鳥籠の少女
――お待ちしておりました。
渋みのある声が耳に残って離れない。
――我々が手掛けるのは小鳥の精霊。歌で人々の心に癒しを与える品種です。野生種は雄鳥のみが歌いますが、人の手で繁殖させた精霊たちは雌鳥も美しい声で歌います。
春の市場の片隅の光景は、瞼を閉じるだけで今も優しい蝋燭の灯のように浮かび上がる。同じ空間で売られていた花の精霊たちの香りの心地よさは今も忘れられない。別の品種の同胞たちの聞きなれない歌声も、懐かしい思い出となっていた。愛らしい舞を披露していた異種の小鳥たちも、素晴らしく魅惑的な眼差しでお客様に愛嬌を振りまいていた蝶の精霊たちも、誰もかれもが記憶に残り、今でも夢の住人として私の中で活き活きとしている。しかし夢から覚めてみれば、広すぎる世界などもはやそこにはなかったのだと思い知らされるのだ。
狭い鳥籠は慣れたものだ。その広さがたとえ都に住まう貧しい人たちの住まいよりも広くても、彼らほどの自由は私には与えられない。私の役目はただ歌う事。先祖代々受け継いだ歌で主人となったお屋敷の奥様を喜ばせることだけだった。それでも、私は決して不幸などではなかった。奥様はお美しく、優雅で、愛情あふれる触れ合いで私の歌を褒めてくださるのだから。たとえ、奥様には旦那様という方がいらしても、私は奥様の小鳥になれて幸せだった。
――やはり、その子がお気に召しましたか。
小鳥売りも優しい人だった。けれど、懐かしくはあっても、奥様と別れてまで会いたいとは思わない。
――その子は私どもの手掛ける最高傑作。お値段は少々しますが、それ以上の価値のある精霊ですよ。
膝を抱え、月の光を浴びていると、少しはほっとした。私たちの住まう大地を守っていらっしゃる女神さまは、何も人間の方だけをお守りするのではない。私たち精霊たちも、直向きに生き続ければ永遠の幸福が約束された世界へ導いてくれるのだと父母は言っていた。だから、どんなに不甲斐ない状況でも、心だけは輝きを失わぬようにしなくては。
けれど、惨めな思いは消えなかった。
私たちは歌うために生まれてきた。歌うために存在する。だから、奥様の小鳥になれたのだ。愛らしい容姿など飾りに過ぎない。私の真価は音楽の世界に繋がっているはずなのだ。舞を忘れた踊り子に何が出来るだろう。何のために旦那様と奥様が高いお金を出して私を引き取ってくださったのかを考えれば、どんなに今の自分を愛そうとしても暗い気持ちを払拭できない。
だって、私は歌を忘れてしまったのだから。
きっかけを思い出すと今でも心が痛む。なんてわがままなのだろうと自分に呆れてしまう。人間と精霊は立場が違う。生きる世界が全く違う。人間は人間と、精霊は精霊と結ばれるべきなのだ。ましてや片思いとなればなおさらの事。女は男と結ばれて、雌鳥は雄鳥と結ばれる。そんな当たり前だと思っていた世界が変わってしまったのは、全ての始まりであったあの春の市場でのことだった。
――この子にしましょう。
奥様を初めて目にしたあの瞬間からだ。瑞々しい唇から零れ落ちたその声に、私はすぐに魅了された。見た目の美しさは魅力の一部でしかない。容姿だけではなく、声と、ふるまいと、眼差しと、表情と、温もりより伝わってくる全てに、私は心を奪われた。こんなに素敵な人の愛鳥になれるのなら、生まれ育った家と別れを告げるのも寂しくはないだろう。安心感に包まれて、その人の手で約束の赤いリボンを結んで頂いたのだ。
始まりは憧れだった。主人となってくださったお二人の姿がとても美しくて、精霊にはない魅力に心が囚われていた。けれど、だんだんとその憧れが変化していったのだ。日々、私に向き合って接してくれる奥様の魅力は、慣れてしまうどころか時間を重ねるごとに増していく。いつしか私は奥様に甘えられるだけで幸福になっていた。
小鳥たちの幸せは新しい家で愛されること。
先祖代々繰り返されてきた人間と精霊の絆を全身で受け取りながら、私は奥様のためだけに歌の練習に精を出し、昨日よりも今日、今日よりも明日と素晴らしい歌を求めて、ただ求めて、自由の利かない鳥籠の中で暮らしてきたのだ。
