第一包の八
今日も撮影が始まった。
昨日の失敗は頭から追いやって、今日の知美は朝から仕事に集中して臨んでいた。知美の主な仕事は、重野のサポートをすることだ。具体的には、フィルム替えや照明の調節その他、である。
だが、仕事終了後の片付けをしていた時、惚れ薬のことなどすっかり忘れかけていた知美にそれを思い出させる出来事が起こった。
今日一日の自分の仕事っぷりに少なからず満足していた知美が、鼻歌を交えながら撮影道具の片付けをしている時だった。床の上に座って、いつも通りカメラの掃除をしている重野の横に、一人の女が近付くのが見えた。──知美たちのクライアント、例のワガママ女優のエリだ。
エリは長い手足を見せびらかすように交互に前に突き出し、必要以上に腰を振りながら重野のもとまでやって来た。レンズを磨いていた重野が、横に誰か立っていることに気が付いて振り向く。エリはまるで女神のような微笑みを浮かべて、重野を見つめ返した──目はまるで獲物を狙う肉食動物のような鋭さを持っていたが。
「今日もお疲れ様でしたぁ」
「ああ、お疲れ様」
知美が今いる位置からは、二人の会話ははっきりと聞こえない。無意識にも、知美は片付けの振りをしながら、二人の傍に近付いていった。
気になる二人の会話は、知美が心配していたようなものではなかった。今日の仕事の振り返りや、明日の撮影内容の確認をしている。
その事実を知ったとき、知美は軽く自己嫌悪に陥った。
「……何してるんだろ……人の話の盗み聞きなんて」
溜息をつきながら、知美は重野と話している例の女の方を何気なく見遣った。
女優というだけあって、端整な顔立ちで、プロポーションのとれた肢体を持っている。世間一般的に、“キレイ”と言われる人種なのは間違いない。その上、女性らしい仕草や人を喜ばすような言動を心得ているようだ。神様は彼女には二物も三物も与えている、と知美は思った。
(そういえば、あの薬……)
知美はその時、昨日のことを思い出した。妖しさを秘めた女薬剤師にもらった、あの惚れ薬のことだ。つい昨日はその薬をどうやって重野に飲ませようかと悩んでいたのに、今の今まですっかり忘れていたのだ。
知美はショルダーバッグに手を伸ばした。昨日からここに入れっぱなしにしている。使おうと思えば、今この場でも使うことができるのだ。
でも、今の知美にそんな気持ちは起こらなかった。ライバルの美しさに嫉妬して、自己嫌悪の塊となっている今の自分では、薬の力をもってさえ、重野を自分に惚れさせることは不可能のように思えてきたからだ。
(今日はやめて、薬のことを考えるのは明日にしよう……)
知美が意気消沈する中、重野たちの会話がひと段落したようだ。重野は再び自分の作業に没頭し始めたが、エリはその場から立ち去ろうとしない。それに知美が気付いた時には、エリが知美を見ていた。知美の考えていることは全てお見通しとでも言うように。見下すように。
エリと目が合った瞬間、知美の頭にカッと血が上った。それまで沈んでいたことなんか、どこかへ吹っ飛んでしまった。息が苦しくなり、胸が締め付けられる。
──女の勘、というやつだろうか。知美にはエリの次の行動が読めたのだ。
知美の思った通り、エリは知美からふいと目を逸らすと、その場にしゃがみこんだ。そして、カメラ掃除に夢中になっていた重野の肩に、後ろから頭をもたせかけた。
エリの顔には自分が優位に立っているのだという自信がありありと浮かんでいる。もちろん、その表情は知美一人に向けてのものだ。
エリが獲物を狩る体勢に入った。重野の後ろから、甘い声で囁く。
「ごめんなさい、重野さん」
そこまで目で追ったところで、知美はエリと重野から無理やり視線を外した。エリの行動に対する重野の反応を見たくないのだ──最悪の事態を想定して。
知美は一心不乱に周りを見渡した。壁際の長机の上に、お茶のペットボトルやお菓子などが並んでいる。これはスタッフやクライアントのための休憩用ブースだ。
知美はそこまで一直線に近付くと、紙コップに手を伸ばした。そこにペットボトルからお茶を注ぐ。
(今、やらないとダメなのよ、知美! ここで逃げたら、明日だって明後日だって、一生何も変えることはできない。あの女性が渡してくれた薬を信じるのよ)
知美は決意を固くした。ショルダーバッグの中に手を入れ、白い薬包紙を取り出す。
そこで、知美は辺りを見渡した。
(……誰も見ていない)
スタッフたちは片付けで忙しそうに動いているし、誰かが知美の行動を監視しているわけでもない。あまり見ないようにしているのだが、肝心の重野もエリにいろいろ話しかけられていて気を取られているようだ。今しかチャンスはない。
知美は薬包紙を広げた。その折りたたまれた紙の中には、白色の粉末がひとさじ載っている。知美には普通の粉末薬に見えるが、これが人を惚れさせるという魔法の薬なのだ。
包みを傾けると、粉末が紙コップの中にさらさらと落ちていき、あっという間に消えていった。
「ねえ、重野さぁん」
エリの色仕掛けは続いていた。ねっとりとした甘い声を出しながら、重野に寄りかかっている。
「この後、飲みに行きましょうよぉ。もちろん、二人き・り・で」
