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ゲム  作者: のた。
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 廃校を再利用したような事務所。ここへ俺たちがやってきていたのは、横野さんに呼び出されたからだ。仕事が安定してきてからはそんなこと一度もなかったから驚いている。対面で話すことなんてあるだろうか。

もはや話なんてネットでするのが当たり前になっている中で、どうして俺たちのことを呼んだのだろう。不思議に思いながら建物の中を歩いていた。

学校なので、どこか懐かしさはある。が、結局は、都会のど真ん中にある学校が廃れた場所を再利用しているので、こんな場所なのにどこか洗練された印象があり、懐かしさよりも窮屈感の方が強いのだった。俺が居るような場所ではないと思う。

リフォームされたことで綺麗になっているという側面は間違いなくある。それでも、一階から四階まで吹き抜けになっている天井が高い中庭や、四角い建物の中心にある芝生が敷かれた校庭などを見ると、慣れ親しんだ場所のようで、そうではない。ここには俺の思い出はない。

きっとここで育った子供と、いわゆるテンプレート的な学校で育った子供は違う性格をしているのだろう。そう思えてしまうほどに、どこか違うのだった。

とはいえ、それが羨ましいというわけではない。俺はゲムによって、普通の人が欲しがって仕方がないものの価値が分からなくなってしまっている。人の気持ちが分からないということは、みんなが欲しがるものが、みんなどうして欲しいのか分からないということだ。当然、悪いことばかりではない。

動物的な快不快に結び付いた感覚に基づいているものであれば、欲しがる気持ちも分かる。そういう前提となる気持ちは俺にも存在している。

しかし、ブランド品やファッションアイテムなどの、どこに価値が存在しているのか不明瞭なものに関して言えば、憧れることも、欲しがることも本当にない。

お金が有っても買わないだろう。そういう人間だから、俺は芸人を目指すことができているわけだし、こんな生活でもそれなりに満足することができている。今の俺の原動力はひたすらに未来が怖いからというだけだ。

いや、「だけだった」、と、言った方が良いだろう。林のボケを見た俺は未だに熱に浮かされているような気持ちになっていた。良いものを見たという充足感がいつまで経っても消えない。

アレから何度か劇場でもネタを披露する機会があったが、毎回のように前よりもウケるので、この選択は俺たちだけではなくて、みんなにとって良い選択だったのだろう。一番良いのは観客にとってだろう。

当然だが、宗像さんにも感謝を伝えておいた。もしかすると、人生それ自体の恩人になるかもしれないと思うと、俺は意味不明なまでに胸が締め付けられて、不意に涙が出そうになるのだった。

そんな意味の分からない涙を流してはいけない。感謝が形に現れそうになっても、それは抑える必要がある。きっと宗像さんならば笑いにしてくれるだろうが、それに甘えてはいけない。

芸人仲間たちからも好評だった。劇場の企画でもフィーチャーしてもらうことがあり、ファンの人にも十分に周知されるようになった。

元々みんなも逆だと思っていたのかもしれない。普通に考えれば、林の小太りの体型でボケをした方が、みんなにとっては納得できるのだろう。

そういう納得感の有無は俺にはあまり分からない。根本的に人の気持ちが分からないから、そういう偏見にも似たような思考のパターンが分からないのだ。こればっかりは仕方がない。 

俺みたいな人間はもっと他人からのアドバイスを聞くべきだと思う。どうせ分からないのだから、こだわりを優先するよりも、他人の意見を優先するように心がけなければならない。

今回のことは記憶としてだけでなくて、心構えとしても大事なものになるのだ。それを思うとやはり宗像さんへの感謝の気持ちで心の中でグチャグチャと動く。それは破裂しそうな風船の中身だった。

彼の前ではそれが表に出ないように必死だった。が、きっと、飲みにでも行ったらすぐに崩壊してしまうだろう。理性という脆い何かによって繋ぎ止められているだけだ。止めようとしているだけで、本来は自由なものだ。

