「婚約破棄ですか? 承知いたしました。では、お貸ししていたカードは返していただきますね」——私が配った幸運を回収したら、元婚約者も義妹も継母も全員没落しましたが、もう遅いですわ
「君との婚約を破棄する」
王太子主催の夜会。
数百の蝋燭が煌めく大広間に、エドワール・デュ・モンフォールの声が響き渡った。
周囲がざわめく。令嬢たちが扇で口元を隠しながら囁き合い、紳士たちは興味深そうに成り行きを見守っている。
私、リゼット・フォン・クレールモントは、その視線の中心に立っていた。
「君のような地味で取り柄のない女は、公爵家の次期当主である私には相応しくない」
エドワールは金髪を靡かせ、まるで英雄のような顔で宣言する。その隣では、義妹のマリアンヌが勝ち誇った笑みを浮かべていた。蜂蜜色の巻き毛、薔薇色の頬、豊満な肢体を惜しげもなく見せつけるドレス。
「お姉様には荷が重すぎましたのね」
マリアンヌの嘲笑。その後ろでは継母オデットが扇の陰から嗤っている。
……ああ、やっぱりこうなったか。
内心でため息をついた。
正直に言おう。驚きは、ない。
だって私は知っている。エドワールの「精悍さ」も、マリアンヌの「美貌」も、継母オデットの「幸運」も——全部、私が与えたものだということを。
私の指先が、無意識にドレスのポケットに触れる。そこには一組のカードが眠っている。『占いトランプ』。クレールモント家に代々伝わる、運命を操る力。
ハートのエースはエドワールに。商才と人望を与えた。
ダイヤのキングは継母に。財運と社交での成功を。
スペードのクイーンはマリアンヌに。美貌と魅力を。
全部、私が配った。
彼らが私に優しくしてくれることを、ほんの少しだけ期待して。
……馬鹿みたいでしょう?
「黙っているということは、反論もないようだな」
エドワールが勝ち誇る。その横でマリアンヌが彼の腕に絡みつき、これ見よがしに微笑んだ。
「エドワール様は私のものですわ、お姉様」
継母が一歩前に出る。
「さあリゼット、皆様の前で婚約解消を承諾なさい。これ以上恥を晒す前に」
周囲の視線が突き刺さる。憐れみ、嘲笑、好奇——様々な感情を孕んだ目。
私は、静かに息を吸った。
十年。
十年間、私は耐えてきた。継母の仕打ちに。義妹の嫉妬に。婚約者の無関心に。
実の父は見て見ぬふり。使用人たちは継母の顔色を窺う。
私の味方は、傍らに控える侍女のニコラだけだった。
でも、もういい。
彼らは自分で選んだのだ。私を捨てることを。私の価値を知ろうともせず、踏みにじることを。
ならば——
「承知いたしました」
私は微笑んだ。
その笑みに、エドワールが一瞬怯んだのが見えた。マリアンヌの目が揺れる。継母の扇を持つ手が止まる。
おかしいでしょう? 今まで俯いて何も言わなかった「地味で取り柄のない」継子が、こんなにも穏やかに笑うなんて。
「ただ、一つだけ」
私は一歩、前に出た。
「お貸ししていたものを、返していただきますね」
指を、鳴らす。
パチン、と小さな音が広間に響いた——その瞬間。
光が、走った。
エドワールの胸元から、マリアンヌの髪飾りの奥から、継母オデットの首飾りの間から。
三枚のカードが光の軌跡を描いて飛び出し、私の手元に吸い込まれるように戻ってくる。
ハートのエース。
ダイヤのキング。
スペードのクイーン。
私の指の間で、カードたちが淡く輝いている。お帰り、と心の中で呟いた。
「な……っ」
エドワールが呻いた。
私は彼を見た。そして、目を瞠った。
