第1章
幸福だった幼い日々。私はここから遠く離れた、アルマの町に住んでいた。アルマは他の町と違い、森の中に町が溶け込んだようなつくりになっている。森の中に切り開いた土地に建てられた家や施設は、舗装されることもない入り組んだ道で繋がれ、そこここに他の町では見られないような巨木が立っている。その木のひとつが、私の隠れ家だった。いつものように木の洞によじ登り、私は空想に耽っていた。今でもありありと思い出される、青々とした風の匂い、小鳥の囀り、生い茂る木の葉のざわめき、狭い木の洞の心地良さ。木々の枝の隙間からトルコ石のように青い空を眺めながら、私はそこに、巨大なドラゴンやグリフィン、麒麟が次々と舞い飛ぶ様を思い浮かべていた。
「マキシミリアン!」
突然、耳慣れた甲高い声が私の空想を掻き消した。
「お願い、私を隠して!早くそこから出てよ、マキシミリアン!」
私は木の下に目を遣った。エメラルドのような緑色の瞳をした少女が、如何にも切羽詰った様子で私を見上げている。彼女は後ろを振り返り、居ても経ってもいられないといったふうにぴょんぴょん飛び跳ねながら叱責するように言った。
「何をぼんやりしてるの!」
「それが人にものを頼む態度かい。先にここにいたのは僕なんだぞ」
私が肩を竦めて木の洞から降りると、少女は貂のように身を滑らせてそこに身を隠した。ほどなくして、髭を生やした大柄な男が一人、息を切らせて走ってきた。
「マキシム!いいところで会った、」彼は肩で息をしながら言った、「うちのやつがこの辺りに逃げてきた筈なんだ。見やしないかい?」
「ううん、見ないよ」
私はいつものように答えた。
「そうか・・・。そこらへ隠れているんだろうな。見つけたらただじゃおかねえ」
男は忌々しそうに呟くと、ぺっと唾を吐いて去っていった。彼の姿がすっかり見えなくなってから、私は木の幹を叩いて洞の中の少女に合図をした。
「セラフィーマ!親父さんは行っちまったよ」
「マキシミリアン、私、降りられないの。降ろしてよ、早く」
セラフィーマは困ったような声で言った。これもいつものことだ。私は両手を差し伸べ、彼女が洞から出るのを助けてやった。彼女は赤いスカートの埃を払いながら、安堵の溜息を吐いた。
「見つからなくてよかった。父さんにぶたれるのはいやだもの」
「今度は何をしでかしたんだい?」
私が尋ねると、途端にセラフィーマは不機嫌な顔つきになった。彼女はお下げに編んだ金色の髪を振って答えた。
「何もしやしないわ!私、一度だって何かしたことなんかないんだから。お腹がすいて、牛乳を少し飲んだだけよ」
「でも、それだけでぶったりなんかしないだろう?君のお父さんだよ」
「あんな奴、お父さんなものですか!」
吐き捨てるように言うセラフィーマの様子を見て、私ははっとした。
「だって、本当のお父さんじゃないもの」
「ごめんよ」
私は咄嗟に謝った。セラフィーマの父親は、最近やってきた継父だった。大人たちの話では、彼は酒びたりで働きもしないろくでなしということだった。家計を支えるのは専ら酒場で働く母親のほうで、夜になるといつも脂粉を凝らして出かけていくのであった。その間家にいるのは、父親と幼いセラフィーマだけということになる。酒に酔った継父は、よく彼女に手を上げていたのだろう。私は知っていたのだ。彼女がよくここへ来て、人知れず泣いていたのを。
人知れず?いや、今から思えば、意識しているのといないのとに関わらず、彼女は私に助けを求めていたのかもしれない。彼女は、私がいつでもこの木の洞にいるのを知っていたのだから。
「君の父さんは、君をしょっちゅうぶつの?」
尋ねる私に、セラフィーマは頷いた。
「昨日も二度、ぶたれたわ」
「今度は、僕が助けてあげる」
「あんたが?」
思わず口走った私の顔を、セラフィーマは一瞬目を丸くして見つめた。それから彼女はふと我に帰ったように、甲高い声を上げて笑った。
「あんたに、私が助けられるものですか。父さんはあんなに強くて大きいのよ。どうしてあんたなんかが父さんに勝てる?」
「勝てるさ。魔物の潜むこの森からも、僕は君を助け出せるんだもの」
