靴のかくれんぼ
イジメがあるクラスだと思ったことはない。しかし常に平和というわけでもない。
些細な問題だって時々は起こるし、大きな問題だって一年に一度くらいは出てくる。だけどそれは、どれだけ平和な学校であってもあるはずの小さなことだ。大枝佳苗は自分のクラスをそう認識している。全体の仲は良くもなければ、悪くもない。普通という言葉が相応しい平々凡々なものである。
だからその上履きを見た時は思わず首を傾げた。
「おいおい、大丈夫かよ。松葉杖が悲鳴あげてね?」
「え、お前太ったの? なんでサッカー部のエースなのに太るんだよ、サッカー部ってかなりの運動量だろ」
「はっ。俺のは脂肪じゃなくて筋肉なのだよ。残念だったな、もやっしー共め」
「よし、デコ出せデコ。肉って書いてやる」
騒がしいと受け取るか、賑やかだと受け取るか。元気一杯な声と一緒に聞こえる「油性ペンはやめろぉぉ」という悲鳴が視聴覚室に響き渡る中、佳苗は廊下に置かれた靴箱を見ていた。
学校によっても違うのだろうが、佳苗の通う高校の視聴覚室は上履きでの入室を禁止している。理由は知らないし、気にしたこともない。入学してから初めての授業で注意を聞いた時、ただそういうものなのだと受け入れただけだ。
しかし、そのため視聴覚室には専用のスリッパで入らなければいけない。扉の傍らに置かれた靴箱は脱いだ上履きや、使用していない時のスリッパを入れるためのものである。佳苗がそれに注目しているのは、いつもだったら流してしまう光景の中に違和感を覚えたためだ。
何に引っ掛かったのだろう、と探す間でもなく違和感の正体は判った。靴箱は六段あるが、一番上の六段目に入っている上履きの一組が片方しか入っていなかったのである。
誰のものかなどという疑問は湧かない。その上履きは視聴覚室の中で騒いでいる三人のうちの一人、サッカー部員である彼のものだとすぐに判ったからだ。友人たちと暇さえあれば騒ぐ彼は足が大きいのだと、以前仲間たちの誰かがからかうネタにしていた会話が頭の片隅に残っていたらしい。
どこかに落ちたのだろうかと辺りを見回してみるが、それらしいものは何もない。踵がはみ出すほど大きなサイズの上履きだ。もし落ちていたならすぐに見つかるはずである。
だが、ない。
おかしいと首を傾げながら靴箱に視線を向けるが、他に踵がはみ出している上履きはなかった。では、一体どこに?
授業の開始を知らせるチャイムが鳴ったが、先生が来るまでには少しだけ時間がある。上から下まで眺める時間くらいはあるはずだ。
履物だけ替え、佳苗は上から順に消えた片方を探す。
六段目、ない。五段目、ない。四段目、ない。
目的のものを見つけたのは、一段目でも端の端。埃が積もっているその中で彼の上履きは、横向きになって入っていた。まるで何かから隠れるように、誰かに見つけられることを恐れているかのように。
瞬間、佳苗の心に黒く不愉快な考えが湧いた。
――これはもしかして、イジメではないだろうか?
