「世永 朔」になった日
施設で生まれ育った彼女には戸籍がなかった。
見た目からは辛うじて女の子だということが想像出来た。
歳も、施設の前に捨てられた時は2歳くらいの容姿であると判断出来た。
白い肌はどこか日本人離れしていて、その容姿も黒髪と黒目を除けばフランス人形の様であった。
また、彼女は職員の間でも異質の扱いを受けていた。
「機巧少女」
それが彼女のあだ名だった。
施設で文字書きを教われば一週間でマスターし、計算においては基本的な法則を学べば大体の内容が理解出来たと言う。
そんな幼少の彼女を見たあるの者が、「まるで美しいマシンドールの様だな。」と言葉を漏らしたことからそう呼ばれる様になった。
中学生の時、そんな彼女に1つの出会いがあった。
30代くらいのその女性は彼女が土手に寝っ転がっているところに声を掛けてきた。
とても綺麗な女性であった。
初めは寛ぎの邪魔をされ、鬱陶しさがあった。
しかし、何日もそういう日が続けば、少女とその女性は何気ない世間話をするくらいの関係へと変化した。
そんなある日、突然その女性は「自分はもう長くない命なのだ。」と打ち明けてきた。
その唐突な告白に少女は勿論狼狽した。
なぜ自分にそんなことを言ったのだろう。
そう素直に疑問を口にすれば、女性はどこか憂いをおびた表情を浮かべた。
そして「人生最期に貴方みたいな子へ、自分の大切なものを受け継いで欲しいと思った。」と静かにそう言った。
少女が「それは何?」と再び問えば、彼女は「居場所。」と応えた。
少女にはそれが物理的なものなのか精神的なものなのか判断が付かなかったが、彼女がそういうならやってみるのも悪くないなと思った。
それから数日後、彼女から「その中に貴方がこれから必要なものが全部入っているから、誰にも見つからないようにここへ行ってくれる?」と言われ、小さなメモとクッキーの空き缶を渡された。
そして「今日で最後だから。」と付け加え、自身の首にかけてあった小さな緋色の宝石の付いたネックレスを、少女の首へと付け変えた。
「これがきっと貴方を守ってくれる。」
熱い抱擁を受け止めた少女は、「何もお返し出来なくて、ごめん。」と言って抱擁を返した。
強気で明るいその女性もやはり「別れ」は怖いようだった。
抱き締める腕が微かに震え、自分の肩に埋まる頭はピクリとも動かなかった。
そんな彼女を優しく撫でてやれば、小さく嗚咽を漏らした。
それはまるで、向こうが子供でこちらが大人のような錯覚を起こさせた。
その日は陽炎が立ち上る暑い夏の日のことだった。
それから彼女は二度とその土手に姿を現すことはなかった。
彼女がいなくなってから数ヶ月後、少女はメモに書かれたその場所へ足を運んだ。
世話になっている施設から、電車で5駅バスを10分程乗り継ぐとそれは見えてきた。
メモに書かれた住所にあったのは大きな長屋であった。
閑散とした空間に佇むその家はとても穏やかに夏の終わりを見据えていて、立派な日本建築を思わせる相貌であった。
メモに送付されていた鍵で中へ入る。
家の中を一通り見て回ると30畳分程の大きな居間や、それに沿って作られた縁側、5人一気に入れるような風呂など規格外のものがどんどん出てきた。
二階に上がれば6つ程個別の部屋があり、トイレも計3つ分発見した。
後は客間、書斎、台所が一つずつあり、結局全部を見て回るのに1時間も掛かってしまった。
うむ...
途中から薄々感じた違和感。
どうやらこの家、埃やカビは勿論、塵一つ落ちていない。
彼女が姿を消してから数ヶ月が経つというのにこれはどうもおかしい。
恐らく少女以外にもこの家に出入りしている者がいるのだろう。
少女はその人にはお礼と共に、もう少し詳しい事情をいつか聞かなくてはなと思いながら、心地よい縁側に腰をかける。
さて。
とりあえず内装の確認は終わったが、これをどうすれば良いのだろうか。
彼女からは「居場所」としか伝えられておらず、それ以上聞くまもなく姿を消してしまった。
少女はこれからの動きについて何かヒントがないだろうかと、一緒に持ってきていたクッキー缶を開けてみることにした。
何だかんだで渡された日からこの缶は開けられずにいたのだ。
彼女の姿を見せなくなり、数日経ってもあまり実感がわかなかった。
習慣のように染み付いてしまった彼女とのたわいもない会話。
初めの何日間は無意識のうちに土手で彼女の帰りを待っていたりしていた。
彼女の言葉を信じるならば、恐らくもうこの世に彼女はいない。
あるいはどこか遠くの地へ行ってしまっている可能性が高い。
そう頭では分かっている。
だが、何処までも薄情な少女は泣けなかった。
確かに悲しいという感情はあるのに涙は出てこなかった。
そんな自分がこの缶を開けるに相応しいのかと、思ってしまったのだ。
だがこのままでは埒が明かない。
この家に着いても何も分からなかった以上、希望の綱はこれだけなのだ。
カタッ
丁寧に缶の蓋を開ける。
すると、その中には様々な書類が入っていた。
一つずつ確認していくと、この土地や建物の所有権、通帳、様々な人物の名刺が入ったファイルなどが出てきた。
中でも驚いたのは戸籍謄本だ。
