校内では他人でいたい教師とイチャイチャしたい女子生徒は、密かに付き合っている
とある私立高校で、俺・志水直也は数学を教えている。
月曜日の3時間目。この時間、俺は2年D組で授業をしている。
現在の授業範囲は、ベクトルだ。県内随一の進学校ということもあり、みんな理解が早く応用も効く。
目に見えて成長を実感出来るわけだから、教えている身としてもやり甲斐が感じられた。
「それじゃあ35ページの練習問題を解くように。時間は、そうだなぁ……10分間でどうだ?」
開始宣言すると同時に、生徒たちは一斉に手を動かし始める。
これはテストではなく、あくまで練習問題。だからわからないところがあれば、手を上げて質問して貰って構わない。教師として、誠心誠意応えよう。
そんな風に考えながら見回っていると、「先生!」と一人の女子生徒が俺を呼んだ。
「どうした? わからないところでもあったか?」
「というより、このベクトルがあっているかどうか確認して欲しいんです。今!」
解いたは良いけど成否が不安だから、先んじて確認しようということか。勿論そういった要望にも応えるつもりだ。
「ん? どこを確認して欲しいんだ?」
「ここです!」
女子生徒の指差すところを見ると、そこには……「私→♡先生」と「先生→♡私」という二つの図が書かれていた。
「どうてすか? あってますか? 大正解?」
「……式自体は間違っちゃいないが、解くべき問題が違う」
口ではそう言いつつも、内心かなり歓喜していたりする。だから彼女のノートに「俺も好きだよ」と書いておいた。
「エヘ。エヘヘヘヘへ」
……みっともない笑い方をするな。周りに勘繰られるだろうが。
この女子生徒は、俺にとってただの生徒ではない。言い換えるならば、他の生徒とは違う存在だ。
彼女――三条礼は、俺の恋人なのだ。
教師が自分の勤務している高校の生徒と付き合うなんて、知られるわけにはいかない。
この関係性に秘密は付き物だし、付き合う時には「口外しないこと」を条件にしてしまった。
高校の評判を落とさない為であったり、自分がこの仕事を続けていく為という理由もあるけれど、それ以上に礼の風評被害を避けたいのだ。
教師と付き合っているなんて知られたら、礼がどんな陰口を叩かれるかわかったものじゃない。
「色仕掛けをしてテスト範囲教えて貰ってんだろ!」みたいな、あらぬ疑いもかけられてしまう。
だから校内では他人として生活し続けるべきなんだけど……
練習問題の解説をしていると、皆が前を向いているのを良いことに礼が「好・き」と口パクしてくる。
本当、こっちの気も知らないで誘惑してくるわけだから、毎日困ってしまう。
◇
「志水先生」
職員室に戻ると、同僚の間宮先生に声をかけられた。
間宮先生は俺の2個上の先輩で、2学年の現代文を担当している。
俺が新人の頃は教育係として、大変お世話になったものだ。いや、今もお世話になっているんだけど。
「先生は次も授業ですか?」
「はい。4時間目はB組です」
「私はA組なんですよ。……良かったら、途中まで一緒に行きます?」
「良いですね」
若い教員(それも異性の、だ)が二人並んで歩いていると、よく高校生たちから冷やかしの声を浴びせられる。
「あー! 志水先生と間宮先生、また廊下でイチャイチャしてるー!」
「イチャイチャしてない! 廊下を歩いているだけだろ!」
「そんなこと言って〜。本当は鼻の下伸ばしちゃってるくせに」
「……間宮先生に迷惑だから、そういうこと言うのやめなさい」
礼と付き合っている俺は、当然間宮先生とそういった関係ではない。恋愛感情も抱いていない。
しかし間宮先生との関係を噂されるこの状況は、俺としては都合が良かった。
だって、そうだろう? 俺が間宮先生に気があると思われているうちは、礼との関係がバレることはない。
これ以上のカモフラージュはないと考えている。
「間宮先生、すみませんね」
俺は間宮先生に謝罪する。
表向きは生徒たちの揶揄いで迷惑をかけていることに対してだが、実際は俺のカモフラージュに付き合って貰っていることに対しての意味合いの方が強かった。
「別に、気にしていませんよ。……志水先生こそ、私と噂されて迷惑じゃありませんか?」
「迷惑だなんて、そんなことありませんよ」
「それは良かったです。……代わりに「嬉しい」って感じてくれたら良かったんですけど」
「……何か言いました?」
「いいえ。何も」
一瞬間宮先生の本音のようなものが漏れた気もしたが、どうやら勘違いだったみたいだ。
雑談をしているうちに、気付けば2学年の教室に着く。
「それでは志水先生、授業頑張って下さい」
「間宮先生こそ。また、職員室で」
B組の教室に入ると、待っていたのは間宮先生と歩いていたことに対する追及で。
狙ってやっていることだけど……ちょっと効果がありすぎるかもな。
◇
昼休み。
俺は職員室から出ると、ある場所に向かった。
昼食をとる場所は、毎日決まっている。
学食でもなければ、屋上でも中庭でもない。授業で使う資料等がしまわれている、数学準備室だ。
数学準備室で午後の授業の準備をしていると、トントントンと部屋のドアがノックされる。
「どうぞ」と声をかけると、
「来ちゃいました」
