彼女は賢妃と呼ばれた
「セレスト・ドナルドソン公爵令嬢、あなたを断罪する!」
王立学園の卒業パーティーの最中に、自分の婚約者であるセレストの名前が呼ばれたので、王太子であるグラントリー・ノールズはおやと顔を上げた。
セレストは、グラントリーから離れて自分の友人たちと話し込んでいるところだった。いつもと変わらない女神のような美しさと、天使のような慈しみで周囲の令嬢たちに微笑んでいる。
慌ててグラントリーがセレストに駆け寄れば、セレストは随分と困惑しているようだった。戸惑った表情で、セレストを糾弾した相手を見返している。
同じ方向に視線を向けて、グラントリーは驚いた。セレストの同い年の妹であるセルマ・ドナルドソン公爵令嬢を、守るように数人の令息たちが守っていたのだ。
「何ごとだ」
慌ててグラントリーは割って入った。令息たちの中にはグラントリーと親しいものもいたので、なおさらグラントリーは驚くことになる。
王太子に諫められても、令息たちは止まらなかった。セレストを憎々しげに睨みつけている。
「セルマから相談されたんだ! いつも姉であるセレストに虐げられていると!」
「そんな者が、この国の王妃になるなど認められない!」
令息たちは口々に言った。セルマは令息たちに守られながら、怯えたように眼を伏せている。
そのセルマの腕をそっと取って、令息の一人が声高に言った。
「見ろ、セルマのこの傷もセレスト・ドナルドソンに打ち据えられたものだと聞いたぞ!」
「まさか!」
グラントリーは声高に否定した。セレストは、その賢さだけではなく身分に分け隔てなく手を差し伸べる優しさでも知られた令嬢だった。そんなセレストが、妹を打ち据えるなど信じられなかったのだ。
セレストに振り返って、微笑みかける。セレストは困惑を隠しきれないようだった。
「心優しいセレストがそんな無体をするはずがない。何かの誤解だろう」
セルマとて公爵令嬢で、グラントリーにとっては将来の義妹である。なるべく事を小さく収めるべく、グラントリーは意識して軽い調子で微笑んだ。
「卒業してこれから環境が変わるから、セルマ嬢も緊張で疲れているんだろう。休憩のための部屋を用意してあるから、そちらで休むと良い」
「ご、誤解じゃありません!」
グラントリーが事を収めようとしたのに反発するように、セルマが声を上げた。ひっ、ひっ、と何度か緊張したように呼吸して、引きつった声を上げる。
「お、お、お姉様は、わたくしにいつも酷い仕打ちをするのです。この前のパーティーでだって、わたくしにわざとワインをかけたわ」
「まぁセルマ、なんてことを言うの」
人びとから慕われる完璧な笑みを少しだけ困惑に崩して、セレストが首を傾げた。
「あのときは手が滑ってしまったと、後で謝ったではありませんか」
「そ、それに、それに――」
はっと思い出したように、思いついたように、セルマが言った。
「そう、階段の上から押されましたわ! お姉様はわたくしを殺そうとしたのです」
「セルマにそんなことを言われては悲しいわ」
セレストが顔を伏せた。浮かんだ涙を誤魔化すようにそっと拭って、セルマに微笑みかける。
「大切な妹を、わたくしが殺すわけがないではありませんか」
「わたしにもちょっと信じられないな」
セレストの反論に同意するように、グラントリーも頷いた。セルマが酷く傷ついたような顔をするのを見て、反射的に言葉を足してしまう。
「セルマ、あなたが嘘を吐いているなどと言っているわけではない。あなたが何かの理由で酷く疲れていて、何かを勘違いしているのではないか、と言っているんだ」
「お、お義兄様……」
「セルマ」
グラントリーに何ごとか話しかけようとしたセルマを、セレストがぴしゃりと遮った。
「王太子殿下にそのように気安く声をかけるものではありませんよ」
セレストがあくまで揺らがず、グラントリーもセレストに同意するので、セルマを囲んでいた令息たちは少しずつ勢いを失っていった。
そもそも、その優しさで周囲から慕われるセレストである。やはりセルマの勘違いだったのではないか、と思われ始めたのだ。