——ああ、こんな顔だったんだ。
精悍さが消えていた。彫りの深かった顔立ちは平凡に、輝いていた金髪は色褪せて見える。覇気のない、どこにでもいる貴族の青年。それが本来のエドワール・デュ・モンフォールの姿。
「何を……何をした!」
エドワールが叫ぶ。その声すら、かつての威厳を失っている。
「きゃああああっ!」
悲鳴が上がった。マリアンヌだ。
彼女は両手で自分の顔を覆っていた。指の隙間から見える肌は、くすんでいる。蜂蜜色の髪は枯れ草のように色を失い、豊満だった肢体は痩せこけて——
「私の、私の顔がっ……!」
社交界の華と謳われた美貌。その全てが幻だったことを、今、この場の全員が目撃していた。
「あ、ああ……」
継母オデットも異変に気づいたらしい。首元に手をやり、絶句している。
かつて眩く輝いていた宝石は、ただの石ころのように光を失っていた。彼女の肌には皺が刻まれ、豪奢なドレスだけが浮いている。
私は三人を見渡した。
「何も。元に戻しただけですわ」
淡々と、告げる。
「あなた方の才能も、美貌も、幸運も。全て私がお貸ししていたもの。当然、返していただく権利がございますでしょう?」
大広間が静まり返っている。
誰もが息を呑み、目の前で起きた「奇跡」を理解しようとしていた。
「そんな……そんな馬鹿な話が」
エドワールが震える声で言う。
「君は、ただの地味な……取り柄のない……」
「ええ、そう見えていたでしょうね」
私は微笑んだ。氷のように冷たく、されど穏やかに。
「あなた方が私の取り柄を奪っていたのだから、当然ですわ」
今になって思う。
なぜ私は期待していたのだろう。愛してもらえると、認めてもらえると。
カードを配り続ければ、いつか優しくしてもらえると。
……馬鹿だった。
彼らは最初から、私を見ていなかった。私という存在ではなく、私から流れ出る「幸運」だけを、無意識のうちに貪っていただけ。
「リゼット!」
継母が金切り声を上げた。
「今すぐ元に戻しなさい! 私はあなたの母親なのよ!」
「継母、でしょう」
訂正する。
「それに、なぜ戻さなければならないのです? あなた方は私を捨てた。ならば私も、あなた方に施す理由がない」
「この……この恩知らずが!」
恩知らず。
その言葉に、思わず笑ってしまった。
「恩知らず、ですか」
私は三人を見据える。
「十年間、あなた方のために尽くしました。継母様の社交での成功のために、義妹の縁談のために、婚約者殿の事業のために。私は惜しみなくカードを配り続けた」
声は震えない。もう、泣かないと決めたから。
「その見返りが公開婚約破棄とは……ふふ、随分と高い利子を払わせてくださいましたね」
ざわめきが広がる。
貴族たちがひそひそと囁き合っている。
「クレールモント家の占いトランプ……まさか本当に……」
「あの地味な令嬢が継承者だったのか」
「では、今までモンフォール公爵子息が成功していたのは……」
真実が、露わになっていく。
「リゼット嬢」
凛とした声が響いた。
振り向くと、黒を纏った長身の男性が歩み寄ってくる。
漆黒の髪、深い翠緑の瞳。彫りの深い端正な顔立ちに、穏やかな微笑み。
——隣国ルーンハイト王国の第二王子、セルジュ・ヴァン・アルヴェール殿下。
なぜ、彼がここに。
「久しぶりですね」
殿下は私の前で足を止め、優雅に微笑んだ。
「七年前の社交の場以来でしょうか。あなたが私に、あるカードを託してくださった日から——ずっとお会いしたかった」
……七年前?
