源氏の君を求めて3
「ー紫式部が参りました」
紫式部はそう口上すると、反応を待つ。
おつきの珠も緊張気味に、紫式部の後ろに控える。
場所は藤壺と呼ばれる部屋で、中宮彰子のいるところだった。
今日は彰子の様子を窺いに来たのである。
「いらっしゃい、紫式部」
朗らかな声は彰子のもので、歓迎しているのが分かる。
彰子は藤原道長の娘で、十ニ歳入内し、一条天皇の中宮となったのだった。
その時の一条天皇の年齢は、ニ十なので、彰子は幼くして天皇のお側に迎え入れられたわけである。
「彰子様にいたっては、お元気のようで」
「まどろっこい話はいいわ。私、あなたに会いたかったの!!」
彰子は御簾を上げ、出てくると、紫式部と直に対面する。
驚いたのは紫式部で、少し固まったが、すぐに口を開く。
「彰子様、御簾の中にいらっしゃったほうが…」
「そうなんだけど、退屈で」
くすりと笑う彰子はまだあどけなさが残る女性だった。
髪だけでなく、顔も美しく、一条天皇の愛情を受けているのが、よく分かる。
「唐菓子、食べますか、紫式部?」
彰子が三方に乗った唐菓子ー米や麦の粉を固めて油で揚げたものであり、贅沢なものだった。
「いいえ、彰子様。いけませんわ、私などの位の低いものに賜わろうとしては」
「そう? 私はあなたが来るからって言って作らせたのよ。賢子のためにも持って帰って」
賢子の名前を出され、紫式部はますます頭を低くする。
「ありがとうございます。とても喜ぶと思いますわ」
「たまに連れてきて。貝合せなどがしたいわ」
そう言う彰子は子どもの心を持った女人のようで、きらきらとしている。
控えている珠も愛らしいと感じ、一条天皇に愛されるのも、そういうところなんだろうと推測する。
ー一条天皇…。お二人は仲が良いと聞きますし。
珠は下を向きつつ、ちらちらと彰子を窺う。
道長が美形なので、娘の彰子も引き継いでおり、眩い存在だった。
珠と比べると、ひよこと鶏の差があり、とてもではないが、声をかけられるような相手ではなかった。
「それで、彰子様。今日の御用件は…?」
紫式部が切り出すと、彰子は目を大きくし、期待するような表情となる。
「実は…その、物語の続きが知りたくて。あと、物語について一緒に語りたくて」
ああ、分かると珠のほうが早かった。
紫式部の書く源氏物語は現実感があり、心情が上手く書かれていて、人気だった。
皆、こぞって読みたがり、珠もその一人だった。
ー何について語るのかしら? 楽しみ!!
珠はわくわくしていると、紫式部がほほと笑う。
「彰子様、私の物語を気に入ってくださって、ありがとうございます」
「とても面白いわ!! 誰かと話をしたいのだけれど、皆、遠慮して困っていて…。あとは筆者のあなただけだもの」
「そうですか。では何を話せばよろしいでしょうか?」
紫式部が聞き返したので、珠は耳を澄ます。
珠だって会話したい一人だった。
しかし中宮彰子に、下賤の身のものが話しかけるわけにはいかなかった。
「そうね。葵の上のこととか、若紫のこととか、気になることはたくさんあって…」
彰子は御簾の中に一度戻ると、巻物を持って帰ってくる。
「宮廷絵師に描かせてみたの。どうかしら?」
「失礼いたします。どれどれ…」
紫式部が膝を進める一方で、珠はその場に残る。
ー葵の上は左大臣の娘で、なかなか光源氏と打ち解けられないでいるのよね。
鼻息を荒くすると、珠は一人で考え始める。
ーそれで、若紫は、後の正妻、紫の上になるんだけれども、子どもに恵まれないのよね。聡明で美しい御方なのに。
ちらりと視線を上げれば、彰子こそ紫の上のような気がしてならなかった。
本当なら珠は外で待つ身なのに、中に入れてくれて、寛大な御方だと身をもって知る。
「よく描けていますわ。素晴らしい」
「そう? 良かった、紫式部に気に入ってもらって」
ふふと笑う彰子は、本当に愛情に恵まれて育ったらしく、陰のようなものは見受けられなかった。
むしろ、その場にいる皆が見惚れ、太陽の光を一心に受けた金のように眩しかった。
「あとね、こっそり…その、続きを書いてみたのだけれども」
「え? 彰子様自らがお書きになったのですか?」
「駄目かしら? 待ち切れなくて、つい筆を取ってみてしまったのだけれども…」
「い、いいえ。とんでもない。私のような者が書いた物語を、中宮様自らがお書きになるなんて、申し訳ありませんわ」
