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追憶の海  作者: 山野絢子
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第2章

 結局のところ、私にとって最も幸福なセラフィーマとの思い出は、幼い頃のそれ以外にないことに、私自身驚かされる。幼かった頃、あの巨木の下に行けば、私はいつでもセラフィーマに会うことができた。私はいつでも彼女の手を取り、彼女を私だけが知るいろいろな場所へ連れて行った。森の中の、もともと動物の巣であったと思しき小さな洞窟。小鳥の巣の掛かった特別の木。コケモモの茂み。そして、野生の百合が群生する野原。私たちはそうした場所に、秘密の名前をつけ、自分たちだけの世界の地図を描いたものだ。そしてその世界では、私はいつでも強く勇敢な騎士マキシミリアンで、彼女は最果ての国の姫君セラフィーマだった。

 ある日、私たちが百合の野原にいた時のことだった。よく晴れて、暖かい日だった。セラフィーマは摘み取った百合の花を編み、花の冠を作っていた。私はその傍らに寝そべり、半ば夢現で、青い空、それから俯いたセラフィーマの横顔、そこにまとわりつく金色の後れ毛を眺めていた。それは私、騎士マキシミリアンと、セラフィーマ姫の、最果ての地までの旅の途中の休息の時であった。

 やがてセラフィーマは花冠を編み終えると、不意に私のほうを向いた。私が草の上から起き上がると、彼女は私の頭にそれを載せた。

 「マキシミリアン」

 何かを訴えるかのように緑色の宝石のような丸い目を見開き、彼女は私の名を呼んだ。それから彼女は俯き、小さな声で言葉を継いだ。

 「あなたは、私の騎士。けれども、あなたがいつか王様になることを、私は願っているわ」

 それから、彼女は私の手を取った。わたしは酷くどぎまぎした。いつも忠実な騎士としてそうしてきたように、彼女の右手の甲に口づけすることだけが、私にできた精一杯のことであった。

 だがこの時から、私にはセラフィーマを守ることができるのは自分だけなのだという、使命感にも似た自負が生じていたように思う。私たちの想像世界において、彼女の唯一の騎士がほかならぬ私自身であったことが、そうした自負の元となっていたことは疑う余地がない。だが結局のところは、現実世界における彼女の家庭での生活が恵まれないものであったことも原因していたようだ。

 だが幸福だった幼い日々、想像の世界の遊びは、その必然として、終焉を迎えることとなる。私たちは最果ての国へ辿り着くことなく、いつしか旅を終えることとなってしまった。最早セラフィーマは、私だけのセラフィーマ姫ではなかった。年頃になるにつれ、彼女は女たちに特有のあの魅力、捉えどころのないあの美しさを湛えるようになり、子供ながらに私は、それを驚きの目で見ていた。そしてその頃から、彼女に関心を持つ少年は、私一人ではなくなっていったように思う。少年たちからの陽気な誘い、思わせぶりなおしゃべり、膝小僧を半分出した、短いスカートに取って変わった長いスカート。そうしたものに気を取られるうち、彼女はいつしか、子供の頃の遊びをすっかり止めてしまい、私を訪れることもめっきり減った。そして騎士である私だけが、守るべき姫のいなくなった子供時代の王国の中に取り残された。

 そんなある日のこと、アルマの森の巨木の下で、私は本を読んでいた。ここは相変わらず私の気に入りの場所だったが、木の洞はもう、私が入るには小さすぎた。私は相変わらず空想の世界に浸っていたが、もう私の空想を分かち合う相手は、私自身以外になかった。子供の頃に私の姫君だったセラフィーマは、この頃になると、私と同い年だというのに、私よりも随分大人びて見えた。彼女は時折この木の下へやってきたが、以前のように毎日私を訪れることはなくなっていた。

 「マキシミリアン!マキシミリアン!」

 久しぶりに、彼女の相変わらず甲高い声が響いた。彼女は私のセラフィーマ姫であることをやめてもなお、ふざけてわざと畏まり、私を「マキシミリアン」呼ぶのであった。彼女は笑いながらこちらへやって来た。

