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追憶の海  作者: 山野絢子
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第7章

 セラフィーマが姿を消したことで、町はちょっとした騒ぎになった。彼女が何故姿を消したのか、私以外に誰も事情を知るものはなかった。そして彼女の両親の元には、しょっちゅう調査のために警官が出入りするようになった。始めは娘の不在、そして警官の出入りに戸惑っていた彼らであったが、所詮父親にとってセラフィーマは継子にすぎず、酒場で働く母親にとっても彼女はその関心の中心ではなかった。彼らの心情など私には推量しようもないが、彼らは徐々に、娘の不在にも警官の立ち入りにも慣れてしまったようであった。そして酒場の男たちも、ギョームですら、すぐにセラフィーマの不在に慣れた。酒場に出入りする女は彼女一人ではなかったし、ギョームにとって彼女は、大勢いる娘たちの一人にすぎなかったからだ。

 ただ一人私だけが、セラフィーマの不在に慣れることができずにいた。警察の調べで、彼女が親密にしていた友人は私以外になかったことが改めて明らかになり、そのことで警官が幾度も私のところへ調査に来た。だが私は、彼女が町を出たいきさつについては黙して語らぬことにした。語ったところで、私は彼女がどこへ行ったかまでは知らないし、もし彼女がいつかこの町に戻って来る気になった時、彼女がここを離れた事情が皆の知るところとなっていたとしたらどうであろう?こんな小さな町のことだ。もしそうなったら、彼女は行き場を失ってしまうに違いない。

 私は待った、セラフィーマが帰ってくるのを。私は両親を説得し、どうでもいいような理由をつけて大学へ行くのを一年延ばした。来る日も来る日も、私はあの巨木の下で、彼女が赤いスカートを翻し、甲高い声で私を呼びながら走ってくるのを待った。レースのような風薫る木漏れ日の中に、夕刻と夜の間の紫色をした光に染まる花かげに、私は幾度もセラフィーマの姿を見た。だがそれは私の追憶、幸福な想像が齎した幻影に過ぎなかった。彼女がアルマの町に戻ってくることは、遂になかったのである。

 そうこうするうちに一年が経ち、私は首都の大学に進学することになった。私は両親と友人、それからあの巨木とセラフィーマの思い出に別れを告げ、一人で町を出た。潮のように私を追ってくる追憶の町、過去の象徴であるこの町に、私が戻ってくることはもう二度とあるまい。

 大学へ進学した私は、脇目も振らず学問に邁進した。大学で過ごした数年の年月は、過去との訣別のために費やされた。私は書物を読み漁った。とりわけ私は、自分と同じく、過ぎ去った時間を振り捨てるために孤軍奮闘する人物の物語を読み耽った。勿論それによって、私が過去の呪縛から逃れられたわけではない。だが私は徐々に、逃れられない過去と付き合う術を覚えた。そして日々の多忙な生活に追われることで、私の傷は徐々に癒えていくように思われた。

 私の精神が日々の生活の中で平穏を取り戻しつつあった、卒業間近のある日のことである。同じアルマの町の出身で、私より先に大学を卒業し、首都で役人としての職を得ていた友人が、学生寮に私を訪ねてきた。

 「久しぶりだな、マキシム!卒業決定おめでとう!」

 友人は私の肩を叩いて言った。久しぶりの友人の訪問は、単調で多忙な大学生活のなかでは有難かった。

 「コーディ!暫くぶりだな。どうだい、役所の仕事はさぞ忙しいだろうな」

 腕を広げて迎える私に、友人は目を瞑って見せた。

 「そうだな、仕事のほうも確かに忙しいといえば忙しいが・・・、それだけではなくてね」

 「どうした?恋人でもできたのか?」

 「まあ、それもあるが」

 友人は意味ありげに笑った。

 「まあ、俺のことはいいじゃないか。それより、おまえの卒業が決まったんだから、今日は一杯付き合わないか。俺の奢りで」

 「そいつはありがたい」

 私は二つ返事で承知した。私は酒場に足繁く出入りする性質の人間ではなかったが、たまには友人と酒を酌み交わすのも悪くないと思ったからだ。銀行の程近く、人通りの多い通り沿いにある広い酒場で、私たちはエールを片手に語り合った。そこそこ酔いが回ってきた頃、友人が不意に切り出した。

