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「でな!? その叔父さんがこうやって飛び立ったんだよ!! こう!」
「脱線しすぎ!! 話っ!! お前は暴走機関車トーマスかっ!!」
「でも! 叔父さんが飛んでたんだぞ!?」
「でもじゃねぇよっ!! なんで猫を飼う話から叔父さんが飛び立つ話になってんだ! 流石に話が脱線しすぎてんだろうがっ!」
俺たちは事務所が持っている無機質な稽古場で大声で漫才を練習していた。もちろん、ボケとツッコミは入れ替えており、今までとは全く違うような漫才をすることになっていた。全く違うはずの漫才をしていた。
鏡の前で、自分たちの所作をしっかりと確認しながら漫才を全力でしていた俺たちは、それが終わると倒れ込むように座り込む。全身全霊でこの瞬間に向き合っていたから、二人とも疲弊していた。
こんなに夢中でネタに入ったのは久しぶりだと思う。『初心忘れるべからず』という教訓じみた言葉が存在するが、それがある意味が分かった気がした。
ここで言うところの初心とは夢中のことなのだろう。慣れていない物事と向き合っている時の無心、夢中を忘れないようにしなければならないという教訓なのだ。
俺は鏡の中に居る二人を見た。二人とも良い表情をしているような気がする。自分たちのことだから本当のことは分からないが、俺にはそういう風に見えた。
それに伴って、未来さえも見えてきたような気がしてきた。俺たちの目の前には、見えていなかったはずの未来が広がっている。
蒸気のような白いモヤによってその輪郭はまだ曖昧だったが、見えていなかったものが見えていることだけは間違いない。そして、それは良いことだけではない。
ハッキリと言えば、かなり感触はよかった。元々そうだったと思えるほどに、俺たちにはこのやり方が合っていた。特にこれが合っていると感じたのは林豊だ。彼は、もしかしたら本当に天才だったのかもしれない。
この漫才では、話が脱線する中でどうしてもつまらない部分が出てしまう。普通の話から異常な話へ移行していく中で、違和感なく、あまり急になりすぎることもなく話を展開する中で、どうしてもそういう部分が生まれてしまうのだ。
が、林はその部分さえも面白く話す。ただ、その面白さは俺にとっては少し問題だった。なぜならば、その面白さの理由は林の動きでもあったからだ。
別にしゃべくり漫才だからといって、そこまで厳密性に、ゲム的なものに縛られるのが良いことではないだろう。それでも、林の動きはともするとそれだけでも十分に笑えてしまうようなものに仕上がっていた。今までやっていなかったはずなのに、ツッコミよりも数倍もクオリティが高かった。
こうなってしまった以上、ボケとツッコミを入れ替えるのは確定事項としなければならない。わざわざ林の天才性を封じ込める必要なんてどこにもない。
本格的なネタ合わせをするのは今日が初めてだ。しかし、今日に来るまでもずっとその片鱗は見せ続けていた。過度にも思える動きの片鱗も、その才能の片鱗も俺にだけ見せてくれていた。
俺にだけ見せてくれていたのだ。それを思うと、コンビという関係性が不思議なものであると感じる。林の才能を一番知っているのは、俺であるはずなのだ。
どこか独占欲のようなものが沸き上がってくる。このまま誰にも漫才を披露することなく、俺だけがそれを見たことがある人間になるのも悪くないと思えてしまうほどに、それは魅力的なものだった。
どこか気持ちが悪いような感情を俺は抱いている。友人に抱くものでもなく、仲間に抱くものでもなく、当然ではあるが、恋人に抱くものでもない、特別な感情がここにきて胸から沸き上がってきた。
それは俺が見てきた、そして、触れてきた漫才師に対してしていた、巨大な憧憬のようなものだと思う。この街に対してするような大きな想いを相方に対して抱いてしまっている。あまりにも大きすぎるそれは胸の中を占める。
占めることによって、他の感情の立場がなくなる。それは良いことでもあったが、こだわりが強い俺にとっては悪いことでもあった。あらゆることがどうでもよくなりそうなほどに、相方に惹かれてしまうのはあまりにも歪な関係性である。
