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追憶の海  作者: 山野絢子
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第6章

 食事が終わったあと、私は一人になりたかった。久しぶりに、私はあの懐かしい大木の下に行き、今後のことを一人で考えようと思った。夜が更けるまでは、まだ少し時間があった。仄明るい青い闇の中、夕刻と夜の間のその時間、私は紫色に染まる路傍の花の間を歩き、あの大木の下にやってきた。

 私は、セラフィーマと私だけが知る幼い頃の隠れ家、この木の洞の中を、数年ぶりでそっと覗き込んだ。もう長いこと放置されたままのそこは、落ち葉や苔が溜まっていて、昔のようではなかった。それによく見ると、洞のそばには以前はなかった小枝が伸び、その先には小さな白い花が咲いていた。春には青々と緑の枝を伸ばし、冬には枯葉をすっかり落とすという過程を自然の営みの中で延々と繰り返すこの木は、未来永劫不変であるように私は思ってきたが、私の知らぬうちに、木は少しずつ変化していたのだ。今こそ私も、変わらなければならない。変わらぬと思われたこの木が、私の知らぬうちに変わっていたように。この古い町を捨て、古い記憶を脱ぎ捨て、まだ見ぬ新しい世界へと、春に小鳥が巣を捨てて飛び立つが如くに飛び立つのだ―。 

 「マキシミリアン!」

 突然、息を潜めた甲高い声が、私の感慨を打ち消した。もう長らく私の名を呼ぶことのなかったあの声、懐かしいあの声!今まさに船出せんとする男たちを誘惑するセイレーンの如くに、私を追憶の海に引きずり戻すセラフィーマの声だ。私はその場を走り去ろうとした。が、結局私は誘惑に打ち克つことは出来なかった。半ばいとおしく、半ば疎ましく感じながら、私は彼女のほうを振り返った。そうすれば私はまた、止まったままの時の中に引きずり込まれてしまう、そのことを知りながら、私は彼女のほうを振り返ったのだ。

 「マキシミリアン・・・!」

 私の顔を見た途端、セラフィーマの双眸から、堰を切ったように涙が溢れ出た。いつものあの燃えるような輝きは、彼女の瞳から失われていた。そのかわりそこに浮かんでいたのは、狼狽と恐れの色であった。私はそれを見た途端、彼女が私にした仕打ちも、私の悲しみも決意も、全て忘れた。私は彼女に寄り添った。セラフィーマは私の胸に、小さな頭を凭せ掛けた。思わず彼女の肩を抱いた私に、彼女は震える声で問うた。

 「マキシミリアン、私、どうしたらいい?どうしたらいいのか、全然わからないの。あなたなら、知っているでしょう?」

 「一体何があった、セラフィーマ?」

 私は尋ねた。セラフィーマは一層激しく泣いた。私はしっかりと、彼女を抱きしめた。

 「落ち着いて、ゆっくりと息を吐くんだ。そう・・・。落ち着いて、僕に話してごらん」

 私が彼女の背をさすると、彼女は漸く少し落ち着きを取り戻した。ややあったのち、彼女は俯きながら、搾り出すように私に言った。

 「私、妊娠しているの」

 私は耳を疑った。頭の中が真っ白になり、何も考えることができなくなった。こんな小さな町のなかで、結婚すらしていない娘が身篭ったとなると、彼女は一体どうなる?大人たちは彼女を罵り、石で打つだろうか?

 「・・・それは、誰の子なの?」

 私はおずおずと尋ねた。セラフィーマは再び泣きじゃくった。

 「この子は、ギョームの・・・」

 私の脳裏に、ギョームの顔が浮かんだ。彼は私の学校仲間だった。成績は大層良かったが、学生のくせに酒場にも足繁く出入りしている男で、彼の周りには常に多くの娘たちがいた。私は体の奥から、言い知れぬ怒りが湧き上がるのを感じた。

 「ここで待っていろ」

 私はセラフィーマに言うと、一目散に酒場へと駆け出した。思った通り、ギョームはそこにいた。私は乱暴に酒場のドアを開け、つかつかと中へ踏み入ると、悪童たちとエールを飲み交わしていたギョームの胸倉を掴み、彼を表へ引きずり出した。