 「マキシム、おまえ、ちっともアルマに帰らないんだってな」

 私は沈黙した。彼は肩を竦めた。

 「親父さんとお袋さん、随分心配していたぞ。たまには顔を見せてやらなきゃ」

 「まあ、そのうちにね。手紙は書いているよ。それより皆はどうしている?」

 「知っているか?あのギョームが婚約者を連れて、アルマに戻ってきたぞ。近々結婚するそうだ」

 「ギョームが?」

 私は思わず問い返した。数年前のあの出来事が、私の脳裏にありありと浮かんだ。

 「・・・どうした?気分でも悪いのか」

 友人の声で、私はふと我に帰った。私は彼に微笑みかけてみせた。

 「いや・・・、大したことじゃない。それより、君はどうなんだ。そろそろ身を固めようとは思わないのか」

 友人は満足げな笑みを見せた。

 「俺も来年には結婚するよ」

 「それはおめでとう。その時は僕の奢りで、是非一杯」

 私は友人を祝福した。すると彼は突然真顔になり、私に問い質した。

 「それはそうと、おまえは結婚を考えたことはないのか?首都にはいい女が大勢いるのに」

 「いい女ねえ・・・」

 私は肩を竦めた。

 「残念ながら、僕はちっとも女にもてないのさ。誰も彼も、僕の魅力に気付きはしないんだ。おかしな話だよ」

 私は嘯いてみせ、話題を変えようとした。だが友人は、いつになく真剣だった。

 「そうじゃないんだ。おまえのほうで、女たちに関心がないんだ」

 私は口を噤んだ。私は学問に邁進するあまり、他のことに目を向けたことがなかった。否、果たしてそうなのか?私の心の封印された扉の奥にいるセラフィーマが、今も私を支配していたからなのではなかったか?

 「セラフィーマだな」

 友人が低い声で言った。

 「おまえがあまりにも学問に没頭しているようだったから、本当のことを言うと俺は心配だったんだ。本当はおまえは、セラフィーマを忘れられないのだろう。だからおまえはアルマを出た。違うか?」

 「そうかもしれない」

 私は正直に答えた。嘘をついても仕方がないと思ったからだ。

 「やれやれ、矢張りそうか・・・。だが無理もない、幼馴染のおまえに別れの挨拶もなしに、あの女は急に姿を消してしまったのだから。・・・マキシム、どうだ?このあとちょっと、俺に付き合う気はないか?学問だけで過ごしてきた数年だ。折角の首都なのに、おまえのことだ、楽しみを見つけることもなかっただろう。少し遊んだって、罰が当たることなんかあるまい。ひょっとしたら、ほんの一時でもセラフィーマを忘れることができるかもしれないぜ」

 私を支配し続けているセラフィーマの面影、それからほんの一瞬でも自由になることができたら!私は友人に頷きかけた。察しの良い人であれば、これから彼が私をどこへ連れていこうとしているのか、凡その見当はついただろう。だが私はあまりにも晩熟で、そうしたことには気が回らなかった。友人は金を払い、私を外へ連れ出した。それから彼は、私を裏通りの歓楽街へと連れて行った。乳房を露にした如何わしげな女たちが、私たちに手を振り、声をかけた。そこで私は初めて、彼が私をどこへ誘おうとしているのかを理解したのであった。

 やがて友人は、私を一軒の小ぢんまりとした店に案内した。そこは娼館だった。エールで酔っていた私は、彼に抵抗するだけの気力もなく、案内されるままにそこへ入った。胸の大きく刳れたドレスを着て、香水と酒の匂いをぷんぷんさせた女たち、それから年増の元娼婦と思しき女将が私たちを迎えた。友人は慣れた様子で女将に挨拶をし、気に入った娘を大勢の中から選んだ。彼はこなれた仕草で娘の唇にキスをして、その場に突っ立ったままの私に言った。