他の芸人仲間にも感謝しなければならない。みんなの意見ももっと聞くべきだ。自分一人でどうこうしようとしても、どうせ奇妙なものが生み出されるだけなのだ。

自分にとって普通のことがみんなにとって普通ではないのだから、どうしてもズレたものが出来上がってしまう。問題はズレていることだ。  

変わったものであれば、それはそれで求める人もいるだろうが、俺が作れるのはひたすらにズレているものだけ。不快な程度にしか、変わっていないようなものだけ。誰からも求められていないものだ。

そんな自分のことを信用してどうするのだろう。創作をしている以上、最終的に頼りになるのは自分の感性でしかないが、それの割合は少し減らすことにしよう。

横野さんにも一言言ってある。「ボケとツッコミを入れ替えました」と伝えてある。横野さんからも何かアドバイスのようなものが貰えないだろうか。これからそうなるのだろうか。もはや助言中毒のようにもなっていた。

ゲムから解放されるためには他人の力を借りなければならないので、それは仕方がないことだ。いつまで経ってもこのままでは居られないし、居ることもできない。

そんなことを思い、小綺麗な学校の廊下を歩きながら、言われた場所まで向かう。その道中、俺たちの間に会話はなかった。あまり話すこともなかった。

話してはいけないようでもあった。話すことで崩壊する何かが存在するから、話してはいけないように思える。コンビとはどこまでも不思議な関係性だ。

触れてはいけない場所が相方に存在することを理解した。そこに触れれば簡単に関係が終わってしまうが、逆を言うとそこ以外であればどこに触ったとしても問題がない。笑いにすることが商売だからだ。

普通の友人であれば指摘できないような致命的な欠点ですら、相方であれば、もっと言えばお笑いであれば指摘することもできる。もちろん、上手にできなければ痛みを伴う結果にはなる。

そんな状況でも俺は少しだけ気を遣われている気がした。芸人仲間からもどこか浮かんだ奴として扱われているのは間違いない。俺としてはしっかりと声を張って言葉を返しているつもりなのだが、どこかに違和感があるのは間違いない。  

もはや向いているだとか向いていないだとを語っている余裕などどこにもない。もしも俺がこれに向いていないのだとしたら、シンプルに向いているような俺に変わればいいだけだ。


「お疲れ様です。わざわざすみませんね。こんなところに呼んで」

「いえいえ、お気になさらず」

「どうかしたんですか? どうしてここに?」

「ボケとツッコミを変えたんだよね?」

「そうですね。そうしてみました」

「ちょっと先輩芸人に見てもらった方がいいと思ってね。どうやら劇場でも好評らしいじゃない。色々と噂は聞いてるよ」

「先輩芸人って?」

「あの大会に優勝した経験がある芸人だよ。『アンドウ』の二人。あんまりない機会だからちゃんとやってね」

「どうしてそんなことに」

「みんな君たちには期待してるんだよ。君たちが思っている以上に、君たちはお笑い芸人としての才能がある」

 アンドウと言ったら、畳み掛けるようなしゃべくり漫才で有名な漫才師だ。二人ともその場に突っ立っているようなスタイルで、手すらもほとんど動かない。

もちろん、現代的な漫才ではそこまで極端なやり方は許されていない。アンドウの二人があの大会を優勝したのは、今から十年以上も前の話だ。大御所の漫才師だ。

今でも時々、ネタ番組でネタを披露している姿を見ることもあるが、未だにその切れ味は変わっておらず、いつ見ても感動さえ覚えるような迫力がある。

声量から、表情から、何から何まで完成されていて、二人が立っているだけなのに、何か壮大なショーを見たような錯覚をしてしまうことすらあった。

あまりにも偉大すぎて、認識の中では存在するのかどうかすら危ういと思っている。そんな俺の前にアンドウの二人がやってくる。

養成所の時にもたくさんの芸人が講師としてやってきた。が、二人に会う、それも、俺たちのネタを見せるためだけに会うというのは、あまりにも恐れ多いことだった。どこか敬虔な気持ちで二人のことを待っていた。

スーツ姿の横野はパイプ椅子に深く座っていた。それを前にして真っ直ぐな姿勢を保つ二人。そんな二人の元に、テレビでよく見るアンドウの二人組がやってきた。

二人は兄弟でもなんでもないが、たまたま同じ名字だったのでこのようなコンビ名になったそうだ。二人とも身長が高く、180センチ近い。スラッとしている体型も相まってかなり目立つ存在だった。