それには「世永 朔」という人物の名が記載されており、その人物の証明写真には確かに私の顔が写っていた。
年齢、生年月日、血液型など名前以外の全ての項目が少女のものと類似していた。
私自身正確な自分の詳細が分からないので断定は出来ないが、私の見た目から推測するにこれらの情報に大幅な誤りは見受けられない。
あくまでも憶測に過ぎないが。
しかし、勿論私には世永朔なんて名前に覚えはないし、戸籍のない自分にこんなものある筈が無い。
一層謎を深めた状況に文句を言いたくなったが、再び缶に目を向けると一つの封筒があった。
宛名には「名前のない貴方に」と記してあった。
ゴソゴソと中身を取り出し目を通すと、ことの経緯が記されていた。
拝啓、名前のない貴方へ
まずはこんな形で報告しなければならないこと本当に申し訳ありません。
こんな風に押し付けてしまって、戸惑ってることと思いますが、時間がなかったので経緯はここに記させて頂きます。
初めにもうお渡しした住所の場所には行きましたか。
まだならなるべく早い内に足を運んでくれると嬉しいです。
そこには大きな長屋がありますので、貴方が自由に使ってください。
施設を出なければならない時期になりましたら住んでもらっても構わないし、荷物な様でしたら売って貰っても構いません。
ですが、そこには毎週水曜日に「七瀬」という者が掃除に来ているので1度会って話をしていただけると幸いです。
次に缶の中身の書類についてです。
そこの土地の所有権利書、通帳については自由に扱ってください。
通帳には貴方が暮らしていけるのに充分なお金を入れておきますので有効に活用して頂ければ嬉しいです。
また、中身を見て驚いたと思いますが「世永朔」という人物の戸籍謄本を送付してあります。
それは貴方の存在証明になります。
余計なお世話かと思いますが、これから生活していくのに戸籍がないと大変苦労します。
ですので、保険証や身分証を発行する際に役立てて貰えればと思い、用意させて頂きました。
最後に一つだけ貴方にお願いがあります。
赤の他人である貴方にこんな事を頼むのはお門違いだと分かってはいますが、どうしてもして貰いたいことがあるのです。
それは「灰色の者達を救って上げて欲しい。」ということです。
これだけでは分からないと思いますが、時期が来ればいずれなにかの形で理解出来る日が来ると思います。
その時に彼らを見捨てず「居場所」になってやって欲しい。
私には出来なかったことを貴方に託したい。
これはただの我が儘に過ぎませんが、どうかよろしくお願いします。
追伸
お互い名前も知らないような仲でしたが、毎日土手で過ごす時間はとても楽しかったです。
貴方と出逢えてとても幸せな時を過ごさせて頂きました。
これからもどうかお元気で。さようなら。
綺麗な字で綴られた内容は信じられないものばかりであった。
この土地や長屋、戸籍については何となく事情を把握出来たが、根本的な部分が抜けている。
そう「何故少女なのか」というところだ。
たかが中学生の少女に彼女は何故こんなものを残したのだろうか。
少女よりも、この土地や財を遥かに上手く扱える人は五万といただろうに。
それに最後のお願いにある「彼ら」や「居場所」とは一体何のことだろうか。
その時になれば分かると言われても、少女はエスパーではない。
大きな疑問を残して去っていった彼女に少女は溜め息を漏らした。
初めて会った時から明るく、無鉄砲な人ではあったが、こんなところにまでその無茶振りを発揮させないで欲しかったと頭が痛くなる。
そんなこんなで大きな爆弾を残していった彼女だが、実際は手紙の内容の殆どが有難いものばかりであった。
特に戸籍は兼ねてから頭を悩まされていたもので、発行出来ないあるいは発行する為にも様々な手順を踏まなければならなかったからだ。
その手順をすっ飛ばして得られたのだからとても喜ばしい。
これまでは戸籍がない為学校には行けず、保険証が発行出来ないため医療費が多額になってしまっていたのだ。
それに通帳にも目が飛び出るほどの額が振り込まれていた。
恐らく利子生活が出来るだろうという程の額。
それに18になれば否が応でも施設を出なければならない。
そんな時に住む家やお金があるのだから有難い。
ミンミンとせわしなく鳴く蝉の声を聴きながら、少女はぼんやりと想いを馳せた。
思えば、彼女には出逢った頃から振り回されてばかりだ。
いつも強引に私を連れ回しては楽しそうに笑っていて、気付けば私も声を上げて笑っていた気がする。
施設にいる子供は皆何かしらの問題を抱えており、明るい子は少ない。
そんな空間に始終囲まれていれば、自然と皆静かになり感情を表に出すことが少なくなる。
私自身彼女に出逢うまでそうなっていたように思う。
本当にお人好しで不器用な人だった。
カサカサと手紙をもとあったように封筒の中に戻し、夕焼けの滲んだ空を見上げる。
「名前を知らない貴方へ。
ありがとう.....さようなら.....」
そう呟きながら、無意識の内に首にかかった緋色のそれを握りしめていた。
どうしようもない切なさが押し寄せてくる。
それでも涙の流れない自分が酷く惨めに思えた。