成功が確約された感触すらあるのだ。これに想いを支配されないことなど不可能で、今までの全てがどうでもよくなりそうなほどに、大きなものに触れることができた。才能とは常に大きなものだと思う。
宇宙や、海などを見たり考えたりすると小さな悩みなどどうでもよくなるのと同じだ。世界に対する憧憬が胸の中で広がって、それ以外の全てが視界から消えてしまう。消えてしまっていいのかを疑う前に消えてしまいそうになる。
林の才能を最大限活かすためには、林を自由に動かした方がいい。つまらない話を面白くするためには、林に動いてもらった方がいい。その方が林の人柄にも合っているはずだし、漫才の構造にも合っている。
だが、どうしても動いてほしくない俺がいるのだった。あくまでも日常会話のような形で、もちろん漫才である以上は全てが日常会話というわけではないが、それでも日常会話と言えるような形で、ネタを面白くしたいというこだわりがあった。
どこまでもゲム的なこだわりのせいで、目の前の現実をそのままに受け入れることができない。これを守り続けることが自分にとってプラスになるとも思えないのに、ずっとそれにこだわってしまう。
どこまでも自閉的な自分がここに戻ってきたようだ。というよりも、胸の中にずっといたその自分が、心が単純になったことで目立つようになってしまった。
どの瞬間も俺の中にいた少年が今も俺の中でその存在を主張してきている。それに対して俺ができることはなんだろうか。さっき出会ったばかりの才能では、生まれてからずっといる俺を壊すことはできないのかもしれない。
とはいえ、俺もさっきくらいの動きであれば、しゃべくり漫才と言えるギリギリの動きであれば、許容することができるかもしれない。本当は今この瞬間にもダメ出しという形の矯正をしてしまいたかったが、それで林の才能が潰れてしまうことを恐れている俺は何も言うことができない。
本来は俺の方から感想を言うべきなのだが、何も言えない。それもあって、林は困惑している様子があった。俺から普段とは違う何かを感じ取っているのだろう。
こんな相方と一緒に居てくれるなんて、俺はそのことに感謝しなければいけない。もしもこの繋がりを保つためにお金が必要だと言うのであれば、俺は林に対していくらでもお金を貸してやりたいと思う。
それをすることが俺たちの関係を維持することになるというのならば、俺はいくらでも自分の人生を捧げる。どうせもう趣味も何もないのだ。それを考えれば、失うようなものなんて、特に、お金を失うことで失うことになるようなものなんて、どこにもない。それは悲しいことではある。
漫才を終えて、お互いに何かを掴んだような感触がある二人。そんな中で少しだけ想いが過剰になってきている松野健。
思い込みが激しいのも彼の特徴だ。思い込みが激しいからこだわり、思い込みが激しいから衝動的になり、思い込みが激しいから周囲の人間と繋がれず、周囲の人間の気持ちが分からない。
そんな彼であっても才能を理解することはできる。それを理解することによってもっと激しくなる思い込みは、もしかすると才能と言えるものなのかもしれない。
実際に、何かを掴んだような感触があるのは松野健だけではなかった。今までも林は松野健に感謝をしていたし、彼が書いているネタに特別な何かを感じてはいたが、それが間違いないものであると実感するに至ったのはこれをしたからだ。
二人ともある意味でゾーン状態に入っていた。ゲムとは程遠いフロー状態に入ることによって、時間の感覚も、細かいこだわりも全て蒸発してしまって、視界が蒸気の世界にいるように白いモヤによって埋まっていた。
二人とも何かを話すことができない。口を開けばその余韻が台無しになると思って、もはや体から湯気が出ている錯覚を感じながら、どこか乱れているような呼吸を整えるでもなく整える。
端から見れば普通にしか見えない二人ではあったが、二人をよく知っている者が善く善く観察すれば特別なことが起こったことが理解できるようなくらいには二人とも乱れていた。自分に乱されていた。
それでも、話さなければならないことがあるから二人は話すことになる。その口火を切ったのは珍しく林豊だった。初めて目にした才能を前にしてひれ伏していた松野健ではなくて、元々その才能を感じていた、もっと具体的な形で知っていた林豊から言葉は紡がれる。
「よかった、よな?」