 「マキシム、おまえも好きな女を選べよ。心配するな、今日は俺の奢りだ」

 私は躊躇った。その様子を見て、女将は脂ののった身体を揺すって笑った。

 「こちらさんは、学生さんかしら。こういう所は初めてだろう。あたしにはわかるよ。どうしていいのかわからないなら、あたしから手頃な娘を紹介しようじゃないか。慣れているし、いい子だよ。今ちょっとここにはいないけれど、丁度客がひけたとこだ」

 彼女はそう言うと、私を二階にある小部屋へ案内した。ゆっくり楽しめ、という友人の声が、私の背中を追った。私は案内されるままに、小部屋の中へ入った。

 「こら、しっかりおし!」

 薄暗い蝋燭の明かりの中でベッドに横たわる下着姿の娼婦を、女将は叱り飛ばした。歳は私と同じくらいだろうか。ほっそりとした黒いコルセットにガーターベルト、ストッキングだけを身につけた彼女は、大儀そうに身を起こした。彼女の胸、そしてコルセットに覆われぬ腰から下の部分は、露なままであった。女性のそのような姿態を見るのは、私にはそれが初めてだった。思わず目を逸らした私を見て、女将が笑った。

 「何も恥ずかしがることはないさ。誰にでも初めての時はあるもんさ。心配しなさんな、あとはこの子が、うまくしてくれるよ」

 「いらっしゃい、初心な学生さん」

 若い娼婦は立ち上がり、私の手を取った。女将は薄笑いを浮かべ、扉の向こうに消えた。エールで酔った私は、娼婦に促されるままにベッドの縁に腰掛けた。この時私はもう二十歳も過ぎていたというのに、何をどうしていいのか、さっぱり見当もつかなかった。この状況、私がこのような如何わしい場所にいることも、私の隣に女性が裸でいるということも、まるで現実味がないように感じられた。

 「僕は・・・」

 「黙って」

 娼婦は私をベッドに押し伏し、私の言葉を口づけで塞いだ。彼女の吐息からは、エールやワインではない強い酒の匂いがした。酔っているのか、蝋燭のおぼろげな光に照らし出された彼女の目の淵は赤かった。私は戸惑いながら、彼女の接吻を受け入れた。私の顔に掛かる、彼女の乱れた金色の髪の一筋一筋が、妙に生々しく感じられた。

 そのときふと、彼女の手が止まった。彼女はつとベッド脇の小さな卓の上にあるランプに手を伸ばすと、私の顔を照らした。ランプの明かりの中に、彼女のエメラルド色の瞳が浮かび上がった。

 「マキシミリアン・・・!」

 やや掠れた声で、彼女は言った。私は耳を疑った。私を「マキシミリアン」と呼ぶのはただ一人、ただ一人の人しかいなかった。目を凝らして、私は目の前にいる娼婦の顔を今一度とくと見た。何ということであろう、それは私が何年もその面影を振り払おうと苦しんだ、セラフィーマの面差しであったのだ!そして彼女は、かつてそうしたように私の名を呼んだのだ。過去が、私が逃れようと足掻いてきた追憶が、私を大海の渦のように飲み込もうとするのを私は感じた。そこに足を掬われ、溺れていく自分自身を、彼女の燃えるような眼差しにこの身が焼き尽くされていくのを、私は戦慄の中で感じたのだ。次の瞬間、私はどうしたか。踵を返し、過去を閉じ込めたこの小部屋から、袋小路にあるこの娼館から逃げ出したのだ!

 どこをどう走ったものかわからなかったが、私はいつのまにか、学生寮の中にある自分の部屋にいた。見慣れた狭い部屋の光景が、私を酷く安堵させた。私は顔を洗い、ベッドにどうと身を投げ出し、そのまま眠りについた。私はひどく疲れていて、ただただ眠りたかったのだ。

 翌朝目を覚ますと、太陽は既に中天に昇っていた。酒を飲みすぎたせいか、頭がまだずきずきとしていた。だが昨夜のことは、悪い夢のようにはっきりと私の記憶に残っていた。私は何故昨夜、セラフィーマの元から逃げ出してしまったのであろう?過去に足を掬われ、私は未来のことを考えることを忘れてしまっていたのではないか?どのような状況であれ、私はあれほど思い焦がれたセラフィーマに再会することができたのだ。それなのに何故、私は彼女と未来を語ることをしなかった?

