 距離の見せ方は工夫が必要だな。線を使わないのはやはり難しい。遠くに見える富士は夕暮れの色に溶け込ませ、まだ少し暖かさが残っている大気の雰囲気が出るように描いてみる。これなら芒野原がもっと広がって見えないだろうか。


「よう、ミオさん。進捗はどうだい?」

「そろそろ次のを考えようと思ってるんですが、秀さんはどうですか」


 僕がそう言うと、相変わらず描くのが早いと苦笑で返された。けれど、見ていくかいと続けたその顔には良いものが描けたらしい想いが溢れている。

 もちろん二つ返事で見に行くことにした。


「これですか」

「おう、これが『屈原(くつげん)』だ」


 屈原は()の政治家だ。能力があるがゆえに妬まれて姦計(かんけい)()まり、国の将来を憂えて入水(じゅすい)したという人物なのだけれど。これは……

 大きな画面の中、前を見据えた人物が(いかめ)しい顔で立つ。


「これ岡倉先生でしょう」

「ミオさんにも、そう見えるかい?」


 少し参考にさせていただいたよ、と秀さんが笑う。


「岡倉先生は将来に絶望なんてしてないし、入水もしてないぜ。そういうのとは一番遠い(かた)じゃないか」

「そうでしょうけど。こんなに似てたら、皆、先生が(はかりごと)で追い出されて怒ってるって見るんじゃないですか。それなら歴史じゃなくて、秀さんの私的な気持ちを描いたってことになりませんか」


 それを否定はしないと秀さんは言った。


「ただなあ、俺は入水する前の屈原は国の将来に絶望する前に怒っていたと思うんだよ。なぜ自分の話を聞いてくれない、なぜ自分の策が受け入れられないんだ、ってな。その怒りがあってこその絶望だと思うんだ」

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