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つきが世界を照らすまで  作者: kiri
東京美術学校にて日本画を描くの事
14/72

漆―続

「すみません、描いていらっしゃるとは思わなくて」

「いえ、本当にいいんです。もう描くのが習い性になっていて僕自身も描いてるのに気づかなくて」

「まあ」


 その人は花が揺れるように笑う。なにかを掴めそうな気がした。

 それでは、と小腰を屈めた様子が風に揺れる野の花のようだ。今、帰ってしまったらこの人とは二度と会えないだろう。そんなのは駄目だ。この手からこぼれてしまっては二度と掴めない。


「待ってください」


 僕は思わずその人の手を掴んでいた。


「あの……もしよろしければ、あなたの絵を描かせてもらえませんか。僕は美術学校の菱田三男治といいます。卒業制作の絵を描きたいんですけど、予定していた題材では描けそうになくて。だけど、あなたを見ていたら描けそうな気がしてきたんです。よかったら……じゃなくて、ぜひ描かせていただけませんか」


 一気にそう言った僕に面食らったようで、その人は目をぱちぱちとさせた。

 僕だって驚いてる。初対面の人にはなかなか口をきけない僕が、こんなに言葉を尽くして引き止めてるなんて。


 自分の行動に呆然としながら、その女の人を見た。困ったように首を傾げる様子も、なんだか撫子のようだな。ん?

 うわあああ! 手! 握ったままだった!


「す、すみません、すみません! 失礼なことをしてしまって」


 慌てて謝る僕に、その人は笑いながら言った。


「あの、今日はあまり時間がなくて。明日でもかまいませんか」

「……え? 本当に?」

「はい」

「本当にいいんですか!?」

「はい」


 安心したら膝から力が抜けてしまった。細い細い糸だけれど、これを手繰(たぐ)っていけば描けそうな気がする。


「本当にありがとうございます。助かります。明日、この時間にここでお待ちしてます」


 この人が僕の提案を受けてくれて本当によかった。涙があふれそうになって、勢いよく頭を下げた時にぐいっと袖で顔を拭った。

 女の人に手を振り返して、僕は学校へ向かって駆け出す。


 この手に掴んだのは細い糸だけれど、描きたいと思うものが形を成す時のこころもちに繋がっている。まだぼんやりとした感触だけど確かにそう思うんだ。


「おや、参拾伍円君。今日はだいぶ上機嫌だねえ。何かあったのかい」

「下村さん、じゃない、先生。聞いてくださいよ。絵を描いてもいいって言ってくれた女性がいるんです。人物を描いてみようと思って」

「ほう、焼き討ちは描かないのかい。ずいぶんと行き先が変わったねえ」


 焼き討ちの話を振られて、戦いの間、家で待つだけの人達へ思いが向かった。

 悲しみと不安と、(うら)みも持つかもしれない。今も昔も戦いの無情は変わらない。ふと雅邦先生の『三井寺(みいでら)狂女図(きょうじょのず)』の構図が浮かぶ。ああ、これは……


「どうしたね? 大丈夫かい」

「……できた気がします」


 それだけで下村先生は察してくれたようで、よかったねえ、と頷く。


「素敵な女性と出会ったようだねえ。名はなんという人なんだい?」


 続いたその言葉で僕は大変なことに気づいて青くなってしまった。


「どうしよう、名前聞くの忘れました」

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