表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/45

第一包の六



 *****


 古ぼけた研究室からピカピカの店内に出た知美は、夢から覚めて現実に戻ったかのような感覚に襲われた。

 今の今まで居たラボは、この店内と壁一枚で隔てられているだけなのに、全く別世界のようだった。部屋の雰囲気だけではなく、置いてある薬までもが普通ではなかったのだ。

 不思議な女性と話をしていたことや惚れ薬なる秘薬をもらったことが、実は夢の中の出来事だったのではないかと、知美は一瞬疑った。だが、自分の手の中には白い薬包紙が収まっている。

「夢じゃ……なかったんだよね」

 夢心地ながらも、知美は店外へ出るべく歩きだした。商品棚が陳列している狭い店内を商品にぶつからないようにすり抜け、店の入口にたどり着いた。

 薬局の正面の壁やドアは透明のガラス造りになっており、店内からでも薬局前の通りがよく見える。ここに来る前は知美も緊張していたため気付かなかったが、今改めて見るとこの店の存在に違和感を覚えた。

 というのも、この薬局は住宅街の真っ只中、しかも下町の雰囲気がいまだ色濃く残っている昔ながらの町並の中にあるのだ。そんな場所に突然現れた真新しい薬局に、知美は違和感を感じたのだ。

「……でも、奥の研究室はこの町と同じ雰囲気なのよね」

 知美がそう呟きながら、入口の扉を開けようと手を伸ばした──その時。

 店の外から扉を開けようとする男が、同じタイミングで──いや、向こうの方が少し速いか──ドアを押してきた。その男も知美に気付いた様子で、ドアを開けて店内に入ってきた。

(この人もお客さんかしら……)

 知美はそう思いながら、店内に入ってきた男を見た。ドアが押されて男が入ってきたので、商品棚にぶつからないように後ろに下がりながら。

 その男は若かったが、自分よりは歳上だと知美は感じた。そして、狭い店内で向かい合っているせいでもあるだろうが、男は結構な長身だった。背の小さい知美にとっては、巨人のように見える。長身な男だが、細身ではなく、しっかりとした体つきをしている。これは何かスポーツでもしていそうな体つきだ。

 背の高い男ではあったが、知美は彼から威圧感のような感じを全く感じなかった。むしろこの男には「誠実」とか「優しさ」などといった言葉が似合う、と知美は思った。

 そんなことを思いながら入口付近に立ち尽くしていた知美を見て、男は微笑んだ。

「どうぞ」

 男は入口のドアを手で押さえ、知美が通れるように道を開けたのだ。

 近頃の若者には珍しい行動だったせいか、それとも今まで自分の周りにこんな紳士がいなかったせいかは分からないが、知美は男が自分に話しかけているということに気付くまで少し時間がかかった。

「あ……ありがとうございます」

 知美は男に一礼しながら、ドアを通り過ぎた。そして、今の男が自分の直感通りの人物だったと思いながら、小走りに仕事場へ戻った。


「お、智史(さとし)。帰ってきたか」

 店に入ってきた男がレジカウンター奥の扉を開けると、あかりは大きな菓子パンの袋を開けるところであった。言葉の終わりに、バリっと封を切る音がした。

「ようやくホームページが完成したよ。もう腹ペコだ」

 智史と呼ばれた男は、研究室入口すぐの左手に二つ並んだロッカーの、左の方を開けた。ハンガーに掛けてあった一着の白衣を取り出し、それを手慣れたように着る。白衣の前のボタンはきちんと留め、襟を素早く整える。男の白衣は清潔な白色でシワも無い。あかりの白衣とは着方も清潔さも違い、きちんとしているようだ。

 一方のあかりは、大きな口を開けて菓子パンにかぶりついていた。砂糖がたっぷりとかかっているそのパンは、昔からあかりの大好物だ。毎日食べていると言っても過言ではない。

 あかりは二口目を口に入れてから、空いている方の手で机の上のコンビニ袋を漁った。このコンビニ袋は椅子の背もたれに掛けてあったものだ。色々買ってあった物の中からめぼしい物を見つけたようで、智史がパイプ椅子──知美が座っていた椅子だ──に座ると、あかりは一つの惣菜パンを智史に向かって放り投げた。

「ん」

「サンキュ」

 智史はパンを受け取ると、あかりと同じように袋を開けて食べ始めた。智史が甘いパンが苦手なのを、あかりはもちろん知っている。だからこその惣菜パンだ。

 二人は黙々とパンを食べ続ける。しばらくして、パンから顔を上げてあかりがにっと笑った。

「ねえ、智史。イイ事教えてあげようか」

 その瞬間、智史は「来た!」と思った。あかりが「ねえ、智史」と呼びかける時は必ずと言っていいほど、智史を驚かせるようなことを言う。この女は昔からそうだ。あの日の真夜中の電話の時もそうだった。

「うん?」

 智史はゴクリとパンを飲み干してから、聞き返した。内容によっては、ショックで喉に詰まらせる可能性も無きにしもあらず、だからだ。

「ついさっき、初の来客があったんだ」

(…………? 今回はそれ程驚く内容でもなかったな)

