壊れた世界 一匹の黒猫
ひび割れた道路。傾いた電柱。光は、ただ空に浮かぶ月があるだけ。
そんな世界の中、一匹の黒猫が夜に溶け込みながら、道路の中心で空を見上げていた。
怪しく輝く猫の目は、ただ真っ直ぐに月を見ている。
にゃあ、と猫が鳴く。
その鳴き声は響くことはなく、暗闇に吸い込まれた。
数ヶ月前、世界は完全に壊れた。猫の主観ではそう思うしかない。なぜなら、聞く相手などいないのだから。
周りを見回しても、生き物の姿は全く見えない。それどころか、生き物の死体すら見つけることは出来ない。
世界が壊れたあの日、町を飼い主の元へ歩いていた猫は、突然熱さを感じた。気づいた時には視界は光に包まれていて、何も見ることは出来ない。
その光は、ただ熱かった。それこそ、人なんて十秒もあれば死んでしまうくらいに。
猫は熱くて、苦しくて、見えない視界の中でもがいて、もがいて、もがき続けた。
猫は何度も死んでいた。けれど、決して死ぬことは出来なかった。
猫の外皮が焼けただれたかと思うと、一瞬のうちにたちまち元に戻る。その理由を、猫は知っていた。
小さいころ猫は山に住んでいた。その時、猫は神様に会ったのだ。
神様は自分を山の神だと名乗った。そして、お前を気に入ったと、運命で決まっている猫自身の寿命まで決して死なない体にしてくれた。
猫はこれまで死ぬということはなかった。なので、一方的に告げられたことを実感する事はなかった。
だが、ことここに至っては実感する他なかった。
やっとのことで光が収まり、猫は顔を上げる。猫は辺りを見まわすが、そこは地獄と言っても過言ではない風景が広がっていた。
家は炎が覆い、地面はひび割れていた。空は暗く、黒い雲が立ちこめていた。
世界を光が覆った時。実は強い風も吹き荒れていた。猫はいつの間にか吹き飛ばされ、猫が全く知らない場所に着地していたのだった。
猫は一瞬で変わった風景に戸惑うほかなかった。その付近をウロウロと回り続けて、自分の居場所を確認しようとする。しかし、見たことのある風景は少しも確認する事が出来なかった。
猫は誰かに向かって鳴いて、鳴いて、泣いた。生き物は自分以外存在しないと悟った。
それから猫は泣き続け、そして、やがてあてもなく歩き始めた。
お腹がすいても、食べ物は見つからず、歩き続けるしかなかった。
やがて猫は衰弱し、ついには動けなくなって、自分が死ぬということに恐怖を覚えた。
意識は次第に薄くなっていく。
猫は、最期まで精一杯に生きようとした。目を閉じないようにした。離れゆく意識を必死につなぎ止めた。
それでも、意識は離れていって、ついに猫は目を閉じた。
目が覚めたのは、それからすぐのことだった。
感じていたはずの空腹は感じなかった。体も自由に動かすことができた。猫は、生きているということが嬉しくて鳴いた。それと同時に、自分はここで死ぬべきじゃないのだと感じた。
山の神様の言っていた寿命はきっと今では無かったのだと、まだ運命で定められた寿命では無いのだと感じた。
それからも猫は歩き続けた。しかし、今度はあてもなく歩いていた訳ではなかった。
猫は、自分の死ぬ場所を探していた。自分が死ぬはずだった場所を目指し続けた。
食べ物がなくて、衰弱して、動けなくなって、死んで、そして、生き返って。
猫はそれを繰り返し続けた。最初は怖かった死も、いつの間にか怖くなくなった。
そんな時間が長く、長く続き、二年がたった頃だった。
猫は、自分が目指していた場所にたどり着いた。
月が、立ち止まる猫を照らしていた。
そこは、そこだけは、なにも変わっていなかった。
周りの家が全て焼け焦げ、瓦礫になっていても、その家だけは確かにそこにそびえ立っていた。
猫は周りの景色を眺めていた。懐かしいその景色に、猫は鳴いた。その場所は、世界が壊れる前に、何度も、何度も見ていた景色だった。
そして、猫は目の前の家を見上げる。家の中から、自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
猫は、その家に入る。中も、外見と同じく、なにも変わっていなかった。
声は、その家のリビングから聞こえた。
リビングには、椅子と机が存在していた。そして、その下に一枚の写真が落ちていた。
そこには、眩しい笑顔を浮かべる少女と、その少女に抱きかかえられた、夜の色をした猫が写っていた。
猫はそこでうずくまる。猫は、幸せそうな顔をしていた。
もうすぐ、運命で定められた寿命がやってくると、猫は自然に理解した。
恐怖は少しも感じなかった。むしろ、嬉しいとすら感じていた。
猫はゆっくりと目を閉じる。なにか、暖かいものに包まれている。そんな気がしていた。
瓦礫の広がる世界で、確かにひとつの命が途絶えた。
その命の有った場所は、風にさらされ、側には写真立てが転がっていた。
空には星が輝いて、月だけが、その亡骸を照らしていた。