 そうだ、未来だ―。私は思った。セラフィーマのことを忘れようだなんて、何という馬鹿げた考えに私は取り憑かれていたことか。私はもう、過去の呪縛を恐れない。私は未来を紡ぎ出すのだ。彼女と二人で、これから―。

 私は急ぎ、あの娼館へ向かった。セラフィーマに再び会うことを期待して。過去のことなど、もうどうでもよい。彼女に会って、今度こそもう一度二人で未来を築くのだ。夜の華やかさが嘘のような、掃き溜めのように薄汚れた昼間の歓楽街を、私は期待に胸を膨らませ、飛び立つ鳥のように意気揚々と歩いた。アルマには帰らず、二人でここから、新しい生活を始めよう。私はセラフィーマの名を呼び、激しく娼館のドアを叩いた。二階の窓から、昨晩の太った女将が、下着姿のまま化粧っ気のない顔を出した。

 「一体何だい、こんな時間に!女の子たちはみんな眠ってるよ!」

 「セラフィーマに会いに来たんだ。彼女に会わせてくれ!」

 私は叫んだ。女将はふんと鼻を鳴らし、私の顔をじろじろと見て言った。

 「あんた、昨日の客だね。あの子、本名はセラフィーマといったのか。ご大層な名前だね」

 「彼女に用があるんだ。会わせてくれ!」

 私は尚も懇願した。だが女将の答えは、私の希望を完全に打ち砕くものであった。

 「あの子は、昨夜のうちにここを逃げて出ていっちまったよ!」

 「何だって・・・?」

 私は、自分の全身から力が抜け、血の気が失せていくのを感じた。私はまたしても遅かったのだ。私は、自分の意気地のなさを呪った。どうして昨日、私は彼女に今日言おうとしていたことを言えなかったのか?

 「それで、彼女の居場所は・・・」

 「知るもんかい!」

 女将は吐き捨てるように叫んだ。

 「あんたがあの子を抱かなかったせいで、あの子は大分傷ついたはずさ。だいたい娼館に来て女を抱かないなんて、そんな馬鹿げた話があるもんかい。娼婦にとっちゃ、それはこれ以上ないほどの屈辱さ。あの子も悔しかったろうよ。こっちとしては、稼ぎ頭を失って今日から商売あがったりさ。それにあの子は、この店にまだ大分借金があったのに・・・。あああ、あんたみたいな客に、あの子を引き合わせるんじゃなかった!さあ、とっととどっかへ行ってくんな!あんたみたいな若造、あたしゃ反吐が出るほど嫌いなんだよ!」

 女将はそう言うと窓をぴしゃりと閉じてしまった。何ということだ、私は過去を恐れるあまり、開きかけた未来への扉を自ら閉ざしてしまったのだ。私の心の中の唯一の愛、その支配の力を恐れるあまりに・・・。一度は掴みかけた二人の未来は、私の手の間からすり抜けて失われてしまったのだ。

 暫くの間、私はなりふり構わずセラフィーマの行方を探した。勿論街の警官の詰所にも相談に行ったが、何しろ首都は大都市だ。娼婦一人がいなくなったとて、それが一体何になろう?長いこと待たされた挙句に沢山の書類を書かされ、すっかり疲弊した私を迎えた署長は、ただ私の用意した膨大な書類に判を押して引き出しにしまったきりで、それ以上のことは何もしてはくれなかった。結局、それから私は一度もセラフィーマを目にしていない。彼女が生きているのか死んでしまったのか、今となってはそれすらも知る手立てがない。そして私は、彼女の不在にも関わらず、自分の生活を営まなければならなかったのだ。彼女を失った後も、何年も何年も・・・。

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