第4話 侯爵家の次男
ローゼンベルク侯爵邸は、
遠くからでもはっきりとわかるほどの威圧感を放っていた。
高い塀。
重厚な正門。
そこから覗く完璧に整えられた庭園。
(……さすが、侯爵家)
馬車を降り、名を告げる。
門番は私の名前を聞いた瞬間、ほんのわずかに眉を動かした。
それは一瞬のことだったが、そこにあったのは歓迎ではなく――値踏み。
「……こちらへ」
必要最低限の言葉だけを残し、
客というよりも“用件の一つ”を扱うように歩き出す。
胸の奥が、ひり、と痛んだ。
(私は貧乏子爵家からきた家庭教師候補)
この屋敷において、私の立場はその程度なのだろう。
◇ ◇ ◇
通された応接室は、子爵家のそれとは比べものにならないほど広かった。
壁に飾られた絵画。
足音を吸い込む、毛の長い絨毯。
重厚で品のある調度品の数々。
執事がこの部屋で待つように告げ、退室した後。
リーナは背筋を伸ばし、静かに待った。
……どれくらい経っただろう。
時計を見る勇気もなく、
ただ、呼ばれるのを待ち続ける。
◇ ◇ ◇
ようやく扉が開き、先ほどの執事に続いて、年配の男性が入室する。
「ローゼンベルク侯爵だ」
低く、重みのある声。
私はすぐに立ち上がり、深く一礼した。
「はじめまして。
リーナ・フォン・クラウゼルと申します。
本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
侯爵はすぐには返事をしなかった。
私を上から下まで一瞥し、
まるで品定めをするように、沈黙する。
「……君が、次の家庭教師か」
淡々とした口調だった。
「随分と若いな」
「はい。
先日、貴族学院を卒業したばかりです」
「卒業したての令嬢が、家庭教師、と」
その言葉に試すような気配が混じる。
私は、ぐっと歯を食いしばった。
(感情的になったら、終わり)
「正直に言っておこう」
侯爵は、私を見下ろして言った。
「家庭教師には、期待していない。
これまで何人も来たが、誰一人として長く続かなかった」
――問題児。
ミュラー教授の言葉が、脳裏をよぎる。
「今日で終わっても構わん。次男など、所詮その程度の存在だ」
胸の奥が、きし、と鳴った。
◇ ◇ ◇
「連れて来なさい」
侯爵の一言で、扉が再び開く。
現れたのは、少年だった。
まだ幼さの残る顔立ち。
だが、目つきは鋭く、どこか刺々しい。
「……ルーカス・フォン・ローゼンベルク」
ぶっきらぼうな名乗り。
この子が、侯爵家の次男。
(十歳……とは思えないほど、警戒心が強いわ)
「はじめまして。
今日からあなたの勉強を見ることになりました、リーナです」
なるべく警戒心を逆立てないように心掛け、リーナがそう名乗った瞬間。
「……また、家庭教師か」
露骨に嫌そうな声。
「お前もどうせ、すぐいなくなるんだ」
応接室の空気が、ぴんと張り詰めた。
ルーカスの言葉を聞いたローゼンベルグ侯爵は
「聞いた通りだ」
と冷たく告げる。
「10歳になるのにこの体たらく。
君もどうせ長く続けられると思っていない。
甘やかすつもりなら、今すぐ帰ってもらっても構わん」
(完全に、期待されていないわね……)
私は、一瞬だけ唇を噛み、
それから、深く頭を下げた。
「はい。その覚悟で、参りました」
――ここで折れたら、
私を見込んでくれたミュラー教授の顔に泥を塗る。
私は、ゆっくりと腰を落とし、ルーカスと目線を合わせた。
「そうね。
もしかしたら、すぐいなくなるかもしれない」
少年が、わずかに目を見開く。
「でも」
私は、静かに続けた。
「あなたが“勉強が嫌いな理由”くらいは、
聞いてからにしたいわ」
「……そんなの、意味ない」
「いいえ、あるわ」
穏やかに、しかしはっきりと言う。
「わからないまま、
できる前提で進められるのって、とても疲れるもの」
それは、前世の私自身だった。
説明も何もなしに、資料を押し付けられ、期限だけ決められて。
一から歯を食いしばって取り組み続けた日々。
「何が、苦手なの?」
ルーカスは、しばらく黙り込み、
「……算数が、嫌いなんだ」
ぽつりとつぶやいた。
「どうして?」
「わからない、から。
課題を進めても次々にわからないことが増える」
私は、静かに息を吸った。
(……基礎で、つまずいているのね)
しかし、誰も、立ち止まってはくれなかったのだろう。
来年に入学が迫ったこの時期ではより一層。
「・・・教えてくれてありがとう。
これから私と、たくさんの問題、取り組んでいきましょう」
私は、うつむいたルーカスの頭をみつめ、はっきりと言った。
そして次は、侯爵の目を見て告げる。
「今日一日ですべては無理です。
ですが――」
ルーカスを見る。
「“わからない”を、
“わかるかもしれない”にすることはできます」
少年の瞳が、きらりと揺れた。
侯爵は、しばらく私を見つめたあと、短く言う。
「……いいだろう、今日付けで採用だ」
(採用・・・!)
――ここからだ。
弟の未来のため。
ミュラー教授の信頼のため。
そして、
問題児と呼ばれるこの少年のために。
この屋敷で、
まずは、私が“家庭教師として認められなくては―――
リーナは拳を握りしめ、意気込んだ。