私は記憶を探る。確かに、幼い頃、隣国の王族と交流する場があった。あの時、私は——
「これを、覚えていますか」
殿下が懐から取り出したもの。
一枚のカード。
他のどのカードとも違う、特別な一枚。
——ジョーカー。
「お与えになったのはあなたでしょう、リゼット嬢。Loss(喪失)ではなくLuck(幸運)を自ら選ぶ者にのみ与えられる、最強の札を」
私は息を呑んだ。
覚えている。あの日、継母に虐げられて泣いていた私に、優しく声をかけてくれた少年がいた。
『泣かないで。君はきっと、とても強い人だから』
あの言葉に救われて、私は無意識にカードを差し出していた。私の持つ中で最も特別な、たった一枚のジョーカーを。
「あなたは私を覚えていなかったでしょう。でも私は忘れなかった」
殿下の翠緑の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
「七年間、あなたの情報を集め続けました。あなたがどれほど家族のために尽くし、どれほど報われずにきたか。そして——この日を、待っていた」
この日を。
私が解放される日を。
「君の価値を知らぬ者たちに、もう札を配る必要はない」
殿下は私の手を取った。
「リゼット・フォン・クレールモント嬢。私と共に来てください。ルーンハイトで、あなたの力は正当に評価される」
大広間が再びざわめく。
エドワールが蒼白な顔で叫んだ。
「待て! リゼットは私の婚約者——」
「先ほどご自分で破棄なさったでしょう」
殿下が冷ややかに遮る。
「もはやあなたに彼女を縛る権利はない」
私は殿下の手の温もりを感じながら、最後に三人を振り返った。
継母は崩れ落ち、義妹は顔を覆って泣き叫び、元婚約者は茫然と立ち尽くしている。
「長い間、お世話になりました」
私は微笑んだ。
「どうぞお元気で。——もっとも、これからは自分の力だけで生きていかねばなりませんけれど」
踵を返す。
ニコラが静かに私の後ろに控えていた。その目には涙が光っている。
「お嬢様」
「行きましょう、ニコラ」
私は歩き出した。
セルジュ殿下と共に、新しい未来へ向かって。
背後で継母の悲鳴が響いたが、もう振り返らなかった。
夜会から三日後。
私はセルジュ殿下が手配してくださった別邸で、束の間の休息を取っていた。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
ニコラがカップを差し出す。湯気の立つ紅茶からは、心地よい香りが漂っていた。
「ありがとう」
カップを受け取りながら、私は窓の外を見る。
穏やかな午後の日差し。小鳥のさえずり。
……静かだ。
今まで、こんなに静かな時間があっただろうか。継母の嫌味も、義妹の嘲笑も、婚約者の無関心も——何もない。
「お嬢様」
ニコラが口を開いた。その表情は真剣だった。
「モンフォール家から使者が参りました。三度目です」
「追い返して」
「承知しております。既に」
ニコラが淡々と報告する。
「また、クレールモント伯爵様からも文が届いております」
父から。
「……読まないわ」
「はい」
ニコラは何も言わなかった。ただ静かに頷くだけ。
彼女は知っている。私がどれほど父を待っていたか。助けてくれることを、味方になってくれることを、どれほど願っていたか。
そして、それが叶わなかったことも。
「お嬢様」
「何?」
「私は全て見ておりました」
ニコラの声は静かだが、深い感情が込められていた。
「継母様がお嬢様から食事を取り上げた日も。マリアンヌ様がお嬢様のドレスを切り裂いた日も。旦那様が見て見ぬふりをした日も」
「ニコラ……」
「私の母は、お嬢様の実母様の侍女でございました」
知らなかった。
私は目を見開く。
「お嬢様の実母様は、お嬢様をとても愛しておいででした。亡くなる間際まで、お嬢様のことを案じておられた」
ニコラが懐から古い手紙を取り出す。
「これは、実母様から預かっていたものです。お嬢様が辛い時に渡すようにと」
震える手で受け取る。
黄ばんだ封筒。見覚えのある筆跡。
——母様の字だ。
「後ほど、お一人の時にお読みください」
「……ありがとう、ニコラ」
