妄想の人
そこはとても暗く殺風景な場所で、僕が立っている場所だけが照明で照らされていた。
周りは暗闇が広がり、照明を見上げてみてもどれくらいの高さにあるのかは見当が付かない。
おそらくこれは夢だろうと思った。
前にも何度か同じような夢を見たことがあるからで、そんな時は大抵の場合に心底疲れている時だ。
だけど、夢の中で夢だと認識してしまえば、何でもやり放題な気がするかも知れないが、そう言うわけにも行かなかった。
この夢を見たときには、大抵の場合、夢の中に彼女が現れる。
高校時代につき合っていて、死んでしまった恋人の夏美が。
「また悩み事?」
声がしたので振り返ると、そこに生前のまま、何も変わらない夏美が立っていた。
背中まで伸びたストレートの黒髪は、生きている要に艶やかで、だけど肌の色は、陸上部で真っ黒に日焼けしていた昔とは違い、照明のせいもあるのかも知れないけれど、病的に白くそして色っぽかった。
着ているのは僕らが通っていた高校のセーラー服で、今では珍しくなったタイプの制服だ。
「まだ成仏していないのか?」
僕は呆れた様に言う。
数年前にも一度こんな夢を見たのだけど、その時は勤め先の会社が倒産したりしていろいろと大変な時期だった。
「成仏というのはちょっと違うわ。あくまでここは隆史くんの夢の中であって、私は隆史くんの意識の中で生きている夏美の集合体でしかないもの。だから私は霊ではないし、あえて言うなら隆史くんの脳内彼女ね」
夏美はそう言って笑った。
「そう言われると、なんか夢も希望もないな。あの世とか大霊界とかどうなっているか聞きたかったのに」
「……興味あるの?」
夏美は笑顔を崩さず、その中で目だけが笑っていない状態で僕に聞き返した。
僕はその目をまっすぐに見ることが出来ずに、ちょっと横に視線をずらしてから答える。
「たいした理由はないけどさ、いずれ人は死ぬんだし、先に逝ってしまった人間が知り合いにいるなら聞いてみたいと思うだろ?」
「……私は隆史くんの意識の集合体で、それが夢の中で死んだ恋人の夏美という姿を取って現れた存在。だから隆史くんにとっての夏美であるかも知れないけど、あなたの知らない夏美は私の中にはいないの。そのかわりに私の中には隆史くんもいる。だからあなたが何に悩んでいるのかも、ひょっとしたら隆史くん以上に知っているかもしれない」
夏美はそう言って、今にも泣き出しそうな哀しい顔した。
「……何とかなるさ。今までも何とかなっていたし。これからもきっとそうだ」
正直言うと、もう僕はすり切れそうだった。
親の借金に始まった生活苦は、苦し紛れのギャンブル依存症となり、月々の返済はまともな生活が出来るギリギリのラインをもうすぐ切ろうとしていた。
そんな中でパチンコ狂いと会社の中で広まった噂は瞬く間に広がり、多額の借金も抱えていることがバレて、解雇になってしまった。
にっちもさっちも行かなくなった状況で、もう寝て過ごす気力しか無くなっていたのだった。
「パチンコは止めなさい」
「はい……」
僕は母親に叱られる子供と化していた。
夢の中でまで叱られるなんてあんまりだと思う。
「そろそろ目を覚ますみたいだから、私は逝くね」
「あぁ……早く夢の中の夏美に叱られないようにするよ」
暗闇の中に夏美が歩いて去っていく。
そして一度振り返ると夏美は言った。
「そう言えば、前もそうだったけど、夢の中なんだからいくらでもエッチな事出来るのに何もしないんだね?」
「いや、しても良いならしますけど?」
僕は振り返って薄暗い場所に立ち止まったままの夏美に向かって歩き出した。
その先には意地の悪い顔して夏美が待っていた。
その後は意識というか夢というか現実がしどろもどろになり、僕は布団の上で気持ちの良い物がビューッと勢いよく出て行く間隔に腰砕けになりながら目を覚ました。
パンツの中を覗いて情けなく思いながら、蒸して空気の籠もってしまった六畳一間の部屋の換気をするために窓を開けた。
天気は良く、初夏の青い空が安アパートが建ち並ぶその隙間から見ることが出来る。
時刻はちょうど昼過ぎで、気温もかなり高くなっていた。
こんな時間に起きたのは会社を解雇になってから初めての事だった。
さわやかな外の世界とは裏腹に、僕の部屋の中はゴミにまみれ、洗濯物と雑誌が混在して積み上がっていた。