「よかったんじゃないかな。思っていたよりも」
「この感じでやっていくか? これからも」
「そうするか。どうせあのままやってても無駄だし」
「無駄なんて言うなよ。もしかしたら戻るかもしれないんだし」
「それもそうだな。みんな驚くかな」
「驚くんじゃないかな」
「宗像さんだけしか知らないもんな」
「でも、軽くだけは知ってるかも」
「みんなの前でもネタ合わせしてたっけ?」
「デカイ広間でしてた。見られてたし」
「なら、気付かれてるかもな」
「宗像さんにも見せたいな」
「機会があったら見てくれるはずだよ。そういう人だし」
「事務所にも言った方がいいよな」
「横野さんね」
「俺たちのことなんて忘れちゃってるかもだけどさ」
「それならそれでいいよ。忘れちゃってるなら別にどっちがボケでもツッコミでもどうでもいいだろうし、これを反対されることもないだろうし」
俺たちだけが盛り上がっていても意味はないんだ。お笑い芸人っていうのは、絶対に自己満足だけでは終われない職業だから、みんなからの審判を受けなければならない。自分たちだけの満足なんて意味がない。
その中でも、面白いものを信じて進んでいくしかない。俺は俺たちのボケとツッコミは入れ替えた方が面白いと思うから、ファンにどんなことを思われたとしても、変えないといけないと思う。
YouTubeの再生回数的にもファンなんてそんな大した人数は居ないだろうし、わざわざ気にしないといけないことでもないだろう。ファンじゃない人もクリックくらいはしてるだろうからな。
芸人仲間からは何を言われることになるんだろうな。大会に落ちたから変えようとしているっていうのは間違いなくバレるし、バレてるだろう。
どこか恥ずかしい気持ちもあるが、そんなことは言ってられないのも事実だ。とにかく俺たちはもっとウケなければいけないし、もっとネタのクオリティを上げないといけない。大会を勝ち進む必要がある。
やるべきことはたくさんある。そして、それをやるだけの気持ちもある。問題はやはりゲムだが、それも前よりかはマシになっている気がした。あらゆることが良い方向へと向かっているようだ。
芸人仲間はライバルでもあり、戦友でもある。同じような境遇にあって、同じような目標を達成しようとしている。劇場では支え合いの部分も大きい。
みんなで企画をする時なんかは俺は足手まといになることの方が多い。大喜利も、一発ギャグも、平場もそこまで得意ではないので、支えられることでようやく成立している部分も多い。俺には内弁慶的なところもある。
お笑いの場だと、俺がゲムによって浮かばされていたとしても、それをなんとなくつっこんでくれる人が居る。だから、すぐにゲムが俺のことを浮かすのを止める。ゲムとはバレてしまっては行動することができないものだからだ。
そんな彼らの前で、変わった俺たちを見せる機会もやがてやってくる。その時には今みたいにしっかりと面白いものができればいい。俺たちが面白いと思っているだけではないことを祈っておこう。
もしもその祈りが通じたら横野さんを振り向かせることもできるだろう。売れない若手の中から一つ頭を抜け出すことができれば、事務所から仕事をふられることも増えるはずだ。突き抜けることができる。
いわゆるバラエティの仕事もできるかもしれないし、自分たちでライブを企画することも許されるかもしれない。そうなったら配信ライブで儲かる可能性すらある。そうなってしまえば、お笑い芸人として成功したも同然だろう。
テレビに出ることを否定するわけではないが、俺はテレビに出たくて漫才師をやっているわけではない。何で成功するのかを選べる立場ではないが、もしも選べるのであればそれは漫才で、もっと言えばネタであってほしい。
どれだけ林が天才だったとしてもそこに甘えてはいけない。林がボケるから面白い漫才ではなくて、誰がやってもある程度は面白いネタを書かないといけない。それはできないことではない。
本当はネタの力だけで大会に勝ち上がらなければならなかった。だから、ボケとツッコミを入れ替えて成功したとしても、ネタはちゃんと詰める必要がある。そして、できれば死ぬまで新しいネタを書き続けたい。
今では正月の特番でしか新ネタを下ろさなくなった大御所の漫才師が居る。アレは俺にとっての一つの理想系だ。年に一回、ウケるべきタイミングで、自分たちのネタでウケることができるのはあまりにも偉大だ。