「もう紫式部ったら!! 自分で自分を卑下しないの。私は位や顔などで、人間を決めてはいませんわ」
「はい。ありがたき幸せ」
紫式部は嬉しそうな声音で言い、頭を下げる。
もちろん珠も光栄に思い、一緒について来て良かったと思う。
ー道長様も心の広い御方だから、彰子様にちゃんと受け継がれている。素晴らしい御方だわ。
一条天皇と彰子が仲が良いということは、宮中だけでなく、民も幸せを与えられているということで、誇らしい気持ちになる。
珠は紫式部の命令で、外に出ることがあるので、民のことはそれなりに分かっているつもりだった。
「それで、どう? 私の書いた物語は?」
「えっと…そうですわね」
紫式部は紙を広げると、流れるような動作で見ていく。
珠も気になり、うずうずしたが、我慢して動かないでいる。
「彰子様、御上手ですわ。よくここまで膨らませましたね」
「そう思う? もう待ち切れなくて。どきどきして、たまらず書いたの!! その切なさとか、淋しさとかよく分かるから」
「彰子様…」
一瞬だけ、顔に陰りが見えたが、紫式部は何も言わず、紙を巻いていく。
「これは私がもらっても?」
「え、その、恥ずかしいというか。お父様には内緒よ?」
「はい。もちろんですとも」
紫式部は優しく微笑むと、珠を呼ぶ。
「ー珠、例のものをここへ」
「は、はい、ただいま」
珠は足が痺れていたが、ここでしくじるわけにはいかのないので、しっかりとした足取りで巻物を渡す。
それを紫式部が受け取ると、彰子に向かって満面の笑みを浮かべる。
「私からの贈り物ですわ。源氏物語の続きですの」
「まあ!! まあ!! こんなことって!!」
彰子は子どものように腕を動かし、可愛い仕草をする。
紫式部は穏やかな表情で見守ると、丁重に差し出す。
「一条天皇様とお楽しみになってくださいませ」
「ありがとう、紫式部。これお父様は…?」
「まだ見ていませんわ。彰子様が一番です」
「まあ!! 何ということ!! とても嬉しいわ」
巻物を頬に当てると、大切な宝物のように愛でる。
珠は下書きの状態て読んであるので、早く彰子が読んで感想をくれるといいなと期待する。
ー私って、ものすごく恵まれた環境にいる。
紫式部について良かったと思う反面、実の家族のことに心を痛める。
それは今、関係ないので伏せておくが、彰子の喜びようを見て、珠も口元を綻ばせる。
「早速、読んでもいいかしら?」
「いいですとも。私どもはこれで下がらせていただきます」
「あら。もう帰ってしまうの?」
「色々とやることがあるもので。でも物語を届けられて安堵いたしましたわ」
「ありがとう、紫式部」
彰子は心から喜んでいるらしく、紫式部は光を受けた神のように、眩しそうに眺める。
ー彰子様は幸せになれますわ。
珠も彰子の性格を知り、そう判断する。
道長の娘だからと威張るわけでもなく、本当に純粋に、素直に育てられたのだと、見受けられた。
ー紫式部様がどうりで、いそいそと用意するはずだわ。
一番の読者は誰になるのか、それも楽しみだった。
もちろん内緒で珠が一番なのだが、こういう展開になるのかと、いつも驚かされる。
珠も物書きを目指すなら、皆から続きが読みたいと望まれる人物になりたかった。
「では失礼いたします。ー珠、行きますわよ」
「は、はい!!」
「あ、紫式部、唐菓子。ちょっと持たせてくれるかしら?」
彰子の一言で、女房が動き、包み紙を丸めると、紫式部に差し出してくる。
「ありがとうございます、彰子様」
「またいらっしゃってね。今度はお父様も、一緒だといいのだけれど」
「それは…控えさせていただきますわ。私は彰子様に仕える身なので、道長様にお会いできるのは、たまにでよろしいですわ」
「そう? お父様は気に入っているらしいけれど…。まあ、いいでしょう。またいらっしゃい」
「はい。ー行きますよ、珠」
「はい、失礼いたします」
珠は礼をすると、紫式部について行く。
皆の視線を一心に受けているのが、紫式部は気にせず、まっすぐ前を見ている。
珠も真似をし、堂々と歩いていく。
ー紫式部様、すごい才能ですわ!!
皆の注目を集めるなんてほぼないのに、皆、緊張の面持ちで礼をし、端に控える。
珠は嬉しくなり、紫式部の流れる髪を見つめながら、藤壺を後にしたのだった。