セルマもそういう空気を感じ取ったのだろう、ひくりと喉を鳴らした。それでも最後に足掻くように、血を吐くように、こう叫んだのだ。
「皆さま、信じてくださいませ。お姉様は、ひとの皮を被った悪魔なのです……!」
***
さて、結局のところ、セルマと騒ぎを起こした令息たちは騎士団の取り調べを受けることになった。
単なる勘違いであったり、人間関係の不和であればまだ良いのだが、背後に糸を引く人間がいたら大きな問題だからである。つまり王家は、王家に反意を持つ何ものかに彼らが踊らされたのではないか、ということを懸念したのだった。
結局のところセルマと令息たちに政治的な意図はないということが判明したので、令息たちは騒ぎを起こしたことに対する厳重注意に留められた。一方でセルマはセレストの妹なので、もう少し詳しく調べられることになった。
その中で、セルマはセレストへの悪意を露わにすることになる。
「あの女は、いいえ公爵家は悪魔の集まりよ」
聞けばセルマの母親はセレストとは違うので、二人は異母姉妹ということになる。公爵家で働いていたセルマの母親が、セレストの父である公爵に無理やり手込めにされたことによるものだった。
セルマの母親は公爵家から逃げ出して辺境の村でセルマを生んだが、産婆の不在により産褥のために命を落とした。そのあとは、セルマの母親が美貌を持っていたことから、利用価値を期待して公爵家がセルマを迎え入れたのだった。
セレストとセルマが異母姉妹であること自体は、王宮に届け出られているので王家も知るところだ。
だがしかし、詳しいところまでは知らなかった。単なる妾の子ども程度にしか把握していなかったのだ。
公爵家が養子に迎え入れるだけあって、セルマは美しかった。
セレストとセルマを並べて、セルマのほうが美しいと考えるものもいるほどだ。もっとも、未来の王妃であるセレストに対して、そのようなことを口にする者はいなかった。
美しい、女神のような、天使のような表情を、セルマは見苦しく歪めた。
「公爵家は、ろくでもない男にわたくしを売り払うことに決めたわ。伯爵家の、……名前は何だったかしら? とにかくろくでもなくて、嗜虐趣味で、嫁いだ女性は次々に死んでしまって、けれどとんでもなく大金持ちの男なのですって」
セルマが挙げた特徴を持つ男に、グラントリーは心当たりがあった。
嫁いだ夫人が次々に不審死を迎えるので問題になってはいるが、権力と財力ゆえに王家も慎重になっている相手だ。伯爵家は夫人たちの死を単なる事故死であると言い張っていて、証拠や証人まで用意されているのも問題だった。
未来の義妹であるということで、セルマの聴取にはグラントリーも付き添っていた。セルマの言葉に、グラントリーは思わず声を上げた。
「まさか! 心優しいセレストが、そのような真似を許すはずがない」
ゆら、とセルマが顔を上げる。そして、王太子を馬鹿にするように笑った。
醜い表情を晒すセルマは、それでも悪魔のように美しかった。
「だったら、訊いてみると良いわ。あの女は、悪いことだなんてちっとも思っていないでしょうから」
果たしてグラントリーは、セレストがセルマの証言をあっさりと認めるのを聞くことになる。
「どうして、そんな真似を……」
愕然とするグラントリーに、セレストが優しく微笑んだ。物わかりの悪い子どもにするような表情だった。
「貴族の女というのは、家門の利益になる相手に嫁ぐものです」
「だが、それで殺されては元も子もないだろう!」
「セルマが死んで、何か問題がありますか? いずれにせよ、公爵家には契約通りのお金が入りますわ」
本当に意味が判らないというように、セレストが首を傾げた。それが正しいことであると、信じて疑っていないのだ。
顔色を失うグラントリーを、セレストが心配げに窺った。それから元気づけるように、明るい声で言ったのだった。
「セルマの婚姻で得たお金で、公爵家では新しい事業を始める予定です。必ずこの国に貢献して見せますわ」
グラントリーは呆然として、セレストを見返した。セレストは何もおかしなことなど言っていないように、清廉潔白な表情で微笑んでいる。