涙が込み上げる。でも、今は泣かない。まだやるべきことがある。
コンコン、と扉が鳴った。
「失礼します」
執事が現れる。
「セルジュ殿下がお見えです」
「お通しして」
数分後、セルジュ殿下が応接間に入ってきた。
黒を基調とした装いは相変わらず洗練されている。しかし今日は、どこか楽しそうな笑みを浮かべていた。
「良い知らせがあります」
殿下は向かいのソファに腰を下ろす。
「お聞かせください」
「モンフォール公爵家の主要取引先が、軒並み契約を打ち切りました」
……始まった。
「エドワールが指揮していた事業は全て頓挫。判断力を失った彼には、もはや何もできない」
当然だ。彼の商才と幸運を支えていたのは『ハートのエース』。それがなくなれば、本来の——凡庸で浅慮な貴族子息に戻るだけ。
「マリアンヌ嬢は社交界から完全に姿を消しました。あの変貌を目撃した者たちの間で噂が広まり、誰も彼女を受け入れない」
美貌を失った義妹。虚栄心だけで生きてきた彼女に、何が残るというのか。
「そしてオデット夫人ですが——」
殿下の目が鋭く光った。
「過去の詐欺行為が発覚しました。王都の憲兵隊が動いています」
「詐欺……」
「クレールモント家の財政難を隠すため、夫人は裏で違法な取引を重ねていたようです。『ダイヤのキング』の幸運がそれを覆い隠していた」
なるほど。
私が与えた幸運で、継母は罪を逃れ続けていたわけだ。皮肉な話。
「間もなく逮捕されるでしょう。伯爵は連座を免れるために、夫人との離縁を決めたそうです」
父が、継母を切り捨てた。
今更。今更、そんなことをしても。
「リゼット嬢」
殿下が私の名を呼ぶ。
「辛いですか」
「……いいえ」
首を振る。
「当然の報いです。彼らは自分で選んだ。私を利用し、私を蔑み、私を捨てることを」
「そうですね」
殿下は頷いた。
「因果応報。彼らは己の選択の結果を受け入れるべきだ」
窓から差し込む光が、テーブルの上のカードを照らす。
ハートのエース。ダイヤのキング。スペードのクイーン。
三枚のカードは、もう誰にも配られることはない。
「リゼット嬢」
殿下が立ち上がり、私の前に跪いた。
「改めて申し上げます」
翠緑の瞳が真っ直ぐに私を見つめる。
「私の妻になってください」
「……殿下」
「私が賭けるのは、常に最も美しい逆転劇だ」
殿下は微笑んだ。
「そしてあなたは——私が七年間待ち続けた、最も美しい勝利の女神だ」
私は殿下の手を取った。
温かい。
この手は、私を利用しない。私の価値を知り、私自身を求めてくれる。
「喜んで」
私は微笑んだ。今度は、心からの笑みだった。
「あなたの元へ参ります、セルジュ様」
ルーンハイト王国への旅路は、驚くほど穏やかだった。
馬車の中で揺られながら、私は母の手紙を何度も読み返していた。
『愛しいリゼットへ。あなたがこれを読む頃、私はもうこの世にいないでしょう——』
母は全てを知っていた。
占いトランプの力。それを継ぐ者の運命。そして、力を持つ者が陥りやすい罠を。
『どうか、あなたの力を、あなた自身を大切にしてくれる人のためだけに使いなさい。見返りを求めない愛は美しいけれど、愛を返さない者に与え続ければ、あなた自身が消えてしまうから』
母様。
私は十年間、その教えに背いていた。
でも今は——
「リゼット」
向かいの席で、セルジュ様が私を見ていた。
いつの間にか、名前で呼び合うようになっていた。婚約者として当然のことだけれど、まだ少し照れくさい。
「何を読んでいるのですか」
「母の手紙です」
「……そうですか」
セルジュ様は何も聞かなかった。ただ、優しく微笑んで頷くだけ。
この人は、いつもそうだ。必要以上に踏み込まない。でも、必要な時には必ず傍にいてくれる。
「セルジュ様」
「はい」
「なぜ、私だったのですか」
ずっと聞きたかったことを、口にする。
「七年前、私はまだ子供でした。泣いているだけの、何もできない子供。なのになぜ、あなたは私を覚えていてくださったの」
セルジュ様は少し考えるように目を伏せた。そして、静かに語り始める。
「あの日、私は社交の場で退屈していました。大人たちの打算と虚飾に辟易していた」
