第一包の五
あかりに背中を向けていた知美は、あかりの言葉に耳を疑った。自分の聞き間違いではないだろうかと。
「……え?」
慌ててあかりの方に振り向くが、あかりの顔は至って真剣である。
あかりも椅子から立ち上がると、後方の壁際にある棚の前まで歩いた。その棚には様々な色、大きさのビンや箱が並んでいる。どうやら薬品棚のようだ。
あかりがその棚のガラス戸を開けて、何かを取り出す。そして知美の前まで来ると、無言で手を差し出した。
あかりの手の平の上にあったのは、丁寧に折り込められた薬包紙だった。知美はあかりからそれを受け取ると、不思議そうに眺めた。
「これは……?」
知美の質問に、あかりが平然と答えた。
「惚れ薬よ」
「惚れ……」
あかりの言葉に、知美は目を丸くした。
あかりは得意そうに天井を仰ぐと、話を続ける。知美の反応なんかお構いなしだ。
「この薬にはヴィオラ・トリコロールを使ってある。昔から惚れ薬として使われてきた薬草さ。昔はよく、煮立たせたオイルの中にヴィオラ・トリコロールを入れて軟膏にしたものを瞼に塗って使われたんだよ。これを塗られた人間は、薬を塗ってから最初に見た者に恋してしまうのさ」
「び、びぃお……、とりころ……?」
「ああ、サンシキスミレといった方がなじみ深いかね。サンシキスミレには、血行を良くして免疫系を活発にする作用があってね。目のかすみにもよく効くんだよ。だから、惚れ薬として使われてきたのかもしれないね。目が生き生きとし出したら、今まで目にもくれなかった相手でさえ魅力的に見えた、ってことで」
一人カラカラと笑うあかりを、知美はただ呆然と見つめるだけだ。
あかりは興に乗って来たようで、まだ続ける。
「ええと、他には、L-ドーパたっぷりのムクナに、スタミナ増強のガラナも入ってるのよ。……とまあいろいろ言ったけど、肝心なのは“愛の薬”とも呼ばれる化合物、3,4-メチレンジオキシメタンフェタミン。──MDMA、と言えば聞いたことがあるかもね。MDMAを摂取するとね、脳内で神経伝達物質であるセロトニンを大量に分泌させて、その者の開放性と感情に対する反応性を高めるの。つまり、このMDMAこそが、惚れ薬たらしめる物質というわけさ。ま、こんな感じで作った私のオリジナル惚れ薬で恋に落ちない人間はいないさね」
今度は、ふっふっふと怪しく笑っている。そこでようやく、あかりは知美の顔を見た。
「よく聞きなさい。この薬を飲んだ者は服用後初めて目にした者に、その名の通り、心を奪われ、恋の奴隷となる。でもね、効果が続くのは二十四時間だけだから注意して」
聞いたこともない単語と小難しい説明に頭がパンク寸前だった知美は、あかりの視線を受けて我に返った。あかりは今まさに、自分の手元にある薬について、とても具体的なことを言ったのだ──まるでこの薬が正真正銘の惚れ薬であるかのように。
(まさか、そんな薬がこの世にあるなんて……?)
この薬がまるで本物の惚れ薬であるかのように話すあかりは疑わしい。だがその一方で、こんな薬があればいいなと、本心では思っているのも確かだ。
結局、知美の気持ちは、この不思議な薬の存在を認める方向へと傾いていった。
「信じられない……本当にこんな薬があるなんて」
震える手で薬包紙を持つ知美に、喜びがじわじわと湧き上がってくる。
「──まるで……おとぎ話で魔女が作るお薬みたいですね」
信じられないという思いで口にした知美だったが、あかりはぼそっと呟いて答えた。
「まあ惚れ薬なんて、魔女の秘薬としては基本中の基本だけどね。しかもこの薬、惚れ薬の中でも手軽な方だし」
「何か言いましたか?」
一筋の希望の光が見えた知美は、嬉しさで胸がいっぱいだったようだ。聞き直した知美に対して、あかりは咳払いをして誤魔化した。
「い、いいかい? もう一度言うからよく聞くんだよ。──この薬を相手の男に飲ませるんだ。無味無臭の粉末になっているから、何か飲み物に混ぜても、気づかれることはないだろうさ。それから、飲ませた後が一番大切だよ。周りに自分以外、誰もいないことを確認してから、相手の視界に自分が入るように立つこと! そうすれば、相手は自分が誰の奴隷になればいいか解るから。──最後にもう一度注意しておくけど、効能は二十四時間だけだからね。薬を飲ませてから二十四時間後に、相手は恋の奴隷から解き放たれる。言い換えれば、ターゲットの男が一日だけ自分の恋人になるのは、惚れ薬のお陰……ってな訳よ」
知美はあかりの言葉を一言一句聞き逃さまいと、必死に耳を傾けて聞いていた。あかりの説明が終わると、ひとつ大きく頷いた。
「はい、わかりました!」
笑顔だった知美だったが、気になることを思い出したらしい。そわそわしながら、言い出しにくそうに口を開いた。
「あ……あの、薬代のことなんですけど、こういうお薬って大体おいくら位するんでしょうか? きっと、保険とかきかないですよね……。私に払えるかしら」
知美は自分の月収を思い出した。決して高給取りとは言えない収入だ。家賃に光熱費、食費など、生活に必要な諸々の経費を切り詰めても、残るお金は雀の涙程度だ。この前のボーナスも自分専用のカメラ代として消えてしまい、知美は自分の貯蓄の無さを呪った。
「そうだねえ……相場はこのくらいかな」
そう言うと、あかりは指を一本立てた。
「……千円?」
知美は明らかにホッとしたようにため息をつく。しかし、あかりはきっぱりと訂正した。
「ううん、一万円」
「い、一万……ですか!? この薬一つで……!?」
知美はあかりの言葉に目を点にした。驚く知美を横目に、あかりは冷静に分析する。
「好きな人をこの薬で振り向かせることができるなら、かなり安いもんだと思うけどねえ。こんな薬、手に入れたいと思う人間なんて幾らでもいるし」
確かに一日とはいえ、自分のことなど眼中にない相手を自分に恋させることができるのだ。そのためなら、金に糸目を付けない者も当然いるだろう。知美も自分に振り向いて欲しい人がいるからこそ、あかりのその説明には納得できた。
「わ、わかりました。でも、今は手持ちがないので、次の給料日まで支払いを待っていただいてもいいですか……?」
支払いを先延ばしにしても、結局のところ家計は赤字だ。知美がその赤字分をどうするかを頭の中で考えていた時、あかりが面白そうに笑った。
「あっはっは……今回は、お金は要らないよ。特別サービスでタダにしてあげる」
「えっ? でも……」
「いいんだよ。あなたがこの店の最初のお客だし、来客記念ね。……ただし、条件があるわ」
『条件』と言われ、何を言われるのだろう、と知美はゴクリと唾を呑み込んだ。そして、あかりがゆっくりと口を開く。
「その薬を使った後のことを、またここに来て教えて欲しいの」
それを聞いた知美は、一気に胸のつかえが下りた。もっと難しい条件を出されるのではと身構えていた知美にとっては、あかりが提示したことは条件が無いにも等しいことだ。
──もちろん交渉は成立だ。
「もちろんです! 必ず伝えに来ますから……!」
知美は顔を輝かせて、あかりに深々と頭を下げた。
「それではありがとうございました。もう仕事に戻らなくちゃいけないので、私はこれで失礼します」
そうして知美ははやる気持ちを抑えながら、研究室を後にした。