粘ついた口で、グラントリーは問いかけた。
「……君はどうなんだ? 君がくだんの伯爵家に嫁ぐことになっても、家門のためだからと従うのかい」
「まぁ、おかしなことを言わないでくださいませ」
ころころ、とセレストは笑った。
「わたくしの父は公爵で、母は元侯爵令嬢です。平民の娘であるセルマとは、根っから価値が違いますわ」
グラントリーはもう言葉もなく、セレストを見つめるしかなかった。
セレストは相変わらず美しく、正しかった。正義が自分にあることを信じて疑わない人間の表情だった。
グラントリーはそっと眼を伏せた。目眩と、絶望に耐えるためだった。
グラントリーの母である王妃は、父が惚れ込んで長年の求婚の末にようやく婚約を認められた相手である。伯爵家の出身ではあるがそれほど権力を持つわけではなく、王妃の身分としては心もとなかった。
それでも、無理に無理を通して父は母を娶ったのだ。
母も父の愛に応えた。母は強く、賢かった。いま、心あるものは母を王妃として相応しくないなどとは決して言わない。
そういう家庭で育ったので、父と母、あるいは家族が愛し合うのは、グラントリーにとっては当たり前のことだったのだ。弟も妹もいるが、王位継承争いなど気配も感じたことがない。
だからグラントリーにとって、婚約者を愛することは当然のことだった。グラントリーとセレストの婚約が成立したのも、二人の間に気持ちがあったからのことだ。
グラントリーはセレストを愛していた。セレストの賢さを愛していた。セレストの優しさを愛していた。
些細な幸せを大切にする、セレストの穏やかな笑顔を愛していた。
そういう、婚約して以来ずっと、愛して、愛して、愛したセレストが、――いまのグラントリーにはまるで、化け物のように見えた。
ひどく強い言葉を口にしそうになって、グラントリーは慌てて口を噤んだ。貴族として正しいのは、セレストであると理解していたからだ。
そうだ、間違っているのはグラントリーで、正しいのはセレストだ。グラントリーは愛情深い王家で育ったけれども、貴族社会というのがそういうものであることもきちんと理解していた。
だからグラントリーはもう、何も言い返さなかった。間違っているのはグラントリーで、正しいのはセレストだからだ。
王太子として、間違っていると知っていた。このために王太子の地位を失うかも知れなかった。
それでもグラントリーは、自分が間違っていると理解したうえで、セレストにこう言ったのだ。
「――済まない、婚約を解消して欲しい」
***
結局のところ、グラントリーとセレストの婚約は解消されることになった。
セレストとの婚約を解消することで、グラントリーは様々なものを失うことになった。慰謝料としてセレストに支払うことになった私財も、貴族たちからの信頼も、公爵家という強大な後ろ盾も、グラントリーは何もかも失った。
王家の家族たちはグラントリーの気持ちをよく理解していたが、それでも状況によってはグラントリーが王太子位を失う可能性を示唆された。それにもグラントリーは頷いた。
その後グラントリーは、長年グラントリーの妹である第一王女に仕えた筆頭侍女である子爵令嬢を娶って王族籍を離れ、王兄ではない単なる伯爵として静かな生涯を送ることになる。
グラントリーの新たな婚約者として子爵令嬢を推したのは、妹である第一王女だった。仕事を優先するあまり未婚のまますでに薹が立った年頃であった子爵令嬢はおっとりと穏やかで、愛情深い性格であったので、彼女との生活は確かにグラントリーの心を癒やした。
二人の間に出来た子どもが成長し、グラントリーが昔の恋を思い出すことも少なくなった頃、とある事件がノールズ王国を賑わせることになる。
かつて王太子グラントリーの婚約者であったセレストは、美しさと賢さを買われて隣国の帝国の第二皇子から求婚されて嫁いでいた。いまは皇弟妃となったセレストが、八歳の末娘を六十も年の離れた別の大帝国の大皇帝に売り渡して殺したのだという。