証拠もなければ、自分の中でも確信出来ない考え。しかし一度現れた不愉快な可能性は消えることなく、頭の片隅を悪い想像で蝕んでいく。
だが実際には生徒会長だからと言って、佳苗に出来ることなどない。仮にこれがイジメだったとしても、結局は当人たちと先生の問題だ。会長である前に一人の生徒である自分が関わって良いことでもないだろう。
「大枝? どうした、教室に入りなさい」
やってきた先生に言われ、反射的に返事をしながら我へと帰る。そして席に着きながら教科書を開いた。
杞憂ならそれで良い。むしろその方が良い。だが杞憂でなかった場合、そのためにクラスの平穏が破られることは避けたかった。今のところは大きな問題もなければ、誰かが嫌な思いをしたこともない。出来ることならこのまま一年間過ごし、良いクラスだったと笑って来年へと繋げたいものである。
そのために自分が出来ることは何かないだろうか。せめて、本当にこれがイジメなのかどうか確認することは出来ないだろうか。
授業を聞くのとは別に頭を回し始めた瞬間、脳裏に浮かんだのは後輩である一人の男子の顔だった。
*
物が下から上へ落ちることがないように、時間が未来から過去へ進むこともない。そして死んでしまった命が生き返ることもないのは、それが自然界の法則で決められた動かせない事実だからだ。
しかし何事にも例外というものはあるわけで、何億年と続いてきた自然界も人間ほどのイレギュラーな存在には出会ったことがないのではないだろうか。
人間とは不思議な存在で、物が下から上へ落ちる状況だって作り出すことが出来る。
たとえば上下がきっちり決まっている箱に中身を入れてから立たせ、それをひっくり返せば中身は移動するだろう。事実としては重力に引っ張られ移動しただけだが、人間の持つ豊かな比喩表現を使えば、これを下から上へ落ちたと言うことも出来る。
時間だって歴史学や考古学をやっていれば、未来から過去へ遡ることなど普通だ。もっと身近な例で言えば、思い出に浸るだけでも時は遡れる。
さすがに死んでしまった命を蘇らせることは現代科学や医学でも無理だが、確実に人類全体の寿命は長くなっている。本来死が訪れるはずの時期を先延ばしにすることだって、自然界が持っていた形ではないはずだ。
イレギュラーな存在である人間。不思議で神秘的なこの存在は時に残酷で理不尽、しかし時として優しく温かい。理解に苦しむとはいえ、私はそんな人間が大好きだ。
何故なら人の行動には意味がある。ただ生きるため、ただ子を残すだけではない意思が感じられる。だから私たちは一つの物事に一喜一憂し、生涯を楽しむことが出来るのだ。
作者は以上のような青年期の葛藤や経験を作品に詰め込んだわけである。よって先の問いに対する答えとしては三十四ページの……
「ふぇあ」
――七時間目。月曜日最後の授業である現代国語の授業中。
子守唄のように流れていく先生の呪文の中で、俺は間の抜けた奇声を小さく上げて目を覚ました。なかなか覚醒しない頭で、どれだけ寝ていたのかと時計を見る。長針はあまり進んでおらず、落ちていたのは五分だけらしい。
とは言っても既に黒板に書かれた内容は見覚えのあるものではなく、教科書を読み上げる先生によれば今は三十七ページをやっているらしい。察するに、どうやら五分で四ページも進めたようだ。早い。
まずいと思っても頭は働かず、ペンを握った瞬間睡魔が再び襲いかかる。えぇい、負けるものか。ここで寝たら終わりだ。少しでもノートをとらないと、明日の小テストで死んでしまう!
