遅すぎる視察
一
コーヒーチェーン店に入った清美は、冷たいアイスコーヒーで喉を潤した。テーブルには大型のタブレット。周りのテーブルには、ママ友の集まりか、主婦の団体客が占拠していた。
「一口くれよ」
勇次郎がストローつきのコップを奪おうとするが、清美は寸での所で死守した。
「やんやん。間接キスになっちゃうじゃないですか」
「恥ずかしがるようなタマか。あんな破廉恥な真似をした奴が」
銀行から叩き出されて三十分が経過している。反省会というにはいささか気の抜けた空気の中、清美は軽いため息を漏らした。
「世の男性全てが、貴方のように単純な脳味噌の持ち主だったら良かったのですが」
「ちげえねえ」
同調するように、勇次郎は笑った。それから少し目線をそらし、声を落とす。
「お前、これから暇ある?」
「暇も何も仕事中ですが。ホストさん、本業が忙しいのでしたら直帰しても構いませんよ。私の方で上手くやっておきますから」
「ホストは本業じゃねえよ。あっちが副業。まあどっちでもいいけどさ。これから遊園地でもどうかって思ってな」
勇次郎の意図をくみ取れず、清美はテーブルを指で叩いた。
「遊びでしたら、パピヨン婦人を誘ってみたらいかがです」
「遊びじゃねえ。マジだ」
ママ友集団が二人の会話を盗み聞いている。清美は裕次郎をあしらうのが面倒になってきた。
「ほら、あれだよ遊園地の実地調査。お前最近の遊園地知らねえだろ。これから遊園地作ろうってのに、サンプルを知らねえってどうよ」
敵を知り、己を知れば百戦危うからず。勇次郎の言も一理ある。
「言われてみれば、仕事仕事でレジャーの類はとんとご無沙汰です」
「だろー? 善は急げだ」
興奮気味の勇次郎と、それほど乗り気とは言えない清美は表通りでタクシーを拾う。
仲むつまじい様子の二人の姿を、電柱の陰から監視する者がいた。ハンカチをきつく噛みしめたパピヨン婦人である。
「皇さんが、若い女の毒牙にかかって拉致されようとしている。ああ、可哀想な皇さん。悪い虫がつかないように見張らなくては」
パピヨン婦人は、鋸のような歯でぼろぼろになったハンカチを捨てると、髪を振り乱しタクシーを追った。早歩きで。
二
「 出してぇ……、ここから出してぇ」
勇次郎が清美に泣きすがる。大の男がまるで子供に返ったように震えていた。
二人は観覧車の個室にいる。ゆっくりと音もなく高度を上げるアトラクションに情緒を感じるゆとりもなく、清美は手をこまねいていた。
ここに至るまで紆余曲折があった。
タクシーで遊園地に向かった二人だったが、勇次郎が着いた途端に暴走した。
一度乗ったメリーゴーランドに何度も乗ろうとする。清美は目が回ったのですぐに下りた。一体何が楽しいのだろうと訝る。後で聞いてみると、退屈そうな清美の表情がおもしろいのだそうだ。
ミラーハウスという鏡張りの迷路のアトラクションでは、清美が置き去りにされた。
「あれ? ホストさん? どこです?」
周囲は鏡に映る清美の姿が幾重にも広がり、万華鏡のような複雑な模様となっている。
「おーい、ここだー、ここだって」
声はすれども姿は見えず。それもそのはず、吸血鬼は鏡に映らないのだった。
二人で入ったのに、一人で出てきたため、係員に不審がられた。
気を取り直し、ジェットコースターに乗ろうと清美が提案すると、勇次郎は頑なに拒否した。
「私こういう絶叫系に憧れていたんですよ。乗りましょうよ」
「お前一人で行けよ。俺は疲れた」
ベンチでジュースを飲む勇次郎を放置して帰ろうかと清美は一瞬考えた。
「なあ、遊園地って楽しいよなあ」
「そうですね」
「だよなあ。何かさあ」
日差しを避けるように手でひさしをつくり、勇次郎は黙ってしまった。彼の言いたいことが清美にはわかった。
清美は日傘を彼の真上に掲げた。
「その気持ちを忘れないでください。カタギで生きるのに必要なことです」
はいはいと、勇次郎は適当に返事をした。清美はその態度に不満を持ったがしつこく言っても聞くような性質でもない。ひとまず社会性の自覚を得たのは大きな収穫である。
「締めくくりに観覧車でも乗りますか」
清美は善意からそう口にしたのだが、勇次郎は窮屈そうに体をかがめ、下を向いた。
「……、行かねえ」
「ああ、成る程。怖いんですね」
「あ? そんなわけあるか。行くぞ、おら」
安い挑発に乗ってくれる。御しやすい。危うくもあるけれど。
平日ということもあって、どのアトラクションも並ばずに容易に乗ることができる。勇次郎は大股でゴンドラに乗り込んだ。
「ちっ……、狭いな。おい、早く乗れよ」
「レディーファーストって言葉知らないんですか。よくホストやってられますね」
「わりいな。つい楽しみでよ」
その割、勇次郎の顔色は優れない。元から色が白い上、さらに病弱そうに見える。
席は二人掛けのものが向かい合わせに一つずつ。距離の近しい者同士なら、一つの席に座っても問題ない。
しかし、同僚とはいえ今日初めて出会った二人が縮めてていい距離だろうか。
「あの、狭いので向かいの席に行ってくれませんか」
「……」
控えめに拒否感を表しても、勇次郎は意固地になるばかりだ。
首と首が触れあうたび、清美の肌に鳥肌が立つ。勇次郎の広い肩が清美の小柄な体を容赦なく押しつぶした。
「やっぱり高い所、苦手なんですね。一体いくつになるんですか」
「今年で百八十六歳だ。……、狭い所もだ」
どうやって棺桶に入るのだろう。吸血鬼の定番なのに。
清美は勇次郎の説得をあきらめ、外の景色に集中した。
家族連れの客の姿が、まばらに目につく。自分たちの作る遊園地にも彼らのような人種がやってくるのだろうか。総統は皆を焦らせるために三日という荒唐無稽な期間を設けたが、今回のプロジェクトは数年前から温めていたものだ。失敗するわけにはいかない。
「お前、本当に遊園地作れると思ってんのか?」
「ええ……、私、勝てない勝負はしない主義ですから」
「ふん、バカが」
確かに事をなすには、愚を被ることも良しとしなければならない場合がある。清美は眼帯を押さえた。
「時間もあまりないですし」
ゴンドラが頂上に到達し、大きく揺れた。勇次郎の震えもそれに比例して大きくなる。そのおかげで清美の独り言は聞かれずにすんだ。
「ねえ、ホストさん。地に足がつくって素晴らしいですね。私たちはそうならないといけないんですよ」