シルエットだけを見たら俳優のようでもあるが、二人とも顔はあまり良くなかった。というよりも、人相が悪く、ともすれば悪いことをしている人にも見えてしまう。昔の漫才師にはそういう人が多い。

それは風格へと変わる。大きな声で強面の二人がくだらない話をしている様は、次第に観客を惹き付け、何か怖いものみたさのような感情を抱かせたまま、あらゆる人たちを笑わせる。感情を動かすことができる。

古い漫才師ということもあって、そのネタも題材も老若男女あらゆる人たちに受け入れられるものを用いることが多かった。折り紙付きのその実力は、芸人であれば誰もが認めていた。

「おつかれ。面白いらしいじゃん」

「ありがとうございます! ユウジさん! ヒロシさん!」

「俺たちなんてカボチャだと思ってくれればいいからさ」

「カボチャみたいな顔してるしな」

「おい。誰の顔面がジャック・オー・ランタンなんだよ。ハロウィンのカボチャじゃねぇんだぞ」

「そこまで言ってねぇよ。でも、顔面があまりにも顔面すぎるわ」

「『顔面が顔面すぎる』……ってどういうことだよ」

「そのままの意味だよ」

「そのままの意味なわけねぇだろ!」

「何を言ってるんだお前は」

「おい。急に去るな。俺を置いていくな」

まるで漫才のようなやり取りを目の前で繰り広げているアンドウの二人。俺はこういう漫才がやりたいのだ。どこか覚めた目で見られてしまうのが嫌だから、こういう漫才をしたいと思っている。

ゲムに浮かされている俺は、(どうして会話の最中にここまでジタバタと動かなければならないのだろうか)、と、要らないことを考えてしまう。

ユウジさんとヒロシさんの二人の掛け合いにはそういう覚めた感情が出てこない。今のように、日常の延長線上にあるようなネタは俺のことを受け入れてくれるのだった。それをしたかった。

「とりあえず、ネタでも見せてもらおうかな。そのために来たんだ」

「分かりました。ちょっとだけ合わせる時間をもらってもいいですか」

「もちろん。じゃあ、待ってるよ」

 急すぎる出来事に驚いている順風。それでも、このチャンスを逃すわけにはいかないので、必死になってネタ合わせをする。二人とも心臓がバクバクと跳ねていた。飛び跳ねてしまいそうだった。

この仕事は心臓に多くの負担をかける。緊張することばかりだし、興奮することばかりなので、どうしてその鼓動には慣れないといけないのだった。

憧れのようなものを抱きながら、自分たちができる最善を尽くそうと必死になる二人は一生懸命で、端から見ていると青春をしているようにも見えた。

まだ若い松野健と林豊。ギラギラとした雰囲気も残っている二人は、社会の中で自分たちの立ち位置を探していた。そこで、成功と安定を掴みたいと思っていた。

そして、それは目の前にある。とはいえ、やはりゲムのことを考えるとまだまだ遠いようにも思える。もっと破壊的な触れ合いが必要なのかもしれない。

コンビが終わるかもしれないような話し合いを経ることで、ようやくゲムから解放される、または、ゲムから解放されている時間が増えるのだろう。

自分のことを賢いと思っている松野はあらゆることを分かった気になっていた。分からないことを分からないとすることで、分かる範囲のことだけを考えていた。が、それではダメなのだ。

賢いと思うために人間は生きているわけでも、賢くなるために生きているわけでもない。人間の生きている意味なんてゲム的なことは真剣に考えなくてもいいことだ。どうせ生きていくことになるのだ。

この瞬間に命を懸けようとする二人がいた。その姿は、大会の二回戦でネタを披露した時よりも真剣で、ここで全てを変えてみせるという意志が存在するのが明白だった。そんな二人はこれからふざけるのだ。

白いモヤの中でネタをしていた感覚が体から離れない。離れていないうちに、成功する必要がある。強烈な記憶であっても、時間が経てば消えていってしまう。

感覚が体に残っている間にゲムから解放されなければいけないのだった。とにかくそれだけが確かで、それ以外はどうでもいいことだった。

ネタ合わせを終えた二人はアンドウの二人と向き合う。圧迫感があるその環境は二人が望んでいるものだった。どこかハラスメント的な雰囲気もあるそれを乗り越えないと、何にもなれない。

