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追憶の海  作者: 山野絢子
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第4章

 あの木の下での一件以来、私は数日の間、敢えてセラフィーマと顔を合わせないようにしていた。彼女が木の下に私を尋ねてくることもなかった。しかし、彼女と会わなかった短い間に、私は自分が全身全霊で彼女を求めていることをまざまざと知った。彼女の姿を見ない日々は、どれほど単調で退屈であっただろう。それでいて、彼女と会わない間、私は煩悶として熱に浮かされたように落ち着きがなかった。

 木の下での一件以来、彼女が足繁く酒場に出入りしているということが、私を酷く動揺させ続けていた。彼女は他の男たちにも、あのように自分の身体を撫でさせているのだろうか?私はその考えを頭から振り払おうとしたが、そうすればするほど、その忌まわしい考え、それからあの木の下で味わった陶酔と興奮のないまぜになった潮のような感情の渦が、私を捉えて離さないのだ。そしてその度に、私は身体の内側から炎で焼かれたような感覚に襲われた。それは私の理性を超えた、戦慄に近い感覚だった。私は幾度も、彼女に会って事実を確かめたいという衝動に駆られた。しかし彼女に会うことは、どうにも気まずいことのように思われた。

 私はいつもの巨木の下で、ただ煩悶としてセラフィーマのことを思うばかりであった。彼女のほうから私を訪ねてきてくれることを私は切に願ったが、そのような幸運は訪れようはずもなかった。だが運の良いことに、その日はセラフィーマの誕生日であった。私はそれにかこつけて、彼女に会うきっかけをつくることを考えた。

 私はセラフィーマに、手紙を書いた。何度も何度も彼女に手紙を書こうと試みたが、本当に思いを伝えたのはこのときが最初で最後だ。私は幾度も手紙を書き直したが、どうもうまくいかない。そこで私は、ただ一つだけ、伝えたいことを書くことにした。ただ「愛している」と、一言だけ書いたのだ。

 それから私は、野の花を摘んだ。私だけが知る秘密の場所で、野生の百合を何本も摘んだ。芳しい香りを放つ白い花は、清らかではあるが野生の強さを秘め、私にとってセラフィーマその人のようであった。私は腕一杯に摘んだ贈り物を抱え、セラフィーマの家へと向かった。

 辺りはもう夕刻の闇に包まれていた。私がセラフィーマの家のドアを叩くと、出てきたのは飲んだくれた父親だけであった。

 「よう、マキシムじゃねえか」

 酒臭い息を吐きながら、彼は私の肩を荒っぽく叩いた。

 「丁度良かった。こっちへ来て、一杯やらねえか」

 「いや、僕は結構です。それよりセラフィーマは・・・」

 私は家の中を見回した。彼女の気配は、どこにも感じられなかった。

 「あいつぁ酒場にでも行ってやがるのさ、あのあばずれめ!」

酔っ払いは唾をぺっと吐いて言い捨てた。

 「あれは母親と同じなんだよ。酔っ払った男どもに撫で回されて、さぞかし満足してることだろうよ」

 私は彼の言葉を聞き、身体の奥が熱くなるのを感じた。心臓が早鐘を打ち、いてもたってもいられなくなった私は、花束と手紙を抱えたまま、一目散に酒場まで走った。酒場に着いた私は、窓から漏れるランプの光を頼りに、そっと中を伺った。大勢の男たちに混じって、グラスを掲げるセラフィーマの姿があった。酔っているのか、目の淵が仄かに赤かった。彼女は私には見せたことのないあだっぽい仕草で喉を反らし、グラスの中身を一気に干した。男たちが、彼女に喝采を送った。彼女は艶めいた声で笑い、傍にいた若い男にしなだれかかった。

 私の知らないセラフィーマがそこにいるのを見ると、私は全身が熱くなるような、それでいて悪寒に襲われるような、妙な感覚に囚われた。たまらなくなり、私は乱暴に酒場のドアを開けた。両腕に花を抱えた私の姿は、如何にも酒場に不釣合いであったことであろう。皆は談笑を止め、私のほうをじろじろと見た。私は足が竦みそうになるのを感じたが、それでも酒場の中へ入り、セラフィーマの手を漸く取った。私は彼女を無理矢理立ち上がらせ、外へと連れ出した。酔った客たちの不満の罵りが聞こえたが、そのようなことは私にはどうでもよかった。

 「何よ、こんなところへ連れ出して」

 酔ったセラフィーマは、ふらつきながらも私の手を振り払った。彼女は腕を組んで仁王立ちになり、ほっそりとした顎をつんと反らせて、嘲笑するかのようにその緑色の瞳で私を見た。

 「今日は君の誕生日だから、これを」

 私は彼女に、腕一杯の百合の花と手紙を渡した。彼女は私の贈り物を受け取ると、横を向き、喉を反らせて笑った。と思うと、彼女はとつぜん酒場のドアをぐいと開けて大声で言った。

 「みんな見て!マキシムがこんなものをくれたわ!今日は私の誕生日なの。マキシムは覚えていたんですって」

 彼女は甲高い声で笑うと、おもむろに私の手紙を広げた。

 「手紙までついてるわ。親愛なるセラフィーマへ、愛している、ですって!」

 私はその瞬間、自分の顔が赤くなるのを感じた。皆が手を叩き、私を囃すのが聞こえた。セラフィーマは花束と手紙を床に落とし、傍にいた男にしなだれかかった。ジプシーの楽団が享楽的な音楽を奏で、彼女は皆の手を取って踊り始めた。その場にいた男たちと、代わる代わる彼女は踊ったのだ。その度に、床に落ちた私の贈り物は無残にも幾多もの足に踏みつけられ、惨めな残骸と成り果ててしまった。

 私は絶望し、項垂れて家路に着いた。セラフィーマは何人もの男たちにしなだれかかったばかりか、あろうことか私を酔客の前で嘲笑さえしたのだ。私の真心は遂に、彼女に通じることはなかった。幼い日に私の姫であったセラフィーマ、美しいセラフィーマ。

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