 「また読んでるのね、くだらない本を」

 彼女は私の手から本を取り上げた。

 「なになに、騎士道の本。第一章。騎士たらんものは・・・」

 「やめろよ!」

 私はセラフィーマの手から、本を奪い返した。頁の間に顔を埋める私を見て、彼女は肩を竦めた。

 「この人ったら、あきれた!」

 彼女は小馬鹿にしたように言った。

 「まだ騎士なんかに夢中になってるんだから!いい加減に大人になったらどう?」

 私は彼女を無視して、再び本に没頭しようとした。が、彼女は頁を手で遮り、私の顔を覗き込んで邪魔をした。

 「そこをどいてくれよ、セラフィーマ」

 懇願する私を無視して、彼女は言葉を続けた。

 「ねえ、今度のお祭り、誰と行くの?」

 そう、アルマの町では年に一回、大きな祭がある。その祭の日が、もう目前に迫っているのであった。アルマは普段は静かな田舎町だが、祭の日には大きな十字架と聖母子像を掲げた山車や神輿が幾つも町や森を練り歩き、伝説の人物に扮した子供たちが、色とりどりの衣装で歌い踊る。晴れ着を着た娘たちが撒く花びらが散り敷かれた道端には市が立ち、占いや見世物の小屋が立つ。祭の日には他所の町からも人が大勢やってきて、それはすごい賑わいだ。アルマの町では、誰もが普段は質素で慎ましい暮らしをしているが、この日ばかりは皆晴れ着を着て王様のように過ごすのだ。そして祭の日は、必ずといっていいほど若い男たちは意中の娘を誘って出かけるのである。ただ、私にはそんな意中の娘などいようはずもなかった。そのせいか私は祭そのものにも無関心で、一人貪るように書物を読み耽っていた。

 「誰と祭に行くかなんて、まだ決めてない。第一、行かないかもしれない」

 私は正直に答えた。セラフィーマは白い喉を反らせて笑った。

 「やっぱりね。私は、ジェイミーと行くわ」

 「そうかい」

 私は再び、書物に目を落とした。彼女はもう一度肩を竦めると、踵を返して走り去った。

 「それじゃあね、マキシミリアン!」

 セラフィーマの甲高い笑い声だけが、私の耳に残った。


 祭の日になった。私は家で本を読んでいるつもりであったが、荷物の持ち手が欲しい母の頼みで、祭へ出かけざるを得なくなった。私と同年代の少年は皆、娘たちと共に出かけていくのに、私一人が母親と一緒だ。気の進まない私は、のろのろと晴れ着に着替え、母の後からついていった。

 町は普段からすると信じられないほどの人で埋め尽くされていた。色鮮やかな造花に彩られた山車に神輿、輝く巨大な十字架、聖母子像。仮面をつけ、伝説の人物に扮した子供たち。ジプシーの楽団。火を吹く芸を見せる芸人。水晶占いから菓子まで、ありとあらゆるものを並べてひしめく無数の小さな屋台。そのけばけばしい色をした屋根。色の洪水と人いきれの中で、私は気分が悪くなり、その場にくずおれてしまいそうであった。そのとき私は、歌い踊る人々の輪の中に、見慣れたセラフィーマの姿を見つけた。彼女は大勢の男たちと、代わる代わる手を繋いで踊っていた。片足でくるりと回った彼女の編んだ髪が解け、波打つ豊かな金髪が風の中に靡いた。

その一瞬、私の中で時が止まった。五月の日の光を受けて輝くセラフィーマの髪が、如何に美しく私の目に映ったことであろう。彼女の燃えるような緑色の瞳、小さな花びらのような紅い唇、上気した薔薇色の頬。彼女のしなやかで華奢な手足はまるで雌鹿のそれのように弾み、若枝のような瑞々しさに溢れていた。

「マキシミリアン!」

 私に気付いたセラフィーマは、甲高い声で私の名を呼んだ。彼女が大勢の中から私を呼んだ瞬間、それはどれほど幸福な瞬間であったか。

 「私、あなたは来ないと思ったわよ」

 セラフィーマは笑いながら言った。ジプシーの楽団が奏でる、激しく陽気な、しかし哀調を帯びた音楽に合わせて、彼女はステップを踏んだ。

 「マキシム、あなたもおいでなさいよ」

 「僕は踊れないよ、」私はやや面食らって言った。

 「君も知っているだろう、僕がダンスが苦手なことくらい」

 「いいじゃないの」

 セラフィーマはお構いなしだった。

 「今日はお祭の日だもの。要は楽しければいいの」

 私たちの姿を見て、ジプシーの娘が微笑みながらロマ語で何か声をかけてきた。何を言っていたのかは知らない。彼女の言葉を聞いたジプシーの陽気な楽団は皆微笑み、一層激しい音楽を奏でた。早弾きのギター、異国風のリズムを刻む太鼓、高く低くうねるクラリネットに、激しく踊る娘が鳴らすタンバリン。腰と頭に巻いたスカーフに縫い付けた無数のコインを鳴らしながら、ジプシーの娘は私たちの前にやってきた。彼女は相変わらずロマ語で何か言いながら、突然私とセラフィーマの手を取って重ねた。

 ジプシーの娘と共に笑いながら、セラフィーマは私と踊った。くらくらと人を幻惑させるような賑々しい楽の音、激しくうねるその調べの中心に、燃えるようなセラフィーマの瞳があった。エメラルド色の瞳はもの問いたげに、じっと私を見つめていた。

 あの幸福な美しい一日、私の人生で最も輝かしかったあの日に戻ることができれば、どれほどよいことであろう。しかし私は歳を取った。そしてセラフィーマの行方は、杳として知れない。

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