 「一体何の用だよ、マキシム?おまえが酒場とは珍しいな。だが俺は、おまえの愛しいセラフィーマじゃないぜ」

 彼は口元に嘲笑うような笑みを浮かべて言った。彼の記憶には、私がセラフィーマに嘲笑されたあのときのことが鮮明に残っていたのだろう。

 「僕の質問に答えろ、ギョーム!」

 私は彼に詰め寄った。

 「セラフィーマと結婚する気があるのか、ないのか。彼女はおまえの子を身篭っているんだぞ。身に覚えがないなどとは言わせるものか」

 「セラフィーマ?ああ・・・、確か、一度抱いてやったよ」

 ギョームは欠伸をしながら言った。

 「じゃあ答えろ!おまえはどう責任を取るつもりなんだ!」

 ギョームは、私の顔をまじまじと見た。それから、彼は突然真顔になって言った。

 「マキシム、おまえは本当に、セラフィーマに惚れてるんだな。だがはっきり言おう。セラフィーマが何と言おうと、腹の子は俺の子じゃない。おまえも知っているだろう?セラフィーマがここへ来て、幾人もの男たちと遊んでいたのを。それなのにどうして、赤ん坊が俺のだってわかる。わかるわけがないじゃないか。それに俺は、九月から首都にある大学へ進学する身だ。その上婚約者もいる。どうしてあんなあばずれのために、俺の一生をふいにできる?どうして子供の頃からの約束を破って、彼女を不幸にすることができる?」

 ギョームはそう言うと、胸元からロケットを取り出し、それを開いて見せた。そこには私たちと同じくらいの年頃の少女の像があった。いかにも奔放なセラフィーマとはまるで違う、知的な面差しをした少女だった。

 「彼女は、首都の郊外に住んでいるんだ・・・」

 夢見るようにギョームは言った。私は思わず、彼の頬を殴った。地面に倒れた彼は、ぽかんとして頬を片手で抑えながら私のほうを見つめるばかりだった。私はもう、それ以上何も言うことができなくなり、その場を立ち去ると、あの巨木の下に戻った。セラフィーマは、まだそこにいた。私は、思わず彼女に詰め寄った。

 「答えるんだ、セラフィーマ!」

 私の剣幕に、セラフィーマは驚いて目を丸くした。

 「どうしてあんな奴に抱かれたりなんかした?あいつは君を、あばずれだなんて呼んだんだぞ。君の子があいつのかどうかなんてわかりゃしないとまで、あいつは言ったんだ!それなのにどうして、あんなやつに抱かれた?」

 「だって、ギョームはあの酒場で、私と結婚してもいいって・・・。そして、これをくれたんだもの」

 セラフィーマは、胸元からいびつな形の真珠がついたペンダントを取り出した。こんな鍍金の安ぴかものと、酔っ払った色男の真実味のない甘い言葉のために彼女は自分の身を差し出したというのか?私は途端に情けなくなった。

 「セラフィーマ、一体君にはわかっているのか?小さな町のことだ、こんなことが明るみになれば、君はここにはいられまいよ。さりとて、君に行くあてなんかあるのか?親父さんは何て言うだろうね?」

 「たった一度、たった一度きりなのに!」

 セラフィーマは顔を覆って泣いた。

 「それがこんなことになるなんて・・・」

 私は忌まわしいペンダントを引き千切り、その場に捨てると、セラフィーマを連れて急ぎ銀行へ向かった。そして私はありったけの貯金を下ろすと、彼女を町外れにある潜りの施療院へ連れて行った。今でも私には、自分のしたことが正しかったのかどうかわからない。だがセラフィーマは、無言で私に従った。彼女は完全に思考の力を奪われていたのだろう。

 劃して、セラフィーマの子は闇に葬られた。夜はすっかり更けていた。彼女が施療院から出てくるまでの間、私はずっと外で待っていた。時折聞こえる、彼女の苦しげな喘ぎとも叫びともつかない声が、罪の意識とともに私を苛み続けた。やがて施療院からよろよろと出てきた彼女は、編んだ髪を乱し、月明かりのなかでまるで死人のように青ざめていた。私は彼女を抱きしめた。もう首都の大学へ行くことなど、どうでもよかった。

 「結婚しよう、セラフィーマ」

 私は彼女の手を取って言った。

 「僕はずっと、君の傍にいるよ。大学になんか行かない。そうだ、それが一番いい。僕と結婚しよう、セラフィーマ・・・」

 「・・・今更遅いわ」

 セラフィーマは青ざめた唇を吊り上げ、私を嘲笑うような皮肉な笑みを浮かべて言った。

 「それじゃあ君は一体、これからどうするつもりなのか?」

 私は尋ねた。彼女はぺっと唾を吐き捨てて叫んだ。

 「こんな町、もうまっぴらごめんよ!男たちも、私をこんな目に遭わせたギョームも、私に無関心な母さんも、厭らしいあの継父も、それから優柔不断なあんたも!」

 セラフィーマは、私の手を振り払った。彼女はとぼとぼと、町を出る道を歩いていった。そう、何も持たずに。私は彼女を止めることもできずに、ただその場に立ち尽くすばかりであった。

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