壱―続
僕が美校の受験を決めたのは、学校の先生と兄さんに勧められたからということもある。
「ご家族で芸術家肌なのだろうね」
授業中に描いた僕の絵を見た先生は、そんな風におっしゃった。
確かに僕の家のご先祖を辿れば、元々、藩の蒔絵師というお役だったそうだし、僕は子どもの頃から絵を描いたり何かを作ったりするのは好きだった。
だけどさ、絵を描きたい気持ちっていうのは、血筋なんかで決まるものではないだろう? だから最初に絵を描くことを勧められた時、僕は先生に反発したかったのかもしれない。法律家になりたい、絵なんか描かない、なんて言ったんだ。まったく、子どもっぽいったらないね。
まあ、それでも何よりの一番は、いろんな絵をたくさん描きたいっていう気持ちが強くあったことなんだけど。
けど、兄さんは……七つ違いの為吉兄さんは、本当は自分が絵描きになりたかったんだ。
ちょうど設立が決まったばかりで、教えてくださる先生も素晴らしい方だから、そう言って兄さんは熱心に受験を勧めてくれた。兄さんが強く言ってくれなければ、東京へ出てまで絵を描こうとは思わなかったかもしれない。
総領だから、って。兄さんは夢は諦めて学校の先生になることを選んだ。その時の寂しそうな顔を見てしまった僕が、代わりにそれを叶えようと思ったって不思議じゃないだろう。
「菱田三男治君だね」
想いの中にいた僕は、そこから引きずり出された。
そうだ、兄さんに結城正明先生の画塾に連れてきてもらっていたんだっけ。
「はい、よろしくお願いします」
ご挨拶申しあげて、お顔を見る。父上くらいのお年だろうか。結城先生は美校の日本画科で教官をなさっておられるんだ。
東京美術学校は、文部省が伝統美術の保護と日本画振興を目的として作った官立の学校で、全国から入学希望者が大勢集まってくる。入学するためには画力も技術も必要になるからと、先生はご自宅に美校受験のための画塾を開いてくださっていた。
「実はこの春から忙しくなってしまってね」
他にも教諭を嘱託された学校が二校もおありなのだそうだ。
「少し前も古美術調査で出ていて、やっと奈良出張から戻ったんだよ」
「それは、お忙しいことですね。三男治をお願いして大丈夫でしたか」
「ああ、それは大丈夫だよ。美校も文部省の肝煎りだからね」
ありがたいことに快く引き受けてくださった。
兄さんも今年から東京物理学校の教授になったし、先生同士というのは話が合うのかな。さっきからずっと二人で話している。
静かにしていなさい、と兄さんから言われているのだけど。
あれを見たい。
どうしてもそこに目が行ってしまうんだ。あの絵をよく見たいなあ。声をおかけしてもかまわないだろうか。
「あのう……」
「どうしたね」
「あの絵、見せていただいてもかまいませんか」
僕が指差したのは写実的な外国人の肖像画だった。とても緻密で真に迫っている。
「あれは銅版画だよ。医聖ヒポクラテスの像だ」
銅版画というのは、銅板が酸に溶ける性質を利用するもので、これは食刻という技法なのだそうだ。
腐食膜を塗ってから針様のもので絵柄を彫り酸に漬ける。そうすると彫ってくぼみを作った部分だけが腐食するから、そこに染料を乗せて刷る。これが凹版印刷と呼ばれているものなのか。
「他に文部省の依頼で地図もやったんだよ。やはり汎用のものは刷れるのがいいね」
「ああ、それは確かにそうですね」
だんだん、先生の声も兄さんの声も耳に入らなくなってくる。
これはとても繊細な絵だ。髭や髪の毛の一筋まで丁寧に描かれている。線の一本一本が細いのは染料を乗せるくぼみをひとつひとつ掘っているからなんだな。木版もそうだけれど、どれだけ手間のかかる手法なんだろう。それでも印刷という長所があるから……
「ミオさん……ミオさん」
「兄さん?」
「あまり熱中していないで。先生の前だよ」
「あっ! すみません、つい見入ってしまって」
僕が小さくなると、いやいや、と先生は鷹揚に言ってくださった。
「かまわんよ。そのくらいのほうが頼もしい。では日程を決めましょうか」
先生は改めて僕に視線を向けられる。その目にやる気を問い直された僕は大きく頷いて返事をした。
これから、ここで絵を教えていただけるんだ。そう思うと嬉しさで頬が熱くなった。
明日から伺うことになって、僕らは先生のお宅を辞した。
絵が描けると思うだけで気持ちが浮き立つ。写生も模写もやるって言われたなあ。最初は何を描くんだろう。
そんな浮かれている僕に兄さんが言った。
「じゃあ、場所はわかったかな」
「もう覚えたし、念のため道順も書いたし大丈夫だよ。兄さんは心配症だなあ」
「ミオさんは時々いろんなものがお留守になるからね」
帰り道にさっそく釘を刺されてしまった。