弐―続
「はい、なんでしょう」
「その大きな絵に下絵もなしで、そのまま描くのかい?」
「そうですけど。そのために花を取ってきたんですから」
「だ、大胆ていうか無造作っていうか……直に描く人を初めて見たよ」
下絵があってもなくても描いてしまえば変わらないんじゃないか? 今の、この「こころもち」を描き込みたい。焦っているわけではないけれど、画面に花が描かれて見えて気持ちが走る。ここは大ぶりな花のかたまり、こっちは枝を下げて、ここは色を落として、もうそんな風にできあがっているのだから。
「写生と同じじゃないですか」
「それはそうなんだが」
僕がそう言うと、溝口さんは半ば呆れたような顔で頭を振っていた。
僕は仕上げた『水鏡』を日本絵画協会第三回共進会に出品した。
……のだ、けれど。
「菱田君は何をへこんでいるんだね」
頭の上で観山さんの声がする。机に突っ伏していた僕はのろのろと顔を上げた。
「陛下にもご覧いただいたのに。もっと高い評価ならよかった……」
そう、この共進会の作品は今上陛下にも御覧いただいたのだ。もっと前向きな批評がほしかった。
「そこかい」
「観山さんは特別銀牌ですもんね!」
「いやいや、簡単に追いつかれても困るから。長年描いていて、あっさり君に負けたら私の立つ瀬がないだろう」
やんわりした観山さんの口調に、甘えて拗ねていることを自覚して恥ずかしくなる。わかっている。これはただの愚痴だ。
だけど女性が立っているだけ、っていう評はないんじゃないか。いったいどこをどう見てくれたんだろう。説明しなければ主題がわからないっていうことなんだろうか。絵に意味を見出してくれなかったということは、僕の描き方はそれほどおかしなものだったのか。
「おっ? どうした、拗ねてるのか」
秀さんにも子どもかと、ふくれっ面をつつかれた。
「『水鏡』、銅牌七席だったろ? 大したもんじゃないか」
「ありがとうございます。順位は結果だからいいんですけど、批評家にはもっときちんと評してほしかったんです」
近頃の批評家連中は西洋画が好みらしい。だから余計に変な絵だと言われるのかもしれない。絵画に線があるのは不自然だとか、どうでも日本画というものが気に入らないような話しぶりだった。
「だいぶ評価が西洋画に寄っていたでしょう? 例えば描き方ひとつ取っても、西洋画はこうだと言うならわかりますよ。だけど、全てがこうであるべきって言うのは堅苦しすぎませんか。僕ならもう少し柔軟な見方をしますね」
批評をするなら、一つの意見に偏らず広い視点で見てほしい。良さはもちろん、欠点に見えるところでさえ、それぞれの絵画が持つ特徴なのだから。
日本画が線で表すことの意味や必要性も深く読み取ってほしいと思ったのだけどなあ。それが変だと言われてしまうなら、線で描かれてきた浮世絵も、やまと絵もおかしなものなのか。それは単なる誹謗ではないのか。
「ああ、 俺もミオさんの話に賛成だぜ。あれは揚げ足取りみてえな言い方だからな、俺もおかしいと思う」
「全部の線を取っ払え、だったかな。確かにいきなりそう言われても困るよねえ」
観山さんがこんな風に言うのも珍しい。続いた言葉も意外に挑発的だった。
「日本画ではできないと思われているみたいだ」
やっぱり考えていることは皆一緒だな。批評家がそこまで言うなら僕らだって黙っちゃいない。それなら次は輪郭線をなくして描いてみせよう。その描き方でも西洋画にはならない。そのこころもちが日本画である限り、日本画として成り立つはずだ。
それでもなにか言うなら言ってみろと、だんだん僕の負けん気が頭をもたげてくる。
「こらこら、私達は教える立場だっていうのも忘れないでくれよ」
観山さんが助教授の立場で釘を刺す。この人の怒り方は画風と同じだな。怖い目をしているのに、それを穏やかさに包んでしまうんだから。
ああ、本当にやることがたくさんある。作品の構想も練りたいし授業の準備もある。もっと時間があったらいいのに。
そんな中、不穏な気配が美校に漂っているのを僕はまだ知らなかった。