 予想が外れたことに若干違和感を覚えながら、智史は答えた。

「ああ、さっき店の入口ですれ違ったよ。中学生くらいの女の子だったよな。あの子が記念すべき一人目の客か……」

 知美の姿を思い浮かべながらパンをかじった智史に、あかりは爆弾を投げつけた。

「その記念すべき一人目の客はねえ、私が作ったチラシを見て来たんだってさ」

「ゴホッゴホ!」

 油断していた智史は、パンで思いっきりむせた。──やはりこの女は油断ならない。

「ウ……ソだろ!? まさかおまえ、あの怪しいチラシ、本当に配ったのか?」

 呼吸が落ち着いてから、智史はあかりに詰め寄った。当のあかりはというと、自慢げに胸を張っている。

「そーよ。昨日の夜から配り始めて、配り終わったの今日の明け方よ。大変だったんだから」

 それを聞くや、智史はがくりと肩を落とした。

 事の発端は、この薬局を開店するにあたってどのような方法で宣伝するかを、あかりと智史で話し合った時のことだった。あかりは、チラシ──しかも店長自らが書く文字でこの店をアピールするのがいいに決まっていると、根拠もないのに自信満々で推していたのだ。そんなに言うなら書いてみろと智史に言われて書いたのが、知美が手に握り締めて持ってきたあのチラシだったのだ。

「字が汚い、文言が怪しい、レイアウトが悪い!」

 あかりが書いたチラシを見た瞬間、智史はそう言い放ったのだった。

 こんな怪しすぎるチラシを配っては開店早々、店のイメージが悪くなると懸念した智史は、このチラシは絶対に配らないようにあかりに言い渡して事は終わった──はずだった。

 一方、智史はというと、現代では当たり前のツールであるインターネットを使っての宣伝を考えた。本来ならば専門業者に店のウェブサイトを作成してもらうのだが、如何せん、この店には十分な資金がなかった。しかも、この店にはパソコンさえなかった。そんな状況だったので、智史が自宅で使っているパソコンで智史自身がウェブサイトを作ることになったのだ。

 智史がパソコンにとりわけ詳しいということではなかったが、あかりに機械を触らすと爆発させる可能性を否めない。だから智史はこの数日間、店のサイトを作ろうと入門書を片手に頑張ってきたのだった。そして、つい先程、念願のウェブサイトが完成したのだ。

 しかし、智史の苦労も虚しく、あかりが勝手にこのチラシを町内分印刷して、町内に配り終えてしまった。この大胆とも言うべき行動を実行してしまった今となっては、後の祭りである。

 肩を落とす智史に、あかりは追撃した。その見た目から知美を中学生だと思い込んでいた智史は、この奇想天外な事実に声を失うはめになる。

「ちなみにあの子、二十四よ。私の二つ下」

「…………!!」

(……やっぱり驚かされる羽目になったな、こいつの言葉には)

 智史は、自分の苦労を水の泡にされたものの、あかりの行動を怒る気にはなれなかった。むしろ、突拍子もない考えを持つあかりに驚かされたいと思う自分がいるのだ。

(やれやれ)

 智史は大きく息を吐いた。その口元は微かに笑っている。

「……それで、彼女は何の薬を買いに来たんだ? 店内の普通の(・・・)薬?」

「いんや。私が調剤した秘薬よ。惚れ薬を一回分」

「へえ……開店初日から、この店の裏の仕事を知る客が現れるとはな……」

 智史は少し驚いてから、あかりに冗談めかして言った。

「紫城……まさかとは思うが、押し売りなんてしてないだろうな?」

「してないわよ、失礼ね。客が望んでいたから渡しただけよ、私は」

 あかりは大きな目を智史の方に向けると、すっと細めた。智史はそんなあかりの様子を面白そうに見ていた。

「はは……分かってるって。──でも、そうか。惚れ薬ねえ。そんな薬とは無縁そうに見えたんだけどな、あの子」

 智史は、先ほどすれ違った、少しおどおどとした小さくて可愛らしい知美を思い出しながら言った。

「そうかしら? 誰だって一度や二度は使いたいと思うんじゃない。全ての恋愛がうまくいくわけじゃないんだから……」

 そうきっぱりと言い切ったあかりを、智史はまじまじと眺めた。

「……何よ。人のことジロジロ見て」

「紫城は……惚れ薬を使いたいと思ったことはないのか?」

 そう口にした後で、智史はそんなことを言った自分に驚いた。言うつもりもなかったことが口を()いて出てしまったのは、意識下で「知りたい」と思っていたためなのだろうか。

 あかりはパンを口に運ぶ手を止めて、智史を真っ直ぐ見据えた。エメラルドグリーンの大きな瞳が智史の目を捉える。その日本人離れした瞳が自分の心の内を見通しているような気がして落ち着かない。智史は思わずあかりから目を逸らした。

 当のあかりは、智史の心を乱しているのがまさか自分のせいだとは一つも考えていない様子だ。呆れながら口を尖らせた。

「何言ってんのよ、智史……。私が使いたい、使いたくないと思う以前に、『魔女は、魔女が作った薬を使うことはできない』。……忘れたの?」

「忘れたわけじゃないよ。ただ……訊いてみたかっただけさ」

 咄嗟に思い付いた言い訳を口にした智史だったが、言いながらも本当にそうだなと思った。『魔女』であるあかりは、魔女が製造する『秘薬』を使えない──そんな魔女の掟とやらがあることを、その昔、あかりは教えてくれた。以後、智史がそのことを忘れたことはない。智史がそれでも口走ってしまったのは、今のような答えを期待していたからではなかった。

(馬鹿だな、俺も……。俺は一体全体、紫城にどんな答えを期待していたんだ……?)

 二人の間にしばらく沈黙が続いた後、突然、あかりが口角をにっと上げた。

「ま、『一般人』の智史は使いたいと思えば使えるんだから。その時は私に言ってよね」

 あかりは善意で言ったのだろうが、その言葉は智史の胸を詰まらせた。

(惚れ薬を使いたい相手が、魔女──でも?)

 陽気に笑う目の前の魔女にそう言ってやりたかったが、智史は口の中のパンと共に、心の言葉を飲み込んだ。


 *****


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