僕は汚れたパンツを脱いでそのゴミ山の上に放り投げると、かろうじて一枚だけ残っている洗濯していたパンツを履いた。
「どこまでやったか、肝心なところを覚えてねぇなぁ……」
独り言を言いながら、タバコに火を付ける。
夢の中では自分も17歳の姿だったが、哀しいかな現時点では35歳のオッサンだった。
腰の周りには余計な肉がたっぷりと付いており、顔も一回りあの当時に比べれば大きくなっている。
「そりゃ、幽霊もこんなオッサンのところには来てくれないか」
ため息を一つつき、トイレに行きたくなったのでくわえタバコでトイレに向かおうとしたら、押入の戸が外れて中が湧き出した。
部屋に置けなくなった物を押し込んだだけだったので、荷崩れを起こしたようだった。
食べかけのカレーライスが出てきたのには自分でも笑ってしまったが、次の瞬間に見ては行けない物を見てしまって僕は小便を少し漏らした。
「え?なんで、夏美が押入から?夢が現実?」
そこにいたのはあの夏美だった。
うつぶせの状態で倒れ込んでいたのだけど、夢の中で見た格好と同じ姿でそこにいた。
夏美は起きあがると疲れ切った顔で僕に言った。
「……お、思ったより重症だったみたいね。現実世界でも私が出てくるなんて……」
そう言えば、昨日病院でもらった薬を飲み忘れたからだろうか?
「えぇと、もしかして、この状況はまずいのかな?」
僕は夏美に聞くと夏美は困った顔をしながらうなずいた。
「現実と夢の境界が曖昧になってしまっているの。もう少し酷くなると、まともな社会生活が送れなくなるわ」
そう言われて思ったのは、すでに僕はまともな社会生活を送っていなかったと言うことだ。
退職金が少し出たので、今はそれを食いつぶして生きているけど、借金の返済やら家賃の支払いなどで、そう遠くない将来に所持金はつきる。
それでもパチンコが止められなくて昨日も7万負けたのだ。
それのどこがまともな社会生活だろうか。
僕はすでにダメな人間だったのだ。
「もういいよ。夏美がこうしていてくれたら、もうこのままでいい。だから夢の中の続きを……」
僕は夏美に抱きつこうとしたら、学校指定だった紺のハイソックスを履いた右足が、僕の左頬に危険な角度でクリティカルヒットした。
僕はその場に膝から崩れ落ちる。
「良いわけが無いでしょ。それに昔の体型に戻るまでエッチは禁止」
そんな殺生な、と僕はいったのだけど、夏美は聞く耳を持ってくれず、とりあえず部屋の掃除を僕に命令したのだった。
それから一月ほど過酷なカロリー管理と、身だしなみのチェック、そして資源ゴミと可燃ゴミと燃えないゴミの分別を言い渡された日々が続き、容姿と部屋の中は平均的な35歳のオッサンのレベルにさせられ、夏美のプロジェクトは成功したようだった。
パチンコも週に3日しか行ってない。
「あとは就職だけね。」
夏美は毎日付けていた僕の管理日記を見ながらそう呟いた。
外に二人で出かけたりなどもして、35歳の小太りのオッサンがセーラー服の女子高生と歩いている姿を周りから見れば、かなり怪しく見えると警戒したのだけど、僕の妄想である彼女の姿を他の人は見ることは出来ないようだった。
ただし、一人でブツブツ何かと喋っている変な人と思われて警察に通報されたのは二回ほどあったのだけど、それ以外は何の支障もなかった。
「ところで、夏美さんはいつまでいらっしゃるわけで?」
僕は夕飯に用意した玉ネギの塩炒めをご飯でおいしく頂きながら聞いてみた。
「私は常にあなたの中に存在している夏美だという話は前にしたわよね?だから、その存在が必要にならなくなったとき、私は私の役目を終えて、俣あなたの潜在意識に混ざるだけだと思うけど」
「必要にならなくなる事は無いと思うけど?」
それは僕の本心だった。
出来ることなら永遠に側にいて欲しい。
「それはだめ」
「どうして?」
「私が隆史くんにとって現実化しているうちはダメなのよ。私はあくまで隆史くんが作り上げた架空の夏美でしかなくて、本物の夏美ではないのよ。そんな架空の存在を必要としているうちはまだまだね。早く私を殺してくれないと……」
そう言って僕が作り上げた夏美は笑った。
本物の夏美が死んだのは高校二年の夏休み初日だった。
僕らは二年になった春から僕が彼女に告白してつき合い始めたばかりで、それはもう清い交際の見本のようだった。
