壱 汽車を降りて東京に立つ
駅の中をゆるゆると車窓が動く。
まだ止まらないのかなあ。
田舎と違って東京府というところは騒がしそうだ。ぺたりと顔を張りつけた窓から、ざわざわとひっきりなしに誰かが動いているのが見える。
どきどきと僕の心がうるさく騒ぐ。
そのうちにようやく、がたん、と最後の揺れがきて汽車が止まった。
いよいよ汽車を降りるんだと思ったら、かあっと頭が熱くなってきた。このどきどきという音が人に聞こえてしまいそうで、余計に熱くなる。
僕はそれを隠すように、さり気ないふりで袴の裾を払い風呂敷包みを背負った。
汽車を降りて東京に立つ。
人の流れを避けて立ち止まり、大きく息を吸った。うええ、ここの空気は飯田よりいがらっぽいし断然暑い。
だけど……ふふ、東京の空気だ。これが東京なんだな。
僕は本当に、東京に来たんだなあ。
駅までの途中に見えた景色の中には、ごちゃごちゃ見えるくらい建物がたくさんあった。だからかなあ、空を狭く感じる。
だけど、そこには何があるんだろう。行ってみたい、見てみたい、そんな風に思わせる雰囲気がある。きっとそう思って人も集まるんだ。
これからは何でも東京だ、って言われてるのもわかる気がするな。ここの様子を見ていると、活気に溢れていて「なんかすごい」って感じなんだ。
ああもう、本当にどきどきうるさいったらない。静かにしてくれなきゃ、いろんなものを見逃しちゃうじゃないか。
っと、いけない。為吉兄さんを探さなきゃ。
辺りを見回すと、人と言葉が川みたいに流れていく。この中から兄さんを見つけるのか。うわあ、洋装の人もいる。飯田じゃあ、ほとんど見ることもなかったのに結構着てる人がいるんだなあ。
どこだろう、迎えに来てくれてるはずなんだけどな。背が高いほうだから見つけられると思うけど……あっ、いた! わあ、兄さんも洋装だ。
「兄さん!」
声を上げた僕に気がついて兄さんが手を振ってくれた。
「やあ、ミオさん。無事に着いてよかった。長旅で疲れたろう」
「兄さん、洋装なんだね! びっくりしちゃったよ」
「ミオさんが見つけやすいようにと思ったんだが。どうだい?」
言いながら両手を広げて見せてくれる。
さすが僕の自慢の兄さん。もうすっかり東京の人みたいだ。
「格好良いなあ。それ着て物理学校に行くの?」
「たまにはね。それより疲れたんじゃないかい」
「あっ、そうなんだよ。本当に遠かったあ。四日もかかるんだもの」
「飯田は山の中だからな」
僕は信州飯田から上京したところだ。しばらくは兄さんが下宿に居候させてくれることになってる。そこから東京美術学校へ入学するための画塾に通わせてもらえるんだ。
「高崎からは鉄道に乗ったんだ。景色が変わっていくのは面白かったよ。どんどん近づいてきて、あっという間に後ろに流れていくの」
「ははは、そうだなあ」
兄さんが笑いながら僕の伸びかけの坊主頭に手を乗せる。
もう! 僕は子どもじゃないぞ。ひとりで東京まで来られたのだし……まあ、確かに同じ年の子に比べれば背は低いんだけどさ。
こそばゆい感じと腹立たしい気持ちが混ざって、なんとも言えない気分だ。
「さて、行こうか。こっちだよ」
僕の気持ちを置いてけぼりに、兄さんはさっと歩き出した。
「あ、待って!」
僕は慌てて後を追いかけた。
兄さんの後ろを歩きながら周りを見回す。初めて見るものばっかりでどきどきするなあ。
あちこち見ながら歩いていたら、本当に置いていかれそうになってしまった。
兄さんに知られないように上着の裾をそっと掴む。だって道を行く人が多すぎるんだもの。ついて行くので精一杯だよ。
やっぱりこの人達は、皆なにか面白いものを探してるのかもしれないぞ。きっとそれを見つけるのは早い者勝ちなんだ。
そんな空想をしていた僕の目に、箱を引く馬が飛び込んできた。
「待って、兄さん。あれ何?」
「ああ、馬車鉄道だよ」
目が、まん丸になる。馬って荷を運ぶだけじゃないのか。馬車鉄道というのは人を乗せて町の中を行く。手を伸ばせば触れるくらい傍を通っていくんだ。
「ねえ兄さん。あの馬車鉄道は面白いね、家も人もあんなに近いのにすぐ横を通るのは驚いたよ。あれ乗りたいなあ」
「そうそう乗るものではないよ。私だって用事がある時だけだ」
「そうなんだ……」
つまらないなあ、あれに乗ってどこかへ行ってみたい。あーあ、行ってしまった。
だけど早々にあんなのが見られるなんて、僕は探しもの名人かもしれないぞ。他にも何か……
「ミオさん、危ない!」
「わっ!」
あああ、びっくりしたあ。危うく人力車に巻き込まれるところだった。
「まったく。もう十五歳なんだから少し落ち着きなさい」
「……はい、ごめんなさい」
「この辺はよく歩くところだから、ちゃんと気をつけるんだよ」
はい、と項垂れて返事をしたけれど、やっぱり初めての場所はあれこれ珍しくて。結局、兄さんの下宿に着くまで何度か叱られてしまった。