今は壁を越えなければいけない時間だ。それを分かっている二人は、ビクビクしながら、心臓をバクバクと動かしながらネタに入っていく。

アンドウの二人はネタの最中にも、ネタの終わりにも顔を見合わせる。そして、二人とも同じようなことを思っているのをアイコンタクトで確認した。先に口を開いたのはヒロシの方だった。

「うーん。もっと動いた方がいいんじゃない?」

「かもな。いい感じだけどさ」

 その言葉はあまりにも意外だった。しゃべくり漫才をしている二人から、そういうアドバイスを貰うことになるなんて全く思っていなかった。

もちろん、前に比べて俺たちの漫才は動くようになっている。それでも、しゃべくり漫才で収まる程度の動きでしかなかったはずだ。林の動きは面白いが、常識的な範囲内で収まっていたはずだった。

それなのに、俺は大変なことを言われてしまった。それを理解している林が隣で微妙な表情をしている。俺がこだわりを持っていることを知っている彼は、俺の表情をチラチラとうかがう。

もはや本当に潮時なのかもしれない。ここで、俺はしゃべくり漫才を辞め、普通の漫才師と同じように、ネタをやるようになる。それはそれで良いのかもしれない。

そろそろ本格的にゲムから解放される時が来たのかもしれない。どう考えても、俺が俺のままやっていても成功するわけがないし、才能の話をするならば、林の能力を活かした方が良いに決まっている。

俺のくだらないこだわりに固着する必要なんてどこにもなかった。とはいえ、すぐに変える訳にもいかない。とにかく、俺は林と話し合わないといけないことになってしまった。話すことで決めなければいけない。

アンドウの二人は忙しいので、ちょっとしたアドバイスをするとすぐにこの場から去っていった。ただただ聞くことしかできなかった俺たちは、ある種の威圧感にやられてしまっていて、何がなんだかよく分からなくなっていた。

「これで今日は終わりですか?」

「そうですね。お疲れ様です」

横野さんも何か仕事が残っているらしい。俺たちをここからハケさせようとしてくる。仕方がないのでそれに従うも、心の中はモヤモヤしたままだった。

俺はどうするべきなのだろうか、と、本当はどうするべきなのかの答えを知っていながらもそんなことを思う。俺はネタを根本的に変えるべきだ。

俺には才能がない。才能に頼って生きていくことしかできない。アンドウの二人の才能、そして、林の才能に縋るように生きて、かろうじてお笑い芸人として生きていく道しか俺にはないようだった。

もしかすると、ゲムから解放されるというのは、自分から解放されるということなのかもしれない。自分の才能ではなくて、他人の才能に寄生をするような生き方が、俺には求められているのだ。

それならばそれでいい、と、割り切れるだけの気持ちはどこにもない。なぜならば、結局は俺がネタを書いているのだ。それなのに、どうして俺ではなくて林が天才にならないといけないのだろう。

どうせ俺は評価されることになる。ちゃんと漫才がウケるようになってくれたら、そのネタを書いている俺は多くの人には評価されることになるだろう。が、それでも、そこに負い目を感じないといけないのはどうしてだ。

今までずっとゲムから解放されたいと思っていた松野健は、ようやく自分の心の中にゲムを手放したくないと思っている自分が居ることに気が付いた。

この気付きは彼の心をさらに曇らせる。こだわりがゲムによるものならば、こだわりを持とうとしている間はずっとゲムによって浮かされることになる。

帰宅しながら、(今日はネタを書くことができない)、と、直感的に理解することができた彼は、すぐにこのことを林に伝えてしまいたかった。

話し合いをする機会を設けなければいけない、と伝えなければならなかったが、それは衝動性による行動だと分かったので、ひとまず冷静になることにする。

冷静になりたかった松野は林と話すこともなく、真っ直ぐに家へと帰るのだった。コンビであればそういうこともたまにはあるが、林にとっては松野健のその姿勢は少し恐ろしいものだった。