けれど今は、全てを忘れて飛び立ってしまいたかった。格子窓から見える青空はとても美しく、ちっぽけな私を包み込んでくれそうだ。女神さまの暮らす月の森に棲んでいるという野生の小鳥たちの自由さが羨ましかった。野生の雌鳥たちは歌を求められない。雄鳥たちから愛を囁かれ、あらゆる危険と引き換えに純粋な生存目的のみを考えて暮らすことを許されている。
それとも、彼らは彼らで安全な暮らしに憧れるのだろうか。ここにいれば、飢える心配がない。人間たちの庇護が条件だが、天敵に命を奪われる心配もない。自由の条件は残酷な死であると小鳥売りは言っていた。捕食者たちより与えられる死は、決して安らかなものではないのだと。ならば私はとんでもないわがまま娘なのかもしれない。
でも、今の私には分からなかった。どうしてここにいるのか。ここにいることを許してもらえているのか。歌を忘れてしまった私を、どうして奥様はお許しになるのか。分からなくて、そして、辛かった。奥様が優しくしてくださればくださるほど、不甲斐ない自分が赦せなくなる。だって、私が歌えなくなった理由は、奥様と旦那様への嫉妬なのだから。
――もうじき、新しい家族が増えるのよ。
奥様の口から伝えられたその衝撃は今でも忘れられない。卵を産む私たちと、子どもをお腹に抱える人間たちとの違いを目の当たりにした。
――愛する我が子にあなたの歌を聞かせてあげたいわ。
人に飼われた小鳥たちは、いつの日か人間たちの決定で自分の家庭を築くことになる。初めから、私の恋物語の行方は決まっていたのだ。それはもちろん分かっていた。分かった上で妄想していた。分かっていたはずだった。ただの夢を見ているだけだと自覚しているはずだった。けれど、私は本当の意味で分かってはいなかったのだ。
日に日にお腹の大きくなっていく奥様を見ながら、それでも、私は歌を歌った。いつか目にする奥様の子どものために、世界の美しさを音楽にのせて、安らかな旋律を届けるために、歌の練習を繰り返した。
けれど、日に日に歌は弱まっていき、やがては歌えなくなってしまった。
私がここにいる意味はあるのだろうか。生家の小鳥売りはきっと歌えない私のことを噂していることだろう。きっと私はここにいるべきじゃない。心は真っすぐあろうとしても、暗い気持ちは残ったままだった。それでも、これだけは決めていた。どんなに辛かろうとも、奥様と旦那様、そして二人の子どもを恨むことだけはしない。そうでなければ、あまりにも惨めではないか。だから、私は決めていた。たとえ歌を失ったとしても、たとえ居場所を失っても、心だけは清らかであらねばならないのだと。
「もう起きていたのね。さあ、おいで。奥様がお待ちですよ」
いつの間にか現れていた使用人に声をかけられて、私はようやく朝が訪れていたことに気づいた。安らかな女神さまの時間は過ぎ去って、遠い異国の神様の支配する世界が訪れる。朝も昼も明るくて好きだけれど、落ち込んだ心にその光は眩しすぎるのだ。
黙っている私の手を優しく引いていく使用人は、若い娘らしく柔らかい手をしている。微笑みも、言葉も、眼差しも、心優しく私を見守ってくれている。それでも、使用人の慈悲はその場しのぎの慰めにしかならないのが残酷な現実だった。私の今後を決めるのは彼女ではない。連れていかれる先で待っている奥様である。旦那様は私をお金で買って以来、全ての決定を奥様に任せてしまわれたから、私の今後はすべて奥様に決められてしまう。
愛する奥様の口で、この場所を追い出されるとしたらどうしよう。私は生きていけるだろうか。生きていけたとしても、まるで魂の抜け落ちた人形のように世界を眺めていることしか出来ないのではないだろうか。不安が重なれば、足取りも重くなる。それでも、彼女と共に歩まなければ、いつまで経っても苦しいままなのだ。
身重の奥様をあまりお待たせしてはいけない。かつて私が毎日のように歌を捧げてきたあの部屋へ、思い出を重ねたあの部屋へ、早くいかなくては。
それでも歩めば歩むほど、この御屋敷でいただいた思い出が心の中に満たされて、涙とともに思いがこみ上げてきて、全てを吐き出したくなる衝動に駆られてしまった。使用人に心配されながら、それでもどうにか歩んで、私はようやく奥様のもとへと到達した。