私は木の枝を振った。いつもの想像遊びの始まりだった。私の掛け声で、アルマの森は我々を化かそうと待ち構える子鬼が潜み、鬼火や妖精が舞う魔法の国の森となった。私はセラフィーマの手を引き、剣で草を薙ぎ払い、道無き道を進んだ。暗い夜の森のなかを、鬼火が放つ燐光を頼りに、私たちは地の果てにある宮殿まで進むのだ。そこが姫君セラフィーマの故郷であり、彼女を守るのが騎士たる私の役目なのだ。
突然、目の前に子鬼が現れた。セラフィーマは身を竦ませる。私は剣を構えた。
「ちょっと待てよ、俺は何も、悪さをしようとあんたたちのとこへ来たんじゃないぜ」
慌てた子鬼はたじたじとして言うと、宝石を散りばめたセラフィーマ姫のドレスを引っ張った。
「あんたのドレスの宝石をくれれば、この先の道を教えてやってもいいんだが」
「騙されてはなりません!」
私は叫んだ。
「これは妖かしかもしれない。子鬼は不安な心に付け入るのです。道に迷ったからといって、決してこやつの言葉を聞いてはなりませぬ!」
私は訴えるように姫の目を見つめた。だが彼女のか弱い足で、どうしてこれ以上歩を進めることができよう?どうしてこれ以上、いつ果てるとも知れぬ危険に身を晒し続けることができよう?
「騎士マキシミリアン、私はもうこれ以上歩くことはできません」
途方に暮れた姫は涙を流して言うと、ドレスの宝石を外してそれを子鬼に差し出した。
「いいわ、この宝石をあげましょう。だからどうか、道を教えて」
子鬼は奪い取るようにして姫の手から宝石を掠め取ると、高笑いをして言った。
「ありがとうよ!じゃあ、あんたたちを案内してやるよ!」
子鬼の言葉が終わらぬうちに、がらがらと音をたてて地面が崩れ落ち、巨大な木々が次々に倒れた。動物たちが凄まじい勢いで逃げ出し、鳥たちが一斉に飛び立った。空を切り裂く獣や鳥の啼き声に、私たちの心は恐怖で張り裂けそうになる。私は思わず盾を翳し、姫を庇ってその場に蹲った。
突然、地響きが止まった。辺りは不気味なまでの静けさに包まれた。私はそっと目を開けた。我と我が目を疑うとはこのことだ。森はもう跡形もなく、そこには大きな洞窟が、ぽっかりと口を開けているではないか!ドラゴンの住処だ!あの子鬼は、あろうことか我々をドラゴンの潜む谷へと導いたのである。セラフィーマ姫は、自分のしたことを悔やみ、顔を覆って嘆いた。
「泣いていても始まりませぬ!」
私は自分を鼓舞して言った。
「とにかく、先へ進まねば」
とは言うものの、私はどうしてよいか分からなかった。思わず天を仰いだその時―雷鳴と共に、黒光りする鱗に覆われたドラゴンが中空に現れた。ドラゴンは割れ鐘のような咆哮をあげた。と同時に、私と姫の身体は石のように固まって動かなくなってしまったのだ!
ドラゴンは鋭い爪を立て、空をも覆わんばかりの巨大な翼を閉じて地面に降り立った。奴はじりじりと間合いを詰め、こちらへ向かってくる。鋭い牙の生えた洞窟のような口から吐き出された地獄のそれのような炎が、私の鎧を焦がした。姫はその場に倒れた。
「私を置いて、ここから逃げて!」
息も絶え絶えの姫は言う。
「貴方だけでも、どうか・・・」
「何を仰います!」
私は姫を叱責した。
「貴方をお守りするのが、私の役目。宮殿への帰還を果たすときは、必ず一緒に・・・」
そのときである。突然、私たちの身体が再び動くようになった。異変に気付いたドラゴンは、高い塔のような首を後ろに向けた。洞窟の入り口に、白い衣を着た妖精の娘が立っていた。彼女が私たちの魔法を解いてくれたのだ。
「早く、その剣でドラゴンを仕留めるのです!」
彼女は叫んだ。ドラゴンは再び咆哮を上げ、彼女に向かって火を噴いた。私はドラゴンの背に剣を突き立てた。だが竜の鱗は固く、私の鋭い刃すら拒んだ。
「喉笛を突きなさい!そこがドラゴンの唯一の弱点です」
妖精の娘は必死で叫んだ。怒り狂ったドラゴンは、彼女にその鋭い爪を掛けようとした。窮地に陥れられると、思わぬ力が出るという。私は自分のうちにこれほどまでの膂力が宿っていたかと驚くほどの力で跳躍し、ドラゴンの前方に回りこんだ。そして私は、あらん限りの力でドラゴンの喉元へ向かって剣を投げつけた!