林は松野のこだわりを知っている。だから、アンドウの二人から言われたことがどういう意味を持つのか、理解していた。普通の人と同じようにそれを理解することができていた。だからこそ、恐ろしいのだ。

全く知らない人間に変わってしまいそうな松野健が居ることに気付き、どこか寒気すらしているのだった。それでもやはり声をかけることはできなかった。

蔵された思いがお互いの心の中で翳る。それはやがて表に出てくるものなのだが、遺産を整理する時に物置からものを引っ張ってくるかのように、長年そこに置かれた大事なものを引っ張り出すことになる。

人生の始まりの部分で得たものを手に取り、相方の目の前に突き出さなければならない。それはとても嫌なことでもあったが、ホコリが被った思いに日が当たるのは気持ちがいいことでもあった。

どこかマゾヒスト的な思いを抱きながら、どのようにして話を始めるのかを頭の中で想像する松野健。もはや未来のことなんてどうなるのか分からなかったが、善く善く考えれば、しゃべくり漫才がどうとかにこだわる理由などなかった。

宇宙のことを考えれば、そんなのは小さくてどうでもいいことだ。それでも、どうしても個人的な世界において、小さなことが大きなことを凌駕する時もある。

そして何よりも、この考え方自体がゲム的なのだった。あらゆる物事には白と黒だけではない色があり、0か100以外の数字がある。それなのに、アンドウからのアドバイスを真に受けて、極端なことをしようとしている松野健。

その思い込みは時間が経てば経つほどより激しくなる。一人で抱えれば抱えるほどより虚しくなる。なので、林は松野健と話し合いをする時に、意見を求められるようで求められない。すでに本人の中では決まっていることを再確認させられるだけだ。それは林にも分かることだ。

そこで林が自分の気持ちに正直になれるのかが全ての鍵になる。それができなければ、単にゲムに支配された松野健の押し付けが始まるだけだ。そうなってしまったら、お互いにとって消えない傷ができる。

それだけではない。林が自分に正直になりすぎても問題となるのだ。林が本当に思っていることをそのまま松野健に伝えてしまったら、簡単に終わってしまうような関係性であることはやはり間違いない。

どこか街並みに馴染まないような空気を出しながら、家へ帰ってきた松野健。彼の本当に大事なものは自分だけなので、困ってしまったらどうしても自分を優先した結論を出してしまう。

それでも、社会的な反応のことを常に考えている彼は、自分に非が生まれないように上手に立ち回ってしまう。それこそが、しゃべくり漫才を止めるという提案だ。

松野健はそれを林に伝えようと覚悟していた。が、それが二人の未来にとって最善なのかといえばそれは分からない。なぜならば、二人に集まっている期待の一部はそれだからだ。それがあるから信じてもらっているのだ。

他の人が通ろうとして諦めた道を、未だにこだわり続けているから、その姿が他の人間からは格好良く見えていたのだ。その特別性を失くしてしまったら、何か大事なことを失くしたのと同じになってしまう。

大事なものを失くすことが良いことなわけもない。直ることがあり得ないとも思える喪失を抱きながら、漫才を続けていこうとしても、どこかで必ず限界が来るはずだった。逃げられないのだ。

問題とは常に解決しそうになるとまた別の問題を露にしてくる。せっかくゲムから解放されそうだった彼も、どこかから降ってきたまた新しい問題のせいで、どうにかなってしまいそうだった。

狭苦しい箱のような部屋に辿り着いた松野はすぐに服を着替えて、布団に横になった。シャワーを浴びると面倒なのでそれをせずに、そうすることにした。

そうすることで、考えることができる。考えることが良いことであるわけでもないが、彼は困った時には常に考え続けていた。考えることによって奇妙な結論を導いていた。自分にしか理解できない答えだ。

どうしようもないような自分にも向き合ってしまうから、どうしようもない答えを正しいものとしてしまうのだ。そういう人間であることは、悪いことばかりではない。今回の場合はその限りではない。

とにかく、普通にならなければならなかった。そして、普通ではない自分でもあらなければならなかった。矛盾したようなそれを同時に求めなければいけない。

そんな状況で引き裂かれそうになりながら生きている松野健。成功という祝福がなければ、今すぐにでも全てを投げ出してしまいたいと思っているのだった。

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