苺のセレナーデ
「ショートケーキの苺、あげちゃうくらい好き」
彼女はショートケーキをフォークでぶっ刺しながら言った。私は甘党ではないので、この場では一杯の紅茶で凌いでいる。「彼氏のどんな所が好きなのか」は愚問だっただろうか。放課後の水曜日。週の真ん中、水曜日。私は吹奏楽部をサボっているし、彼女は居残りをサボっている。どうでも良かったのだ。学校も部活も将来の事も。代わり映えのない毎日を過ごせればそれで良かった。平均寿命の上昇によってモラトリアムも長くなるべきである。私なりの「普通」が壊されなければ何もかもどうでも良かった。そして、彼女の奇妙な惚気を考えるのも煩わしかった。しかし、彼女の独特な理論はとても好きだ。押し付けがましくないので一意見としてすんなり聞き入れられる。人間はどこか他人行儀でいた方が精神衛生上、良い気がする。こうやって時間を溶かして今日という一日にしてしまう作業が私は好きだった。
「カウンセリング行った?」
叔母さんは「おかえりなさい」よりも先にこう言う。はいはいと適当に返事をして、手を洗っていると叔母さんのため息が聞こえた。私以外の家族が亡くなってから独り身の叔母さんと二人暮らしをしている。私は現実を受け止めるのがあまりにも器用だったらしく、精神的なダメージがほとんどなかった。けれども、私は「遺族のためのカウンセリング」を受けている。家族と仲が悪かった訳ではない。食事はタイミング次第で全員揃って食べていたし、両親とも妹とも上手くやっていた。涙一滴も出ない私を祖父母は「人でなし」と呼んだ。その頃から人には期待をしなくなった。
「おはようございます」
正門で先生に話しかけられて小さく会釈をした。学校に着くと、私は耳を塞ぐようにイヤフォンをする。外からの何かを遮断するために。そして、職員室に呼び出しされても私は動じなかった。妹の楽器を弾くため。そんな理由で私は途中から吹奏楽に入った。妹のホルンは私には似合わなくて、ホルンからも拒絶されていて、練習すればするほど下手になる気がした。先生もサボりを注意するだけで退部は口に出来ないようだった。申し訳ないのだが、しょうがない。美術部を辞める理由を探していただけなのだ。「吹奏楽部入るので辞めます」と言った。この瞬間のために私は吹奏楽部員になった。
「ホルン弾いてよー幽霊部員」
私たちは、いつものようにカフェにいた。彼女は私がピアノを弾けるばっかりにホルンも簡単に弾けると思っていたらしい。私も実は少しだけ期待していたのだ。「ホルンって思ったより重いし音出ないし」と私は言い訳した。世界一難しい楽器らしいし。妹はこれを弾きこなしていたらしかった。ホルンを上手に弾ければ妹に近づける気がした。甘党を克服したら母親に近付ける気がしたし、叔母さんともう少し仲良くなれたら父親に近付ける気がした。自己満足に過ぎないけど。
「苺って名前、変?」
彼女は真っ直ぐこちらを見て言った。これが彼女との出会いだったはずだ。気付いたら、彼女はいなかった。いつも私を置いて帰ってしまうのだ。彼女は昔からこうだった。昔?あれ。中々、記憶が思い出せない。しかし、幼い記憶を覚えている人も少ないはずだ。
「気持ち悪、誰と話してるんだろ」
いつの間にか私は一人だった。彼女はすぐにタチの悪い意地悪をする。少し悔しいけれど、考えるには及ばなかった。クラスメイトの女子たちの笑い声から逃れたくて私は急いでカフェを出て走った。彼女のことだけが頭を駆け巡った。どこまで走っても彼女の姿は見当たらなかった。
突然、糸が切れたように体が動かなくなってしまった。もう、私には誰もいない。そんな感覚が全身を張り巡った。私には恋人も友達も家族すらいないんだ。
誰かを特別にしてしまうのが酷く怖かった。特別が特別でなくなってしまう時が。また逆戻りになってしまう気がした。ちゃぶ台がひっくり返されるような、すごろくではじめに戻ってしまうような、そんな恐怖が纏わりついた。怖い。特別にしたら、その特別を私の中でしまっておけるのだろうか。きっと溢れ出した苦しみで傷付けてしまうのだ。苦しかった。あまりにも一方通行で結末が見え透いていたから。私という物語の読者だったら、この時点でああもうこういう事だよねと結論付けされてしまうに違いない。今までに考えられなかった。苦しみが渦巻いた。しかし、私は生きているという実感がとても湧いていて、これが自傷行為なのかと納得した。前までは生きているのか死んでいるのか、自分でもわからなかったから。誰かと共有したい気持ちの正体を知った。それまでは何もかも馬鹿馬鹿しくて無意味だった。私は全てを見下して捻くれていた。涙が溢れて仕方なかった。訳もなく、歩いて制御できない感情の意味を知った。
頭がぼんやりとして、また鮮明になった。葬式を思い出す。ひたすらに苦しかった。
家に着くと叔母さんが、玄関で仁王立ちしていた。怒ったような困ったような表情でこちらを見ていた。私はきっと酷い顔だったと思う。鼻水と涙でぐちゃぐちゃなのも気にせずに叔母さんは抱き締めてくれた。私は嗚咽しながら「家族がいなくて寂しい」と言った。とてつもなく寂しく感じた。地球上で私一人でいるような気持ちになった。しかし、叔母さんの体温が伝わってきてたまらなく、帰る家があって良かったと思った。
「やっと、やっと、」
叔母さんは私を抱きしめながら泣いていた。私もようやく家族の死を受け止め始めていた。今までの悲しみを取り返すように大声で泣いた。悲しい。悲しい。悲しい。感情が鮮明になって頭が真っ白になった。これも生きている実感がした。叔母さんと初めて分かり合えた気がした。
「どこ行くの?」
暫く学校を休んでいた私を心配して、彼女は私を家から連れ出した。無言で彼女の後をついて行くと見えてきたのは学校だった。音楽室に連れられたわたしの手にいつの間にかホルンが握られていた。不登校の私が暫く練習していたのはホルンだった。
「好き」
私の口から今までに出したことのない音量で得体の知れない二文字が飛び出した。これが本当の気持ちなのだ。彼女は嬉しそうに笑っていた。そして、その瞬間に私はもう、この感情が実らなくても良いことに気付いた。
「セレナーデ、弾いてよ」
私の指先から流れる拙いシューベルトのセレナーデと彼女の香水が混じって幸せに致死量があるなら死んでいたと思う。ホルン、弾けるようになって良かった。初めて彼女と分かり合えた気がした。この代わり映えのない世界で彼女だけが輝いていた。
いつの間にか日は暮れていてセレナーデも香水も彼女も全てなくなっていた。私は全てを終わりにしたのだった。逆戻りでもゼロからでも構わない。また、新しい物語を紡いでいきたいのだ。
ここまで目を通して頂きありがとうございました。
私の思考の中の特別な人は家族や苺や叔母さんなど身近な人への初めての感情を表現しています。
「苺」の解釈は、イマジナリーフレンド、妹、家族など想像を巡らせて頂けたらと思います。
読者様の出会いに感謝してここで筆を置かせてください。またどこかでお会いましょう。