最後の一言を重野の耳元で囁くと、エリは重野に向かってニッコリと微笑んだ。
(はい、これでキマリね。この女神の微笑みで落とせなかった男なんて、誰一人いなかったんだから)
こうも簡単に男心を操れることに内心飽きを感じつつも、エリは重野の答えを待った。もちろん答えは「イエス」に決まっているのだけれど、事には順序というものがあるものね、とエリは自分に言い聞かせた。
「悪いな。今日は無理なんだ」
「じゃあ、どこに行きます? 私、良いお店知ってるんですけどぉ……」
エリはそこまで言って初めて違和感に気が付いたようだ。笑顔を顔に貼り付けたまま、聞き返す。
「…………え? ごめんなさい、今何て……?」
重野はうんざりとした顔で溜息をついた。しかし、言葉は乱暴にならないように気を付けながら、その質問に再び答えた。
「今日は予定があるから無理なんだ。済まないな」
自分の誘いを断る男がこの世にいることが信じられないといった表情で、エリは何度か首を振った。その様子はまるで、この悪夢から早く覚めたいとでもいうように。
もちろん、エリが夢から覚めることはなかった。現実を突きつけられ、それを受け止めるしかないと分かった時、エリの顔はみるみるうちに笑顔から仏頂面へと変貌を遂げた。
「ふん! 後悔したって遅いのよ!?」
文字通り歯ぎしりをしながら、エリはその場を去っていった。
「やれやれ……」
重野が一息ついたのも束の間、今度は知美がやって来た。
「今度はおまえか」
重野は渋い顔で横に立つ知美を一瞥すると、レンズを丁寧に拭き始めた。
重野に素っ気ない態度を取られ、一瞬戸惑った知美だったが、できる限りの笑顔を作って手を差し出した。その手にはお茶の入った紙コップが握られている。
「あの……重野さん、どうぞ。今日もお疲れ様でした」
重野は黙って、知美と差し出された紙コップを交互に見た。
(……やっぱり……怪しまれた?)
知美の緊張はピークに達していた。もしかしてこの紙コップの中に怪しいモノを入れるところを重野に目撃されていたのかもしれない、といった考えが知美の頭の中に浮かぶ。引きつった笑顔を浮かべながら、知美は今にも口から心臓が飛び出しそうだった。
その時、重野の右手が動いた。知美の手から、紙コップを受け取る。
「珍しいな、森崎。おまえも気の利いたことができるようになったか」
そう言って、重野は紙コップを傾けた。ごくごくと、一気に中身を飲み干す。
「あ……」
その光景を見て、知美は思わず声を漏らした。
緊張したのも束の間の出来事であった。「意中の人に惚れ薬を飲ませる作戦」はあっけなく成功したのだ。その喜びに浸りたかったが、それは後回しだ、と知美は頭を切り替えた。
──飲ませた後が一番大切だよ。周りに自分以外、誰もいないことを確認してから、相手の視界に自分が入るように立つこと! そうすれば、相手は自分が誰の奴隷になればいいか解るからね──
例の女薬剤師に念を押された言葉を思い出す……。彼女の言うことが本当であれば、大事なのはここからだ。薬を飲んだ重野と最初に顔を合わすのは、自分でなければならない。あの女優はちょうど重野から離れているので、今こそ絶好のチャンスだ。
「どうした、マヌケな声出して」
重野は意地悪そうに笑うと、すっかり空になった紙コップを知美に突き返した。
その瞬間、知美と重野の視線が絡み合った。
周りから見れば、それは瞬きをする間のことであった。そのわずかな瞬間、重野の体に弱い電流が走ったようだ。知美にはそう見えた。
(これで重野さんは私に──)
知美がそう期待したのも虚しく、重野は何事もなかったかのように知美から視線を逸らした。そして、足元に並べてあったカメラと掃除道具を片付け始める。
重野の後ろ姿を見ながら、知美はがっくりと肩を落とした。昨日今日とこの惚れ薬の効果を信じていた分、何の変化も怒らない目の前の現実に対するショックは大きかった。
(惚れ薬なんて都合のいい薬……この世にあるわけがないものね)
初めからそんな魔法の薬は存在しなかったと思えばいいのだ。涙が出そうになるのを必死に堪えながら、知美は自分にそう言い聞かせた。
それにしても、あの薬剤師は自分に嘘をついたのだろうか? しかし、惚れ薬のことを説明している時の彼女の顔は、決して嘘をついているようには見えなかった。そもそも彼女が嘘をついて、一体何の得になるというのか?
重野の横に立ち尽くしながら考えを巡らしていた知美だったが、その傷心のアシスタントに重野が背を向けたまま声を掛けた。
「そういえば……今日のおまえはよく集中できていたな」
「え。あっ、……はい」
突然声を掛けられて驚きながら、知美は慌てて答える。
重野は少し──ほんの少しだけ、知美の方を振り向いて、呟くように言った。
「ねぎらってやる。今から飲みにでも行くか──たまには、な」
仕事の時とは違う、わずかに優しさを含んだ声が、知美の耳の中を通っていく。耳から体内を駆け巡るように、知美はゆっくりとその言葉の意味を噛み締めた。胸が締め付けられるように痛んだが、それは心地よい痛みであった。先ほどあの女優と目が合った時とは大違いだ。
「…………! …………! はい……!」
知美は嬉しさで息が詰まり、ただ一言返事をするのが精一杯であった。