扉が開かれ、朝日を浴びながらこちらを振り返る麗しいそのお姿は、尊すぎて恐ろしくなるくらいだった。愛おしい思いが胸いっぱいに広がったけれど、この先の事を想うと背筋が凍りそうな恐怖と緊張感に苛まれ、一気に苦しくなってしまった。
ああ、私はどうなってしまうのだろう。女神さま、どうかお守りください。
「そこへ」
短く指示されて、用意されていた椅子に腰かけた。奥様と正面から真っすぐ向き合うのは、春の市場で初めて出会ったあの日以来のように思う。見れば見るほど、あの時以上の感情が胸いっぱいに広がった。大好きな、大好きな、奥様がそこにいる。けれど、もしかしたらその口が告げるのは、残酷な別れかもしれないのだ。
「歌えなくなったお前の事を、小鳥売りがとても心配していたの」
奥様の声が耳の中でこだまする。
「なにか悪い病気ではないのかと、そうであるならば、お前を引き取って治療に専念させなくてはと仰っていたわ」
そこから示されるのは、ただただ暗い未来だろうか。どんな環境に置かれたとしても、私がまた歌える日が来るなんて思えなかった。私は愛に破れ、欲に溺れ、ただ一つの取り柄といってもよかった音楽を失ってしまったのだから。素敵な歌ならば、他の小鳥にも歌えるのだ。私の代わりなんていくらでもいる。取り替えられれば、私の居場所はもうここにはなくなってしまうのだから。
耐え切れずに顔を伏せてしまう私に対して、奥様はただじっとこちらに視線を向けていた。どうか、どうか、憐れむような目で見ないで欲しい。
「小鳥の管理は生家の小鳥売りの指示に従うのが慣習。常識ある飼い主ならば、お前を生家に返してあげるのが正解なのでしょう」
それでは、私は――。
もはや顔はあげられず、涙を堪えるのに必死だった。
「けれど」
その時、奥様は急に立ち上がった。そっと私に近づいてくると、ゆっくりと手を伸ばし、私の頬に触れていく。その感触があまりにも嬉しくて、私は目を見開いてしまった。つられるように視線をあげて奥様のお顔を見てみれば、悩んでいるような表情で私の事をじっと見つめていた。
「――けれど、私はどうしても決断が出来ないの。お前を返すのが正しいのだとしても、この御屋敷でお前が無邪気に笑って、歌をうたってくれた姿が忘れられない。私は残酷なのかしら。お前がこのままでは歌えなくなってしまうのだとしても、その療養させるために手放すくらいなら、歌えないままずっと傍に居て欲しいと願ってしまうの」
目を細める奥様の姿には、月の光のように柔らかな印象があった。私はただただ驚いて、奥様のお顔を眺めているばかりだった。てっきり、送り返されるとばかり思っていたものだから、その言葉の意味をきちんと理解するのに時間がかかってしまったのだ。
そして言葉より先に、思考のまとまりよりも先に、涙が零れ落ちていった。そんな私を優しく見守りながら、奥様は私に訊ねてきた。
「お前はどうしたい? ここに居たいのか、家に帰りたいのか」
私の答えはもちろん一つだった。
こうして、私はまた歌えないまま鳥籠の中に居続けることになった。状況は何も変わらない。奥様はもうじきお母様になり、私もまたいつかは自分の産んだ卵を温めることになるのだろう。そんな未来を想像しようとしても、今はまだうまく思い描けない。それでも、私の心を曇らせていたものは、あっという間になくなった。私のたった一つの答えを聞いた奥様の表情が、優しい手の温もりが、私の心の不安をすべて拭い去ってしまったのだ。
私はまだ鳥籠の中にいる。それでも、大空にはもう憧れない。私の心の翼を無理に広げる必要はないのだ。自由に空を飛べなくたって、私は幸せだ。成就しない想いは時間をかけて形を変え、いつかは別の何かになるだろう。それでも、愛という言葉に偽りはないのだと、形を変えようと本質は変わらないのだと、この時はじめて理解した。
奥様の前でさんざん涙を流しながら、私は静かに予感していた。きっとまた歌えるはず。その音楽の旋律を、静かに思い描いた。そのときは素敵な音楽を届けたい。
そんな幸福な夢を抱きながら、私は愛しい奥様の温もりを、心行くまで味わっていた。