第9話 違和感
それから、二日後。
私は、いつも通りローゼンベルク侯爵邸を訪れていた。
だが――
いつもは上品に落ち着いている屋敷の空気が、いつになく慌ただしい。
使用人たちが廊下を行き交う足音も多い。
(……何か、あった?)
表立っては誰も口にしないが、張りつめた気配が、屋敷全体に漂っている。
◇ ◇ ◇
「リーナ様」
ルーカスの書斎へ向かう途中、
執事に呼び止められた。
「本日は、少しだけ勉強の時間を短くしていただけますでしょうか」
「……承知しました」
理由は告げられない。
だが、察しはついた。
(この前の、理不尽な契約……)
◇ ◇ ◇
勉強の最中、
ルーカスもどこか落ち着かない様子だった。
「……兄上のところに」
ぽつりと漏らす。
「朝から人がたくさん来てた」
子どもながらに、異変を敏感に感じ取っている。
「大丈夫よ」
私は、できるだけ穏やかに言った。
「今は、あなたのやることに集中しましょう」
「……うん」
素直に頷くあたり、本当に成長したなと実感する。
出会った頃はいつもふてくされていた表情も、
最近はずっと穏やかで。それでいて子供らしく健やかだ。
そんなルーカスの丸い頭を見つめながらも
リーナは内心、別のことを考えていた。
(もう、手は打たれているはずよ)
エドガーは、“確認”だけで終わらせる人ではない。
◇ ◇ ◇
予定より早く勉強を切り上げたあと。
私は帰り支度をしていた――
「リーナ・フォン・クラウゼル嬢」
聞き慣れた低い声。
振り返ると、
そこに立っていたのは――
ローゼンベルク侯爵家当主、
グレイフォード・ローゼンベルグ。
(……グレイフォード様?)
背筋に、冷たいものが走る。
「少し、話がある」
有無を言わせぬ口調。
「はい、お供いたします」
◇ ◇ ◇
通されたのは、
以前と同じ、ローゼンベルグ侯爵家当主の執務室。
だが、今日は様子が違った。
机の上に、積みあがる書類の束。
そして、見覚えのある形式の紙。
(……あの時の契約書)
視線が合った瞬間、侯爵は言った。
「君は、この契約を“危険だ”と評したそうだな」
心臓が、どくりと鳴る。
(……来た)
私は、深く一礼する。
「恐れながら、判断を求められたわけではありません」
「知っている」
侯爵は、短く遮った。
「だが、エドガーは動いた」
その一言で、状況を悟った。
(やはり……!)
「王都の商会について密偵を送り裏を取らせた」
侯爵は、書類の一部を指で叩く。
「支払い状況。過去の訴訟。遅延、契約破棄の前例」
淡々と、だが確実に致命的な情報。
「――結果、黒だと判断した」
断定。
部屋の空気が、重く沈んだ。
◇ ◇ ◇
「一介の家庭教師に、ここまで踏み込ませるのは異例だ」
侯爵の視線が、私を射抜く。
「弁明はあるか」
私は、即答しなかった。
代わりに、静かに言う。
「恐れながら重ねて申し上げます。私は判断を下したわけではありません」
一拍。
「ただ、“考え”を示しただけです」
侯爵は、じっと私を見る。
やがて――低く笑った。
「……なるほど」
威圧感は消えない。
「エドガーが、君に意見を聞いた理由がわかった」
◇ ◇ ◇
「安心しろ」
侯爵は、背もたれに身を預けた。
「今すぐ、どうこうするつもりはない」
だが
次の言葉は、決定的だった。
「だが、この件が表に出れば、君の立場も変わる」
単なる家庭教師では、いられなくなる。
暗に、そう言われていた。
「覚悟はあるか」
私は、指先を握りしめた。
この職を紹介してくれたミュラー教授。
家庭教師の給料が入りいったん退学の危機は脱したと伝えた時の弟の、安堵した表情。
ルーカスの問題が解けたときの笑顔。
「……はい」
絞り出すように答える。
「自分の立場は理解しております」
「よろしい」
グレイフォードは、満足そうに頷いた。
「近いうちに改めて話す」
◇ ◇ ◇
執務室を出たあと。
廊下の窓から差し込む夕日がやけに眩しかった。
(もう戻れない)
王都の大商会の裏の顔、その一端が見えた書類にかかわってしまった。
ただの家庭教師ではいられない。巻き込まれることになるだろう。
不思議と、後悔はなかった。
(やるしかない)
弟の未来のため。
ルーカスの未来のため。
そして――
自分自身のために。
リーナは、静かに歩き出す。
この一歩が、
王都全体を巻き込むことになる――
無事家庭教師が続けられて、弟の学費一年分は確保できたみたいです。
リーナお姉ちゃんがほっとしているところに、
エドガー冷徹若旦那が危ない書類を見せてしまったせいで、リーナは巻き込まれます。
自覚あるみたいなのでよかったです(?)