鋭い断末魔の叫びがあがり、凄まじい地響きを立てながらドラゴンはどうと地面に倒れた。ついに私は勝って、生き残ったのだ。私はドラゴンの喉に突き立てられた剣を抜いた。それと同時に雷鳴が再び轟き、雨が私たちの上に降り注いだ。私はその場にくずおれそうであったが、最後の力を振り絞り、セラフィーマ姫を助け起こそうとした。しかしその瞬間、突如激しい痛みが私を襲った。四肢に力が入らず、私はその場に倒れ込んだ。戦っている時には気付かなかったが、相当の傷を負ってしまったらしい。
「随分深手を負ってしまいましたね」
妖精の娘が近づいてきた。
「私は妖精国の姫です。臣下に化けた子鬼に騙され、私は魔法にかけられてドラゴンに囚われる身の上となりました。しかし今日、貴方が私を助け出して下さった。私に掛かった魔法は解けました」
妖精の姫は、私の身体に手を翳した。すると痛みはたちどころに消え、私の傷は全て癒えた。私は身体のうちから、言い知れぬ力が漲るのを感じたのだ。私が妖精の姫に礼を言うと、彼女は微笑んで言った。
「助けて下さったお礼に、私は貴方の願いを、一つだけかなえて差し上げることができます。一体何をお望みですか」
私の望みは、一つしかなかった。早くここを出て、宮殿への帰還を果たすことだ。だがそれまでには、まだ幾多もの試練を乗り越えねばならない。数多もの化け物どもを退治せねばならない。
「地の果てにある、セラフィーマ姫の宮殿への道を教えて頂きたいのです」
私は言った。私に取り縋るセラフィーマ姫を見て、妖精の姫は微笑んだ。
「よいでしょう。地の果ての宮殿までの道を教えましょう。それは・・・マキシム!マキシム!マキシム・・・!」
「マキシム!マキシム!」
突如聞こえてきた母の声が、妖精の姫の声を掻き消した。私たちは一瞬にして、アルマの森へと帰ってきた。辺りは酷い土砂降りだ。私の服は泥だらけだった。ふとセラフィーマを見ると、彼女のスカートも髪も、これ以上ないというくらい泥に塗れていた。
「こんな雨の中で、一体何をやっているの!」
母は私を叱責した。
「もうすっかり暗いわよ。セラフィーマまで、まあ・・・」
母はタオルでセラフィーマの髪を拭いた。
「うちまで送ってあげましょうね、セラフィーマ」
「おばさん、あたし・・・」
セラフィーマは何かを訴えるような眼差しを、私の母に向けた。母は困ったように彼女を見た。彼女は俯き、それ以上何も言うことはなかった。
私は落胆した。想像の世界では、私は鋼よりも強い男だ。だが現実の私はただの子供で、家に帰りたくないというセラフィーマの望みすら叶えることができない。子供心に、私は自分の無力を呪った。セラフィーマを送り届け、家路に就く道すがら、私は母に尋ねた。
「ねえ母さん、どうしてセラフィーマのお父さんは、セラフィーマをぶつの?どうしてセラフィーマは、毎日家に帰らなくちゃいけないの?」
母は暫く、何も答えなかった。ややあったのち、母は言った。
「あれはしつけだと、セラフィーマのお父さんは言っているわ」
私には、母の言う意味がわからなかった。雨の中を、私たちはとぼとぼと歩いた。母は項垂れていた。そう、私はただの子供なのだ。私には、想像遊びの中でしかセラフィーマを救ってやることができない。
私たちは今日も、地の果ての宮殿へ辿り着くことはできなかった。いつまでも辿り着かなければいいと、私は思った。そうすればいつまでも、セラフィーマと旅を続けることができる。