「はい、じゃあチャイムも鳴ったしここまで。明日の小テストに備えておくように」
どのみち終わってました、はい。
クラス委員長の号令に合わせて立ち上がり、先生が出ていくと一気に教室が騒がしくなる。大半の話は「疲れた」と切り出されるが、そこから部活のことだったり下校途中にどこかへ寄ったりなどの雑談へと分かれていく。束の間の休息に全員が気を緩めていた。
「お前は授業中も、今朝の全校集会の時も緩んでたろ。なんだよ、ふぇあって」
「ほっとけ」
隣の席の友人にそう言うと、笑いながらチョップを入れられたので避ける。
「避けるなよ」
「避けるっての」
現金なもので、授業が終わった途端に頭が覚醒してきた。何で寝ちゃったかなぁと、真っ白なノートを鞄に入れつつ明日のことを考えると気が重たくなる。
とはいえ、今更後悔してもどうしようもない。帰りのホームルームの連絡事項などを聞いてから迎えた放課後、俺は早々に生徒会室へ向かうことにした。
二階にある教室を出て、三階へ上ると渡り廊下を使って隣の校舎へ。部活のものとも休み時間のものとも違う学校中から聞こえてくる喧騒をビージーエムに、小さく鼻歌を口ずさむ。音痴でも歌は好きなのだ。
しかし鼻歌は一瞬で終わりを迎えた。
壁のない渡り廊下は台風が来る前のように風が強く、俺の髪は乱暴に頭を撫でられたかのように滅茶苦茶な状態となる。鼻歌など歌っている余裕はなく、何とか隣の校舎へ移ると思わず溜息が漏れた。軽く手で髪を直してから生徒会室へ向かう途中も、窓ガラスが音を立てて揺れている。運動場では砂埃が凄いことになっているだろう。
そうして着いた目的地は、いつもなら会長が最初に来ているはずなのに、珍しくも今日の一番乗りは俺らしい。鍵が閉まっていたので一旦職員室へ向かう。
そして中へ一歩入ると、ひどい人混みの中にいるような空気が襲い掛かってきた。
春夏秋冬、いつの季節でも閉めきった部屋の空気は篭るし淀むことは判っている。だが週末の二日間開けなかった部屋の空気は、風が強い外と大違いだ。予想以上に重たくて苦しいうえ、何故か生温かい。いっそ熱いか冷たいかのどちらかなら多少はマシだったろうに……。肌に張り付くような感じが気持ち悪くて仕方ない。
呻きつつ足を動かして窓際へ寄り、換気のため窓を全開にする。入れ替わる空気は一瞬で気持ち悪いものから爽やかなものとなり、肺の奥まで透き通るような感覚さえした。
しかし、ほっと落ち着けたのも一瞬。少し考えを巡らせれば判ったことなのに、俺はそれに気付けなかった。
部屋の空気を瞬く間に入れ替えられるほどの強い風は、容赦なく室内の書類を舞いあがらせる。サイズの大きな紙吹雪は右へ左へと踊り、窓から落ちそうになるものは反射的に捕まえた。慌てて閉めても既に遅く、生徒会室には白い絨毯が敷かれていた。
「おー、派手にやったな」
呆れ気味な調子の声が聞こえ、振り向けばすっかり見慣れた顔の先輩がいた。
短い茶髪に、赤いフレームの眼鏡。レンズの向こうにある目は凛としているが、どこか物憂げな感じで笑っている。我らが生徒会長、大枝佳苗先輩だ。
「あ、会長。こんにちはです。換気しようとしただけなんですけど……」
「いや、気にするな。こんな風の日なら仕方ない。ほら、他の奴らが来る前に拾うぞ」
言うなり鞄を下ろして会長は作業を始める。俺も近くのものから拾い始め、とにかく山を作っていく。集めないことには整理も出来ないから、一旦は全部まとめて大丈夫だ。
とにかく集めていくことだけなら簡単なもので、大変なのは整理の方だった。分けていった山が一枚だけで終わるところもあれば、三十枚以上積まれるところもある。ページ番号が振られているものなら順番通りにしないといけないし、中には拾い損ねて途中が抜けていることもあった。その度に屈んで狭い隙間まで探したので、腰に痛みとは言えない程度の微妙な違和感を覚える。
「……八、九、十一? 十ページが抜けてるな」