簡単に言えば尊敬をしている。そうなりたいと思っているが、今の俺はそうなりたいと思うにはあまりにも不足があるので、こういうことを考えるのはもっと成功してからであるべきだ。
いつまでも夢ばっかり見てはいられない。二人で一緒に漫才師として成功して、多くの人に知られるようになって、それを数十年間と続けた先にある理想は、あまりにも理想的すぎて、今の俺たちとかけ離れたものだ。
松野健は安定した生活を夢見ていた。安定しながら漫才をし続けたいのだった。ネタを書くこと、そして、それを披露することは好きだった。接点なので、それがないと他人と繋がることができなかった。繋がりのためにはそれがなければならなかった。ならないから必要だった。
ゲムから解放されるためにネタを書くのだ。普通の生活を得るために、普通ではない『ナニカ』を得なければならない。それがなければ何者にもなれない。
どうしても諦めることができない日々に、そもそもお笑い芸人を目指していなければ普通であるかのような錯覚もなく、ひたすらに自分の性質が特殊であるがゆえに面倒なことに巻き込まれている日々に、飽々している。
話を終えた二人はまだ余韻に浸っていたが、この部屋はそんなに長居ができるような場所ではない。時間が経てば別の芸人がこの場所を使うので、いつかはここから離れなければならないのだった。
なので、林は帰り支度を始める。林は荷物が多いので、いつも帰り支度を始めるのが松野健よりも早かった。その間も、さっきのネタの余韻に浸っている彼。
「最初っからそうだったみたいだな」
「ボケとツッコミが?」
「そう」
「そうだったね。とはいえ、まだ慣れないところもあるけど」
「詰めたらもっと面白くなるってことだ」
「そうだね」
俺も帰り支度を始めた。鏡に写っている俺たちをずっと見ていても何も得るものはない。帰ってネタ帳を開いて、修正できそうなところは修正することとしよう。そうすればきっともっと上にいける。
どうして大会が行われる前にこのことに気付けなかったのだろうか。大会に落ちたことでこれに気付けたわけだから、その仮定はあまりにも虚しく、無駄なものであると分かっても、少しはそれを悔いてしまう心があった。
もっと柔軟になった方がいい。元々、ボケとツッコミが逆かもしれない、と、俺も思えていたのだから、それを行動に移せていれば一年間を無駄にすることなどなかった。無駄にするつもりはないが。
とはいえ、もしもこれで失敗したらどうすればいいのか。もしもボケとツッコミを入れ替えた俺たちが今回と同じように大会の二回戦で落ちてしまったら、もはやどこに向かっていけばいいのかなんて分かり得ないような状況になってしまう。
良いことばかりを考えていた脳が、その反動で悪いことを考えるようになった。そして、これは良いことを考えていた時よりも長く、脳にこびりつくように続くことを俺はもう知っている。なぜならば、何度もこれを経験したことがあるからだ。
こうなった時の対処法は一つだけだ。それは行動をすることだけ。ということで、帰り支度をしていた俺は少しだけ急ぎ始め、そして、この場から去ることにした。
今日あった衝動は、きっと数十年後にも覚えているだろう。その時、今俺たちが出ようとしているこの鏡張りの稽古場から、どのような物が記憶として残り、どのような物が無意識に消えていくのだろうか。
そんなのは後になってみないと分からない。俺にとってどの記憶が大事で、どの記憶がそうではないのかなんて、今の俺には分からない。
何度も反駁することになるであろう記憶の片隅に、忘れられないものがあるとしたら、それはどのようなものであったとしても、どうでもいいようなものであったとしても間違いなく俺の人生にとっては大事なものになるだろう。
もしかしたら、本当はこういう日々のために漫才をしていたのかもしれない。他人との接点を得るために漫才をしているのではなくて、自分の記憶に残るような何かを探しているから、ずっと漫才を続けているのかもしれない。
きっかけはなんだって良かった。大事なのは、行動をした俺が、行動をしたきっかけによって救われそうになっているということだ。現実が悲惨でも、死ぬ時になったらそんなの忘れている。