一人分には大きすぎる弁当箱を持って、礼が入ってきた。
俺と礼は、毎日数学準備室でランチをしている。
数学教師以外で数学準備室に用事のある人間なんていないし、その数学教師だって俺以外まず立ち寄らない。
密会するのに、ここ以上に最適な部屋なんてないのだ。
礼は弁当箱を広げる。相変わらず、彼女の作るお弁当は美味しそうだ。
「いただきます」と早速卵焼きから箸で摘もうとすると、礼に待ったをかけられた。
「食べる前に、一つだけ言いたいことがあります」
「あっ、あぁ。何だ?」
「……間宮先生とは、本当に何もないんですよね?」
どうやら礼は、俺と間宮先生が密かに付き合うまではいかなくとも、好き合っているのではないかと疑っているようだ。
まぁ、間宮先生は魅力的な大人の女性だからな。彼氏が取られないか心配になるのも、無理はない。
だけどそんな心配は杞憂だ。俺が好きなのは、礼だけである。
「間宮先生との噂は、お前との関係性を知られないようにする為のものだよ。他意はない」
「そんなこと、頭ではわかっているんですけど……」
礼は視線を外すと、ほんの少しだけ口元を尖らせる。
「カモフラージュの為だとわかっていても、不安になっちゃうんです。それに……先生が別の女の人と噂されるのも、嫌だと思っちゃったり」
「……ったく。バカな女だな」
本当、要らぬ心配や嫉妬だというのに。
俺は礼を安心させるべく、彼女の頭を撫でる。
嬉しそうな反応を見せる礼だったが、どこか不満も残していた。
「子供扱いしないで下さい。きちんと女として見て下さい」
「そう言われても、どうすれば良いのかわからないんだが?」
「簡単ですよ。こうすれば良いんです」
礼は突然身を乗り出し、自身の唇を俺のそれに押し付けてくる。
「ごちそうさまでした♡」
「――っ」
まだ、いただきますする前だろうに。
お昼に食べた卵焼きは、麺つゆベースのだし巻き卵だった筈なのに……どういうわけか、無性に甘く感じた。
◇
礼との交際は順調であり、俺たちの関係も周囲に知られていない。
順風満帆な俺の日常に波紋が生じたのは、金曜日のことだった。
いつものようにカモフラージュとして間宮先生と次の時間の教室に向かっていると、ふと彼女からこんな誘いを受けた。
「志水先生、デートしてくれませんか?」
デートって……。俺も彼女がいる身だ。その意味がわからないわけがない。
授業開始直前だったこともあり、その場で返答をすることは現実的に不可能だった。
……仕方ない。次の休み時間にでも、断りを入れておくか。
そう考えていたんだけど……壁に耳あり障子に目あり。どこで誰か聞いていたのか知らないけど、次の休み時間には既にデートの話が校内に知れ渡っていた。
「なぁ、知ってるか? 間宮先生が、志水先生をデートに誘ったんだってよ」
「えっ、マジで? ということは……遂に二人は恋人同士に?」
職員室に戻る道中、廊下を歩いているだけで数多の視線が注がれる。
しかし問題は、そんなことではない。
これだけ広まっているとなれば……当然、礼の耳にも入っていた。
その日の昼休み。数学準備室に着くなり、デートの話を持ち出された。
「先生……私、いつかはこんな日が来るんじゃないかと思っていたんです」
「こんな日って?」
「先生が間宮先生に口説かれる日。間宮先生が先生を好きなことくらい、わかってましたから」
そうだったのか。俺は間宮先生の気持ちに、全く気付いていなかった。
女の勘とは、恐れしいものである。
「……それで先生は、どうするんですか?」
「どうするって、何のことだ?」
「とぼけないで下さい。私から間宮先生に乗り換えるんでしょう?」
俺は礼の言葉をすぐに否定出来なかった。
図星だったからではない。礼の口からそんな不安が出るとは、予想にもしていなかったからだ。
しかし礼はその一瞬の間を、肯定と捉えたようで。
「間宮先生、綺麗ですもんね。優しいし、良い匂いがするし、スタイルも良いし」
「……確かに」
「あと若いし」
「いや、お前の方が若いだろ」
なんたってJKなんだから。
「とにかく! 私が先生の立場だったら、こんなちんちくりんなガキよりも間宮先生を選ぶって!」
叫びながら、礼は涙をこぼす。
「だからフるなら早くしてよ。フッてくれないと、恨み言一つ吐けないじゃん……」
依然泣き続ける礼を――俺はそっと抱きしめた。
まったく、この女は。本当は悲しくてたまらないくせに、それでも俺の幸せを一番に考えてくれている。
俺が間宮先生を選ぶというのなら、その選択を尊重しようとしてくれている。
そういう優しいところに、俺は心底惚れているんだ。
礼を安心させる為頭を撫でようとしたが、寸前のところで思い止まった。
俺は彼女を子供扱いしていない。一人の女性として見ている。だから、もっと他の方法で慰めるべきだよな。
俺は礼の涙を拭うと、そのまま彼女にキスをする。
「! ……先生、どうして?」
「間宮先生の誘いなら、既に断ったよ。俺が好きなのは、礼一人だからな」
「……だったら、それを証明して」
俺が礼だけを愛している証明か。それはなんとも難しい問題だな。
きっと、一朝一夕では解けない。だから、一生をかけて、その証明をしていくつもりだ。