もともとセレストは末娘を大皇帝に嫁がせようとしていたが、皇弟がとんでもないことだと拒否して婚約の話は立ち消えになっていた。ところがセレストは、大皇帝が訪れた際に薬で前後不覚にした末娘を大皇帝の寝室に無理やり押し込めたのだそうだ。
大皇帝は末娘を手込めにしたが、八歳の体は性行為に耐えられない。結果的に末娘は、内臓破裂によって朝を迎えられずに死亡した。
このためにいまは、帝国と大帝国の間がひどい緊張状態になっているのだという。どうしてこんなことをしたのだと問い詰める皇弟に、セレストがきょとんとして答えたそうだ。
「だってあの子、馬鹿だったのだもの。このまま皇家にいたって、役に立たないと思いましたのよ」
確かに末娘は、八歳になっても簡単な計算にも難儀するほど勉強が不得意だった。運動が得意というわけでもなかった。魔法もそれなりにしか使えなかった。
セレストの判断は、皇族として貴族として、正しいものだったのかも知れない。セレストの判断を支持する貴族は、探せばいるだろう。
けれど、そうではない。そういうことではないのだ。
末娘は勉強も運動もできなくたって、素直で明るく、人なつこく、よく笑う、太陽のような性格の少女だった。ただそれだけで、皇家にも貴族たちにも国民たちにも愛されていたのだ。
幼いながら高名な画家が驚くほど絵画が得意であったので、将来は多少身分が低くとも芸術に理解のある家門に嫁がせるか、芸術に関係する仕事でも任せれば良いという話になっていた。
そういう未来が、喪われた。酷く嘆き悲しんで詰る皇弟に、やっぱり賢く、優しい表情で、物わかりの悪い子どもにそうするように、セレストは微笑みかけたのだという。
「そんなことをしたって、何にも皇家のお役には立てないでしょう。せめて大帝国のご機嫌取りにでも使ってあげようと思ったのに、事も終えずに死んでしまうだなんて、最後まで役立たずな娘でしたわね」
そうして激高した皇弟に、セレストは殺されることになる。結局のところ最後まで、セレストは自分の正義を信じて疑わなかったのだ。
そういう、色々な話が、ノールズ王国にまで流れてきた。ノールズ王国の元公爵令嬢が帝国の皇弟に殺されたので、大きな問題になっているのだそうだ。
それに伴って、セレストとの婚約を強引にでも解消したグラントリー元王太子が、貴族や国民たちから僅かに見直されることになる。けれどもそれは、すでに王族籍を正式に放棄したグラントリーには、何の関係もないことなのだった。
ちなみにこれは、余計なことだが。
セルマは伯爵家に嫁がされるよりも先に、何もかも投げ出して逃げ出していた。流れ着いた遠い国で、持ち前の美貌と愛想を活かして人気のカフェの店員として働いたという。
やがてセルマは、カフェの常連客であった一人の男と恋に落ちることになる。
男は別に裕福ではなかったので、セルマはそれなりに苦労することになった。けれど男は馬鹿みたいに誠実だったので、セルマはそれなりに穏やかに、幸せに、生涯を暮らしたという。
『正しい』ことって度しがたいよねー、ってお話。思いついたところだけ書いたのでぶつ切りです
これグラントリーとセレストがそのまま婚約継続してセレストは生涯賢妃として称えられましたちゃんちゃん、ってルートと迷った。タイトルはそのときの案のなごり
お久しぶりでございます。伽藍でございます。覚えていてくださった読者さんはいらっしゃるでしょうか。わ、忘れられてそぉ……。そしてお久しぶりの投稿がこんなんで済みません、へっへっへっ
お仕事が決まってニート脱却したのは良いけれどなかなか書くタイミングがなくなっちゃったのだわ。お金が入るようになるから遊び歩くようにもなっちゃったしな。兼業作家って本当に凄いんだなぁ、ってしみじみしております。世の中は凄いひとで溢れている
ここまで書いてから気づいた、セルマからセレストへの糾弾について、腕を打ち据えられたのとドレスにワインをかけられたのは本当、階段から突き落とされかけたのは嘘です。これ理由があるのですが、書き忘れた……生きていればそんなこともあります
【活動報告:20260912】
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