中学から同じクラスだった僕たちは、かなりはじめの頃からお互いを意識していて、同じ高校に進学したことによってさらにその距離は縮まったのだった。
だけど初めて迎える恋人同士としての夏休みを目の前にして、夏美は死んでしまった。
暗くなってからコンビニに買い物に出かけた途中に、何者かに車で拉致されて犯された後でバラバラにされ、僕らが住んでいた街に流れる大きな川に捨てられたのだった。
行方不明から三日後に見つかった遺体はすでに腐敗が始まっていて無惨なものだったらしく、通夜で最後に顔を見ることは出来なかった。
僕も容疑者の一人として警察に事情聴取されたのだが、事件があった時間はちょうど親戚の家に親が借金を頼みに行くのについて行っていたのでアリバイがあり、すぐに釈放されたのだだった。
結局、犯人は夏美の従兄の大学生で、過去にも夏美に性的な悪戯をして補導されたことがあったらしく、警察が部屋に踏み込むのと同時に自殺して事件は収束した。
僕はしばらく落ち込んでいたけれど、立ち直ったつもりでいた。
だけど何かがある度に、夢の中に夏美が現れて僕を励ましてくれていた。
それは何のことはない、夏美を失った疵を、自分の中で作り出した夏美を使って癒していただけなのかも知れない。
そんな事を先に布団でセーラー服を着たまま寝てしまった夏美を見ながら一杯やっていて思ったのだった。
世間がお盆休みというものを迎えてる頃、僕は夏美に顔面を肘打ちされて目を覚ました。
「暑い!寝れない!くっつくな!」
時刻はちょうど午前八時を回った頃で、僕も夏美も汗をビシャビシャにかいて目を覚ました。
僕の腕から寝起きに機嫌が悪い夏美は逃れるように起きあがると、着ていたセーラ服を脱ぎ、白いブラジャーとパンティー一枚になると、押入を開けて中から新しいセーラー服を取りだした。
「替えとかあるんだ?どこかで買ってくるの?」
僕はそう聞いたのだけど夏美は秘密と答えただけだった。
六畳一間の部屋の中に夏美の物が増えているのは気のせいにした。
なぜならそれはそうであるなら、僕にとって良いことではないだろうし、夏美との生活をもう少し続けたいと願う僕がいるからだ。
「ねぇ、隆史くん」
夏美が朝食の納豆を掻き混ぜながら深刻そうな声で僕に言った。
「なんだよ、深刻な顔をして」
「言いにくいんだけど、昨夜見ちゃった……」
「見たって何を?」
「本物の夏美……」
「はい?」
「夏美の幽霊……」
「マジで?霊感体質だったの?」
僕は感心して夏美(妄想)を見たのだけど、驚く所はそこじゃないだろと夏美(妄想)からツッコミが入った。
「じゃぁ、もしかして夏美(妄想)とエッチしてたのも見られちゃったかな?これって浮気みたいなものだろうか?」
「それは知らないけど、怒っている雰囲気ではなかったわよ。あくまで隆史くんが作り上げた私とエッチしているわけだから、浮気にはならないんじゃないの?オナニーみたいなものでしょ?」
「……なんか、下品になってないかい?」
「だから、何度も行っているように私はあなたの妄想なの。隆史くんがオリジナルの夏美の知らないところを自分で補っていけば、自然にオリジナルとは違う存在になって行くにきまっているでしょう?」
あまりにもバカにしたように言ったので、僕も少しムッとして言い返してしまった。
「それってもう夏美と言えないんじゃないか?」
夏美(妄想)は顔を真っ赤にして、僕に納豆を投げつけると泣きながら押入に入っていってしまった。
引けども押せども押入は開くことなく、僕は困り果てた。
「ほら、そんな所に入ってると熱中症とかになるかも知れないし、悪い魔女とか出るかも知れないから出てきなって」
いくら声をかけても返事も無かった。
僕の妄想である夏美は引きこもりになってしまった。
一人になってしまった僕は仕方ないので本物の夏美のお墓参りに行くことにした。
前に一度だけ、お墓参りはしたことがあるので場所は解っていた。
郊外の海が見える丘の上にあるその墓地は、お盆と言うこともあって、人が多くいた。
途中で買ったお供え用の花を持ち、夏美のお墓に向かって歩いていると、ちょうど夏美のお墓の前に人が立っているのが見えた。
それはだいぶ老け込んでいたけども、夏美の両親だった。
僕は近くのお墓に身を隠した。
前に何度か会ってはいるのだけど、気まずくて話をする気にはなれなかったからだ。