翠緑の瞳が、遠い過去を見つめる。
「庭に出ると、泣いている少女がいた。でも、その子は自分の涙を拭いながら、懐からカードを取り出していた」
「……」
「私は見ていたのです。その子が自分の大切なカードを、自分を虐げる継母と義妹に配る姿を」
セルジュ様の声に、感情が滲む。
「なぜ、と思いました。なぜ自分を傷つける者たちに、そこまでするのかと。聞けば、いつか愛してもらえるかもしれないから、と」
私は目を伏せた。
幼い頃の私は、本当に馬鹿だった。
「その時、私は決めたのです」
セルジュ様が私の手を取る。
「この子を、必ず迎えに行こうと。この子が『もう与えなくていい』と気づいた時、傍にいようと」
「セルジュ様……」
「君は与え続けた。誰よりも優しく、誰よりも強く。その心を、私は愛している」
涙が頬を伝う。
止められなかった。止めようとも思わなかった。
「ずっと、ずっと一人だと思っていました」
声が震える。
「誰も私を見てくれない。私の価値を認めてくれない。私は透明で、空っぽで——」
「違う」
セルジュ様が私を抱きしめた。
「君は透明なんかじゃない。空っぽでもない。君は——誰よりも眩しい光だ」
温かい。
優しい。
こんな風に抱きしめられたのは、いつ以来だろう。母様が亡くなってから、一度も——
「リゼット」
セルジュ様が囁く。
「君の価値を知らぬ者たちに、もう札を配る必要はない。これからは——私のために、配ってくれませんか」
私は涙を拭いて、顔を上げた。
「いいえ」
セルジュ様が驚いた顔をする。
「あなたにはもう、最強のカードを差し上げているでしょう」
私は微笑んだ。
「ジョーカー——Loss(喪失)ではなくLuck(幸運)を自ら選ぶ者にのみ与えられる札。それは、あなた自身の力で幸運を掴める証」
セルジュ様は、ゆっくりと笑った。
「なるほど。では、君に配るべきカードは一枚もないということですね」
「ええ」
私たちは見つめ合い、そして——
「ならば、カード以外のものを差し上げましょう」
セルジュ様が私の手に口づけをした。
「私の全てを。永遠に」
馬車の窓から、ルーンハイト王国の国境が見えてきた。
新しい国。新しい人生。
私は、自分の足で歩き出す。
——三年後。
ルーンハイト王国は、かつてない繁栄を迎えていた。
「王妃様、本日の謁見の予定をお伝えいたします」
侍女長となったニコラが、恭しく書類を差し出す。
「ありがとう、ニコラ」
私——リゼット・ヴァン・アルヴェールは、書類に目を通した。
三年前、セルジュ様と結婚した私は、王太子妃となった。そして昨年、先王が崩御され、セルジュ様が即位。私は王妃となった。
「運命のディーラー」
そう呼ばれるようになった。
私の占いトランプの力は、この国で正当に評価されていた。国の重要な決定の前には、私がカードを読む。誰に幸運を配り、誰から回収すべきかを見極める。
もちろん、無闇に配ることはしない。
価値ある者に、価値あるカードを。それが私の役目。
「王妃様」
ニコラが言葉を続ける。
「本日の謁見者の中に、一人だけ——特別な方がおられます」
「特別?」
「はい。王も既にご存知です。お会いになるかどうかは、王妃様のご判断にお任せすると」
ニコラの表情が、わずかに曇る。
私は書類をめくった。
最後のページに書かれた名前。
——エドワール・デュ・モンフォール。
「……そう」
三年ぶりの再会、か。
謁見の間。
玉座に座る私の前に、一人の男が跪いていた。
かつての金髪は色褪せ、精悍だった顔立ちは疲弊に削られている。着ている服は貴族のものだが、どこか草臥れて見えた。
エドワール・デュ・モンフォール。
元婚約者。
「……お久しぶりです、リゼット」
声も、覇気を失っていた。
「王妃様、とお呼びなさい」
傍らに立つセルジュ様が、冷ややかに訂正する。
エドワールは顔を歪めた。屈辱に耐えているのだろう。
「……王妃様」
絞り出すような声。
「何用ですか」
私は淡々と尋ねた。
「お願いが、ございます」
エドワールが頭を下げる。
「もう一度だけ……カードを、配ってはいただけませんか」
「……」
「モンフォール家は没落しました。事業は全て失敗し、領地は売り払い、今は平民同然の暮らしを——」