「えーと……あ、ありました。本棚と床の間に一枚」
完全に入り込む直前で止まったらしい書類の端を掴み、俺はそれを会長に渡す。
六つに分かれた山を改めて確認し、全ての回収を終えると会長も俺も溜息を漏らして椅子に座りこんだ。やれやれ、やっと元通りになった。部屋の左側に置いてあった書類が反対の右側へ飛んで行ったり、テーブルの上に置いていたものが本棚の上に乗ったりしたから大変だったな……。
窓はまだガタガタと鳴っており、雲も出てきたのか薄暗くなる。今朝の予報では雨は降らないことになっていたけれど、通り雨くらいは来そうな感じだ。やれやれ折り畳み傘くらいは携帯すべきなのかね、と思いつつ立ち上がる。電気を点けると、より薄暗さが際立って雨が降りそうに思えてきた。
職員室に傘の予備なんて置いてあったかなぁと考え始めた時、さっきの溜息とは全く重さも質も異なる吐息が会長の口から漏れる。どこか遠くを見て焦点の定まらない瞳は何かを悩んでいるようで、普段は伸びている背筋も曲がり気味だ。疲れただけというわけではなさそうである。
「会長、どうかしました?」
「どうかって?」
「いえ、何か悩んでいるように見えたんで。俺で良ければ聞きますよ」
役に立てるかは判らないが、話を聞くくらいなら俺にも出来る。誰かに話すだけでも楽になることはあるし、真面目な会長のことだから一人で抱え込んでいるのかもしれない。
一瞬会長はどうするか迷ったようだが、やがて話すことにしたらしい。組んでいた両手を開くと俯いたまま始めた。
「前川、お前のクラスにイジメはあるか?」
「イジメ、ですか? いえ、俺の知る限りでは今のところありませんが」
「うちのクラスもそんな感じだ。だから本当にイジメなのかも判らないし、悩んでも仕方ないとは判っているんだが……」
「何があったんです?」
大体のことをまとめると、こういうことだった。
今日の三時間目は視聴覚室での授業で、会長は教室の傍に置かれた靴箱でそのことに気付いたらしい。足を怪我したクラスメイトの男子の上履きが片方なかったのだ。
問題の上履きは大きく、六段目に入っていたそれは踵がはみ出していた。対して見当たらなかった片方は一段目にあり、それも端の端で隠すように横向きで入っていたとか。
普通に履き替えただけならそんな入れ方はしないだろう。だから会長は、もしかして自分のクラスでイジメが発生しているのではないかと考えたわけだ。
なるほど、確かにここまでのことだけを聞くとイジメのようにも思える。だけどイジメだと断定する証拠もなければ、おかしな点が幾つかある。俺としてはまずそこを確かめたかった。
「その上履きが隠された男子って、どんな人なんです?」
「サッカー部のエースで、うちのクラスのムードメーカー的存在だな。仲が悪い……というか、あまり話したり接したりしない奴らもいるが、険悪な雰囲気はない。あれはお互いに興味を持っていないと言った方が正しいように思う」
少なくとも表面上はイジメを受ける理由もなければ、する相手もいないということか。
「怪我は具体的に言うと、どんな感じなんです? 上履きを履けるんですから、骨折みたいにギプスを巻くようなものじゃないんですよね?」
「足自体の見た目は普通なんだが、膝を痛めたらしくてまともに歩けてないな。松葉杖を使っているよ」
「いつ膝を痛めたのか判ります?」
「たしか一昨日くらいだったな」
「この二日間に体育はありました?」
「あったけど、それがどうかしたのか?」
えぇまぁ、と俺は腕を組んで考える。
サッカー部エースの男子である彼が怪我をしたのは一昨日で、上履きが隠されたのは今日。彼に対して良くない感情を持っている人物がいたとして、何故今日上履きを隠したのだろうか。上履きを隠すことくらい怪我をしていなくても出来ることだし、怪我をしたことが契機で事に及んだのなら、この二日間何もしなかったのには理由があるのだろうか。