俺は悲惨な現実を歩いているようだと思う。しかし、どうせ死ぬことなんて悲惨なことでしかない。そう考えれば、一番大事なことはそんなことではない。
考え込んでいた俺は林と二人で稽古場から家に帰ろうとしていた。途中までは道が同じなので、会話などすることもないまま、二人で並んで歩く。
今思えば、色んなことから逃げてきた人生だと思う。特に、人生にとって一番大事な『ナニカ』から逃げてきた。こだわりや、無知を言い訳にそれらを捨ててきた。
それでも、その先に絶対に残るような記憶があったのだ。今日のことを肯定しようとすれば、自ずと過去の全てに感謝しなければならなくなる。全ての足跡は消えることなく残り続け、ここまで続いていることを示している。
あらゆる足跡が背後には残っている。それら全てがあるからここにいるのだ。それの一つでも欠けていたら、それが一つでも多かったら、俺はここには居ない。
ゲムにすら感謝する必要がある。ゲムによって浮かばされていた俺は、今日という日をなんと思うのだろうか。今の俺は、他人の気持ちだけではなくて、自分の気持ちすらもよく分からない。
「じゃあ、また」
「またな」
違う方向へ歩いていく俺たち。軽い挨拶のような別れを言うと、二人だけが一人だけになる。そうすると、尚のこと、さっきの記憶が強烈に頭の中にやってくる。
しゃべくり漫才であるとか、そうではないとかではなくて、俺は誰かの気持ちを揺さぶるために漫才をしていたい。その誰かの中には常に俺が入っていたい。
俺が俺の漫才によってずっと揺さぶられていたい。そういうのを心の底から思えた瞬間、少しだけゲムの力が弱まった気がした。自分のくだらないこだわりよりも大事なものがあると分かったことで、ゲムの力が弱くなってくれた。
この調子でいいんだと思う。この調子で歩いていくことができれば、俺が残し続ける足跡の先には、その消えない足跡の先にはいわゆる成功が待っているのだ。
今みたいな生活から抜け出して、新しい自分になれる朝がやってくるのだと思う。そんなことを思っていると、真っ暗だった頭上からカラスの鳴き声が聞こえてきた。それは、透明人間的だったから俺には分からなかった。
繋がりによって、透明ではなくなってしまう俺が居る。全てに意味があったことを自覚しているがゆえに、透明人間的だった俺にすら感謝をしていた。そうすることで、それから離れようとしていた。
とはいえ、俺の人生とはほとんどゲムの人生だった。こんな一つの気付きで離れてくれるほどに柔な存在ではない。だから、これからも悩むことにはなるだろう。
だが、この調子だ。どうしようもなかったはずのゲムはやはり俺の手ではなくて他人の手によって離されていく。自分一人ではどうにもならないことは、他人に助けてもらわなければどうにもならない。
ちゃんと助けを求められる自分でなければならないし、助ける価値がある人間であらなければならない。ようやく変われそうなのだ。
変われそうな気持ちが嬉しくていつもよりも歩くのが速い気がした。なので、意識的にペースを緩めて、一歩一歩をしっかりと踏みしめる。
もしかすると、久しぶりにネタ帳に楽しく向き合えるかもしれない。今日、これからのことを考えるとワクワクして仕方がなかった。
そのワクワクは正しいものであるはずだ。そうでなければ何かがおかしい。どうして俺の胸が踊ることでみんなの胸が踊らないのか、意味が分からない。
俺には人の気持ちが分からない。が、向こうにも俺の気持ちは伝わっていない。この細い、希望のように分厚い線が千切れないように、俺はするべきことをするだけだった。現実に向き合わなければならない。
ゲムから解放されるのはそれをしてからだ。それをしてからでないと、本当の意味で、ゲムから解放されることはない。
とにかくやっていくしかない。やっていくことでしか前に進めない。それだけしか俺の推進力はない。どこか虚無的であったとしても、足跡を残していくのだ。
誰でもなく、自分のためにそれをするのだ。そうでないと、自分の人生に自分で満足できなくなってしまう。それだけは避けたい。
自分の人生なのだから、せっかくならば自分が満足したい。これもまたゲム的な考え方かもしれないが、それだけは手放す必要がない考え方であると思えた。