夏美の両親はしばらくすると帰っていき、僕は夏美のお墓の前に立った。
「なんて言ううのかな?久し振りと言えばいいのかな?そんな気はしないんだけどね」
「酷いわ。ちっとも来てくれないんだもの」
そう声がしたので見てみると、お墓の前に小さい夏美が立っていた。
その体は透けいていて、良く言う幽霊って言う奴に見えた。
「心霊現象?マジで?まだ昼過ぎだよ?」
僕が驚いているのを小さい夏美は笑いながら見てた。
「ほら、お盆だし」
「そっか、お盆だからか……霊能力に目覚めたのかと思ったよ」
「久し振り」
「あぁ、そうだね」
「私ね、確かに酷い死に方をしたかもしれないけど、それまでの人生はけっこう幸せだったと思ってるのよ?」
「自縛霊になっていないところをみると、そうみたいだね。僕は生きながらに自爆霊だけどね」
それを聞いた小さな夏美は、僕が置いた花束の上に腰掛けると、哀しそうな顔をして言った。
「もういいのよ?私のことに縛られて、心の疵を自分で掘り返しながら生きなくっても。私は隆史くんに幸せになって欲しいって心から思っているの」
「無理だよ。僕は自分で忘れたくないんだ。他の誰かを好きになったりしたら、夏美の事が好きだったのが嘘になってしまう気がする。それで僕が幸せならそれでいいじゃないか?」
小さい夏美は首をふった。
「そんなの幸せじゃないわよ。誰かを好きになったって、嘘にはならない。そうだったと言う事実が残るわよ」
「過去形かぁ……」
「だって過去の事だもの。人は過去に止まることはできないし、戻ることも出来ないんだから」
そりゃそうだよ、と僕は思った。
だけど、だからと言って、はい、そうですかと出来るような器用な性格であるならば、こんなグダグダな生活を送ることも無かっただろう。
「考えとくよ。また、会えるかな?」
小さい夏美は哀しそうに笑うだけで、何も答えずに消えていった。
遠くで雷の音が聞こえ、空は曇り始め雨が落ち始めた。
自分の部屋にたどり着いたときには、すでに外は暗くなっていて激しい雨が降っていた。
傘など持たずに出かけた僕は、びしょ濡れで少し熱ぽかったのだけど、とりあえず押入に引きこもっている夏美(妄想)声をかけた。
「ただいま戻りました。夕食のおかずも買ってきましたので出てきてくれませんか」
そう言い終わる前に夏美(妄想)は、機嫌悪そうな顔で出てきて卓袱台を出すとその前に無言で座った。
「いま仕度するからちょっとやわらかプリンでも食べててよ」
僕は夕食の仕度を始めた。
夏美(妄想)の好きなカレーライス(甘口)を作るつもりだった。
「どこへ行ってきたの」
夏美(妄想)がぶっきらぼうに言った。
「……夏美のお墓参り」
「どうだった」
「夏美の幽霊に会った」
「そう……」
夏美(妄想)がプリンを食べ終わって容器を卓袱台の上に置いた。
「……やっぱり本物が良かった?」
その声はどこか小さな女の子が泣いているようにも聞こえた。
「どうかな?本物は本物で、妄想は妄想でそれぞれに良いところがあるかな?」
それは僕の本心だった。
「ばか」
「……それに、幽霊とはエッチ出来ないしな」
僕は夏美のを後ろから抱きしめると、胸に手を這わせた。
夏美は嫌がるそぶりを見せず、ただ一言だけ言った。
「私を殺して」
もう、妄想の世界に浸るのは終わりだと言うことに、幽霊の夏美に叱られて気がついていた。
それは幽霊の夏美の嫉妬かも知れないけれど、彼女を悲しませないためにもそうしなければならなかった。
僕は夏美(妄想)を強く抱きしめて耳元に囁いた
「最後にもう一回だけエッチをしてから……」
「ばか」
気がつくと僕は病院のベットの上で寝ていた。
なんでも高熱を出して自分の部屋で倒れていたところを、たまたま借金で全国を逃げ回っていた両親が逃亡資金を借りに来たときに見つけて救急車を呼んだそうだった。
起きた頃にはすでに両親の姿はなく、どこかに逃げた後だった。
熱の他に肝臓やら心臓やら血液やらでいろいろと引っかかってしまって一月ほど入院した。
退院した後は夏美(妄想)も幽霊の夏美も見ることはなくなった。
ちょっと寂しい気もしたけど、働き始めた印刷屋で知り合って、付き合い始めた彼女が出来てからはそんなことも思わなくなった。
2ちゃんねる 創作文芸板 2008 夏祭り 1位