肆 日本美術院が創設され、もうすぐ落成式を迎える
あの騒動を思い返すと、あれだけの嵐が吹き荒れたというのに不思議なほど絵を描くことだけは考え続けられた。僕らの前では岡倉先生が暗いお顔をなさらなかったからだろうか。
不安は確かにあった。それでも、先生を見ていると自分の評判なんて些末なことだから何を描くかに集中しろ、と言われているように感じられたんだ。それなら描くことを止めるのは先生の期待を裏切ることになる。だから僕はそれだけは止めなかった。
先生の芸術へのお考えは何があっても変わらないのだろう。日本画の未来に向けて一歩も引かぬおつもりなのだ。
早速に谷中初音町に日本美術院が創設され、もうすぐ落成式を迎える。ここでは美校の一つ上の研究院という位置づけで美術の研究制作をすることになる。
それを兄さんに会って話していた。
兄さんは卒業して京都に行っていた僕と入れ違いに、東京に戻ってきていたんだ。この頃は頻繁に会えるようになって嬉しくてたまらない。騒動の渦中でも兄さんに会う時は別だった。
だけど、あの日のことは思い返すとまだ顔が熱くなる。兄さんの話は本当にいきなりで、どうしていいかわからなかったんだ。
「ミオさんの見合いだよ。話自体は少し前からあったようなんだが父上から聞いていないかい?」
「見合いの話自体、初めて聞いたよ。僕が知ってるわけないじゃない」
まったく兄さんはなにを言っているんだ。美校が騒動でばたばたしてる時に。
「兄さん、そういう大事な話は落ち着いてからしてくれないかな? 今は美術院を作る話で忙しいし……」
「先方はそれも承知だよ。ミオさんも千代さんのことは手紙に書いてくれただろう」
なんでその名前が今出てくるんだ。僕が固まったまま動けずにいると、兄さんは苦笑して続けた。
「だから野上千代さんだよ。美校の頃に会ったことがあるだろう」
「ちょ、ちょっと待ってよ。なんでここに千代さんが出てくるの。僕は卒業してすぐ京都へ行ってしまったから、もう千代さんは僕のことなんて忘れてるんじゃないの?」
「いや、覚えているそうだ。私も父上から連絡を受けてお会いしてきたよ。実は前々から父上は旧飯田藩士の繋がりで、年回りの合う女性を探しておられたらしい」
それ今言われても困るよ。っていうか、なんで僕に先に話がこないんだ。
僕が千代さんと会ったのは偶然だったけれど、見合い相手に、なんていう偶然も重なるなんて。
仕事であちこち行くことが多かったから連絡も取りにくくて、会うのも難しくて、だけどもう一度会いたいと思っていた。見合い、か。そうか、もう一度会えるのか。なんだか目の前がくらくらしてきた。
ばたばたと千代さんの前からいなくなってしまったから、酷いやつだと思われているかもしれない。
会えたらなんて言おう。いや、待て。その前に会ってくれるかどうか。怒って会いたくないって言われてるかもしれない。
「ミオさん……ミオさん」
「なに? 兄さん」
だいぶぼんやりしていたらしい。兄さんに肩を揺すられて我に返った。
「ミオさん、こちらお相手の野上千代さんだよ」
野上千代さん? 千代さん? え?
僕の目の前に小首を傾げて、はにかんだ笑顔の千代さんがいた。
なんで? なんでここに千代さんが? ちょっと待ってくれ、なにがどうしてこんなことになってるのかわからない。誰か説明してくれないか。
「いや、私も急すぎないかとは言ったのだがね。先方がご存じなら早めに引き合わせよう、と父上が言われるものだから。せっかく近くにいるんだし、それもいいなと私も思ってね」
待って待って、兄さん。せっかく、じゃないよ。僕の心の準備っていうものがあるだろう。僕だってまた会えたらいいなとは思っていたけれど、今日ここで会えるなんて思ってもいなかったんだから。
そうだ、千代さんだってこんな急に見合いの話なんて迷惑じゃないのか。
そうして目を上げると千代さんは撫子のように笑った。
ああ、この笑顔はあの時と変わらない。
「菱田様のお顔は存じておりましたし、こう言っては失礼かも知れませんが、美校の話は世間でも大きな出来事でしたから。渦中におられるのに、こちらこそご迷惑だったのではと申し訳なくて……」
「迷惑なんて!」
急に大きな声を出してしまった。
もう、この心臓の音がどうしても小さくならなくて。恥ずかしさを振り切りたかったのに、余計に恥ずかしくなってしまって。
「……そんなことはないです」
半ば腰を浮かしかけて座り直し、小さな声で続けた。
今思い出しても、どきどきと胸が痛くなる。
あああ、本当になんで僕はいきなりあんなことを言ってしまったんだろう。
今なら千代さんがちゃんと話を聞いてくれて、納得して会ってくれたってわかる。だから最初はお久しぶりですねとか、お元気そうですねとか、そういう話から始めてもよかったんだぞ。
きっと数年前に戻ったように思って、千代さんとの糸が切れてしまったらどうしようと焦ってしまったんだ。
「あの……僕はこの先も画家としてやっていくつもりです。僕と夫婦になったら苦労をかけることになるかもしれない。それでもかまわないでしょうか」
千代さんは驚いたように目を見開いて、それから、ぽっと赤くなった。
はい、と撫子が笑った。