一つの可能性として考えられるのは、犯人が彼の上履きに狙いを定めていたのではないかということ。そして犯人は女子であるということだ。
「上履きに狙いを定めていたっていうのは、どういうことだ? しかも何で犯人が女子だと判る?」
会長の尤もな疑問に、俺は机を人差し指で叩きながら答える。
「犯人が上履きを狙った理由は上履きに何かがあったから、もしくは何かをしたからでしょう。たとえばサッカー部員なら足が命ですから、怪我をしたことを契機として更に足へ嫌がらせをしようとしたのかもしれません」
「画鋲を入れるとか?」
「そこまで露骨じゃなくても、地味な嫌がらせなら他にもありますよ。画鋲の例で言うなら、少し針が長めの平たいものを外側から底に刺しておいて、履いたら中を見ても何もないのにチクチクするとか」
本当に地味だな、と会長。何で笑うんですか。
「犯人が女子だと仮定したのは、機会はあったのに無かったから……言い換えると、出来なかったからだと思うんです」
男子なら同じことをするとしても、体育で靴を履き替えた時に隠せば良かった。しかし二日の間を置いて視聴覚室の授業の時に行動したのは、体育だと男女別々になってしまうため機会があっても出来なかったからだと考えた方が自然だろう。
だけどこの可能性はない。女子が犯人かもしれないという部分はともかく、やはり嫌がらせをするならもっと効率の良い方法がある。わざわざ上履きに狙いを定める必要はないし、二日間待つ必要もないのだ。動機も判らないままだし、我ながらナンセンスと言わざるを得ない。
会長もそのくらいのことは判っている。だから早々に次の仮説へと移った。
「誰かが拾った結果、隠されたようになった可能性はどうだ?」
「と言いますと?」
会長は肘をついて、組んだ手に顎を乗せる。
「あの上履きはサイズが大きくて踵がはみ出していた。誰かがぶつかって落とすこともあるかもしれない。そして落ちていることに気付いた奴が拾って一段目に入れたんだが、何かの拍子に横向きになってしまった。多分足が当たったんだと思うが、結果として向きが変わって隠されるようになったということも……ないな。うん、ない」
「自己完結ですか」
とはいえ、会長の言う通りそれも考えにくい。靴箱の正確なサイズは判らないが、幼稚園や小学校に置かれている子供用のものではないのだ。上履きがはみ出すとしたら相当な大きさだし、そんなものがあれば気付かない可能性は低いだろう。すぐに落とした上履きの片割れがどれかは判るはずだ。善意で拾ったにも関わらず、敢えて別の段に入れるのはおかしい。善意と悪意が反転してしまっているではないか。
うーむと唸る会長に、俺も椅子の背凭れへ体重を預ける。
出来ればイジメではないと証明して会長を安心させたいところだけど、イジメだと断定する証拠もなければ、イジメではないと断言する根拠もない。
なんとなく解答まであと一歩くらいのところまでは近づいているように思えるのだが、喉の奥で何か些細な、たった一つの大切なことを見落としている気がして仕方ない。多分それが何なのカ判らない限り、この謎は解けないだろう。喉に魚の小骨が引っかかったような気分である。
取れそうで取れない痒みに近い違和感は、どうしてこうも気持ち悪いのだろう。もし俺が猫や兎みたいなモフモフの動物だったら、背中の毛が全部逆立っているはずだ。
いっそ逆立ちでもしてみたら引っかかっているものが取れるかもしれないな、と苦笑する。諺でも「押してもだめなら引いてみな」と言うし、ちょっとやってみようか。
「……ん?」
そうして立ち上がろうとした瞬間、何かが頭の片隅で引っ掛かった。中腰のまま考えを巡らせていると、現代国語の授業で先生が言っていたことが脳裏に甦る。
人間とは不思議な存在で、物が下から上へ落ちる状況だって作り出すことが出来る。