「自業自得ですね」
私は遮った。
「あなたは自分の力を過信し、私を捨てた。その結果を受け入れなさい」
「頼む!」
エドワールが叫ぶ。
「俺が間違っていた! 君の価値を知らなかった! だから——」
「だから何です」
私は立ち上がった。
ドレスの裾が優雅に揺れる。玉座を降り、エドワールの前に立つ。
「今更、謝れば許されると? カードを返してもらえると?」
「……」
「甘いですね」
私は懐から一枚のカードを取り出した。
そこに書かれた文字を、エドワールに見せる。
——『THE END』
「これがあなたへの最後のカードです」
エドワールの顔が蒼白になる。
「終わり。あなたと私の物語は、もうとっくに終わっている」
「リゼット——」
「王妃様、と言いなさいと申し上げました」
私は背を向けた。
「ニコラ、この方をお連れして。二度と謁見は許可しません」
「かしこまりました」
ニコラが近衛兵に合図する。エドワールが引きずられていく。
「待ってくれ! リゼット! 俺は——俺は君を愛していた!」
足を止める。
振り返りはしない。
「いいえ」
静かに、告げる。
「あなたが愛していたのは、私の力。私が与える幸運。私自身ではなかった」
「違う! 俺は——」
「嘘をつくのはおやめなさい」
振り返る。
エドワールの目を、真っ直ぐに見据える。
「あなたは一度も、私を見なかった。私の名前を呼ばなかった。私の話を聞かなかった。私がどれほど尽くしても、あなたは当然のように受け取るだけだった」
「……」
「それは愛ではありません。搾取です」
言葉が、静かに響く。
「さようなら、エドワール。あなたの人生に、もう私は必要ない。——いえ、最初から必要だったことなど、一度もなかったのでしょうけれど」
近衛兵がエドワールを連れ去っていく。
叫び声が遠ざかり、やがて消えた。
「リゼット」
セルジュ様が傍に来て、私の肩を抱く。
「大丈夫?」
「ええ」
私は微笑んだ。
「もう、何も感じませんわ」
終わった。
本当に、終わったのだ。
——その夜。
王の私室で、セルジュ様と二人きりになった。
「継母のオデットは獄中で病死したそうです」
セルジュ様が報告する。
「マリアンヌは田舎に引っ込み、誰とも会わずに暮らしている。そしてエドワールは——」
「もう、いいわ」
私は首を振った。
「彼らのことは、もう聞きたくない。過去は過去。私には今と、未来がある」
セルジュ様が微笑む。
「そうですね。——ところで、父上から手紙が来ていますよ」
「父上?」
クレールモント伯爵——いえ、元伯爵から、か。
継母の詐欺事件で爵位を剥奪された父は、今は小さな屋敷で隠居暮らしをしているという。
「読みますか?」
「……ええ」
手紙を受け取る。
『リゼットへ。すまなかった——』
謝罪の言葉が並んでいた。自分の弱さを、娘を守れなかったことを、長々と綴っている。
「許しません」
私は呟いた。
「でも、恨んでもいない。ただ——」
「ただ?」
「もう、他人なのだと思います」
セルジュ様が何も言わずに私を抱きしめてくれた。
温かい。
この人の腕の中は、いつも温かい。
「ねえ、セルジュ様」
「何ですか」
「私、幸せです」
涙が零れた。
悲しみではなく、喜びの涙。
「長い間、幸せになってはいけないと思っていました。私は透明で、空っぽで、誰にも必要とされない存在だと」
「……」
「でも今は違う。あなたがいる。ニコラがいる。私を必要としてくれる人がいる」
顔を上げる。
「ありがとう、セルジュ様。私を見つけてくれて」
セルジュ様が私の涙を拭う。
「礼を言うのは私の方です、リゼット」
翠緑の瞳が、優しく笑う。
「君と出会えて——私は、世界で一番幸運な男だ」
窓の外では、満月が輝いていた。
私の手の中で、カードたちが淡く光る。
もう、無闘に配ることはしない。
価値ある者に、価値あるカードを。
そして何より——
自分自身を、一番大切にすることを。
母様、見ていますか。
私はようやく、あなたの教えを理解できました。
——『THE END』
いいえ。
これは終わりではない。
私の物語は、ここから始まるのだから。