物が落ちるのはニュートンが発見した万有引力のためで、重力がある場所では例外なく全てがこれに引っ張られる。だから上から下へ落ちることはあっても、逆はないのだ。
だけど人は、それを覆す状況だって作れる。あの文章の作者はそう書いていた。
「上から下が、下から上へ……?」
途端、知恵の輪が解けるように頭の中で一つの仮説が組み上がる。松葉杖、膝の怪我、上履き、上履きを履き替える時、六段目と一段目、善意と悪意。
あぁ、なるほど。そういうことだったのか。
「どうした、前川。ギックリ腰か?」
一人納得する俺に、会長が怪訝そうな表情をする。それは痛いだろうし嫌だなぁ。
「違いますよ。まだそんな歳じゃないです、俺」
「ギックリ腰に年齢は関係ないぞ。要は腰に過度な負担が掛かればなるんだから、いつ誰がなるのか判ったものじゃない。中腰でいるとなりやすいとは聞くな」
慌てて椅子に座り直し背筋を伸ばした。くすくす笑わないでください。
「まぁ冗談はこれくらいにしておいて。……もしかして判ったのか?」
「えぇ、多分。俺が思いつく限りでは一番無理がないんじゃないかな、というものなら」
「聞かせてくれ」
どこから話したものか一瞬だけ逡巡したが、最後からでも大丈夫だろう。俺は頷きながら人差し指を立てた。
「結論から言えば、会長のクラスでイジメは起きていません。問題の上履きは誰に隠されたわけでもなく、偶然に偶然が重なって隠されたようになっただけです」
「偶然?」
「はい。――今回の謎で判らないことは二つ。一つは『誰が上履きを靴箱の一段目に入れたのか』ということ。もう一つは『何故そんなことをしたのか』ということ。俺たちは主に『何故』の方を中心に考えましたよね」
会長は無言で頷く。
「でも、実際は『誰が』の方が重要だったんです。これが判れば『何故』の答えも付いてきます」
「どういうことだ?」
パッと両手を開いて十本の指を伸ばす。
「容疑者は会長のクラスにいる生徒全員、四十人前後です。普通ならこの中から犯人を捜すことなんて出来ませんし、しません。これだけの情報量の中からじゃ見つけられないに決まっているからです」
「だが、お前の言い方からすると特定する方法はあるんだろう? 誰が犯人なんだ?」
「順番にいきましょう。まず、会長は容疑者の中から除外します。動機がないし、仮にあったとしても俺にわざわざ自分の犯行を話すのは変ですから」
当たり前だと会長は目を細めた。怒っているわけでもないが、愉快でもないのだろう。
気にせず続ける。
「次に、誰が上履きに触れるチャンスがあったのか。誰が上履きに触れる理由があったのかを考えてみると、これは全員可能だったはずですし、理由については全く判らないのでどうしようもありません。しかし、じゃあ誰なら絶対触れるかと考えると容疑者が絞れます。答えは犯人と、上履きの持ち主である彼だけです」
「絞れてないじゃないか」
「ところがどっこい。その前のチャンスと理由のことを踏まえると、こう考えられます。クラス全員にチャンスはあったのに、触れる理由はない。――問題の『彼』を除けば」
「おい、まさか」
頷く。
「そうです。上履きを一段目に入れたのは、他の誰でもなくサッカー部のエースである彼自身だったんですよ。それなら色々あった矛盾がなくなります」
「いや、残ってるだろ。それなら誰が上履きを横向きにして、六段目に片方だけ入れたんだ? 第一、奴は何で一段目に上履きを入れたんだ?」
「その答えは会長が言ったじゃないですか」
私が? と会長。
俺は会長の口調を真似して、さっき聞いた言葉を繰り返した。
「言ったでしょう? 『上履きはサイズが大きくて踵がはみ出していた。誰かがぶつかって落とすこともあるかもしれない。落ちていることに気付いた奴が拾って一段目に入れたが、何かの拍子に横向きになってしまった。多分足が当たって、結果的に向きが変わって隠されるようになった』って」
「言ったが、まさかそれが答えなのか?」
俺は唇の端を上げて頷いた。
「最初は揃って靴箱に入っていたんでしょうが、一段目ですからね。会長の言った通り誰かの足が当たって落ちたり、横向きになったりすることもあるでしょう。そうして拾った時、落とした上履きの相方が見当たらなかったら……」
「適当な段に入れる可能性が高い、か」
ざっと見回すことはあっても、一番下の段の中まで覗き込んで探す人がどれだけいるだろうか。大半の人は探しても見当たらなかったら、首を傾げつつ適当なところへ入れるはずだ。少なくとも俺だったらそうする。
「だが、それなら何で奴はわざわざ出し入れしにくい一段目に上履きを?」
「膝を怪我した彼にとっては、そこが出し入れしやすかったからだと思いますよ」
「膝? ……あっ」
そういうことだ。
普通なら立ったまま履き替える靴も、膝を怪我すればバランスが保てず履き替えることが出来ない。そういう時、人はどうするか? 大抵の人なら座るのではないだろうか。
座れば高い位置の段は出し入れしにくくなる。だから彼は低い位置にある一段目に上履きを入れたのだ。
証拠は今のところないし、俺には探すことも出来ない。だが同じクラスの会長なら誰かに訊くことも出来るし、自分で確認することも出来るはずだ。彼が靴を履き替える時に座れば、俺の仮説は正しかったことになる。
短く息を漏らして、俺は背凭れに体重を預けた。これで俺の考えは全部だ。正しいかどうかは判らないしどうでもいいけど、これで会長の悩みが少しでも楽になれば良いなと願わずにはいられない。本当、この人は無理をしすぎて倒れることもあるから。
ちらりと見てみると、会長は両手で鼻と口を覆っている。そのため表情は読み取れなかったが、瞳にあった悩みの色は消えている。どうやら頭を働かせた甲斐はあったらしい。
「そうか、イジメはなかったか……。安心したよ。さすがだな、前川」
「俺は何もしてませんよ。会長の仮説がなければ判らなかったかもしれませんし」
「いいや、お前のお陰だ」
ありがとう、と会長は微笑んだ。凛々しさは失わないまま、柔らかく綺麗に。
積もった雪の中で咲いた桜のような笑みに、俺は自分の頬が赤くなるのを感じて思わず視線を逸らす。不意打ちは卑怯じゃありませんかね……。
「すまなかったな、私の早とちりに付きあわせて。迷惑をかけた」
「いえいえ、全然迷惑なんかじゃないですよ。それだけ周りに気を配れるのって凄いと思いますし、会長のそういうところも俺は好きですよ」
照れ臭くはあるが、隠したって仕方ないことだ。頬を掻きながらそう言うと、今度は会長の頬が赤くなっていく。
「いてっ、何で叩くんですか!?」
「うるさい、こっち見るなっ」
「あだだ、背表紙はやめてくださいファイルの背表紙は!」
そんなことをしていると、他のメンバー三人がのんびり生徒会室に入って来た。時計を見れば既に放課後になってから三十分。遅れたのは掃除当番だったかららしく、中の一人はトイレ掃除の面倒さについて愚痴を漏らしている。ホースで水を撒くと上履きが濡れるから何とかならないものかという意見には同意せざるを得ない。浸みるんだよな、あれ。
三人の姿を見て会長も落ち着き、攻撃が止む。俺がほっと溜息を吐くと、わざとらしい咳払いが響いた。
資料を持って立ち上がる会長に、三人は怪訝そうな顔をする。事情を訊ねるような視線が向けられるけど、俺だって何で殴られたのか知りたい。
まぁとにかく、会長の言う通り遅れた分は取り返さないといけない。謎解きの時間は終わりだ。今日は明日の生徒議会用の資料も作らないといけないから、いつもより忙しくなりそうである。三人には肩を竦めて返事してから、俺も立ち上がって書類を手に取った。
それにしても。
「『も』は卑怯だろ、『も』は……」
すれ違った時に聞こえた会長の呟き。あれはどういう意味だったのだろう? 首を傾げつつ、俺は書類をコピー機に挟む。
窓の外では何時の間にか風も止み、薄くなった雲の向こうから夕日が差し込んでいた。