第10話 侯爵家、動く
――その翌日。
ローゼンベルク侯爵邸は、昨日までの慌ただしさが嘘のように静かだった。
静けさは落ち着きではない。
嵐の前の、研ぎ澄まされた沈黙のようだった。
◇ ◇ ◇
私はいつも通り邸を訪れ、ルーカスの書斎へ向かおうとしたところで、執事に呼び止められた。
「リーナ様。恐れ入りますが、本日は先に執務室へ」
私は息を整え、頷いた。
「承知しました」
◇ ◇ ◇
執務室の扉を開けた瞬間、空気の濃さに息が詰まった。
机の上に並ぶ書類。封蝋の押された手紙。
そして、いつもより多い使用人――ではなく、従僕たち。
ローゼンベルク侯爵家当主、グレイフォード・ローゼンベルグは、ゆったりと椅子に腰掛けていた。
その横に立つのはエドガー。
目が合う。
彼は、ほんのわずかに頷いた。
(……もう動いてる)
「来たか」
グレイフォードが言った。
「昨日の話の続きだ。座れ」
私は一礼し、指定された椅子に腰を下ろす。
周囲の視線が、私に刺さる。
(“家庭教師”がこの場にいること自体、異常だ)
でも――今さら引けない。
◇ ◇ ◇
「結論から言う」
グレイフォードは淡々と告げた。
「この契約は破棄する」
ひと息置く間もなく、続ける。
「だが、ただ破棄するだけでは終わらん。
相手は王都のカイゼルバッハ商会。かなりのやり手だ、貴族相手でも容赦しないことで有名だ。
奴ら、面子を潰されたと感じれば、必ずよからぬ噂を流すだろう」
私は、喉の奥が乾くのを感じた。
(貴族社会は、噂に生き、噂に殺される)
没落しかけているが子爵家の長女として、制御不能な噂の恐ろしさは骨身に染みて知っている。
「してエドガー、商会側の動きは?」
エドガーは一枚の書類を差し出す。
「商会は、こちらが契約を渋る可能性を織り込んでいます。
既に、別の貴族家にも“同条件”で打診を始めていました」
グレイフォードは鼻で笑った。
「最初から、引っかかる者を探していたわけだ」
机の上を指先で、とん、と叩く。
「――ならばこちらも、動く」
◇ ◇ ◇
「リーナ嬢」
突然、名を呼ばれた。
クラウゼル”家”の長女としてではなく、”個人”として。
私は背筋を正す。
「はい」
「君が昨日考えたことを、ここでもう一度聞きたい」
私はゆっくりと息を吸い、言葉を選んだ。
「……誠実な取引であれば、あの条項は不要です」
「続けて」
「必要なら、こちらも同等の保険――同等の拘束条件を付けるべきです」
グレイフォードの目が、細くなる。
「つまり?」
「“相手が逃げられる道”があるなら、こちらも“逃げられる道”を持つべきかと」
静寂。
数秒後、グレイフォードは低く笑った。
「……面白い」
そして、家臣たちに視線を向ける。
「聞いたな?攻撃ののろしをあげよ」
◇ ◇ ◇
エドガーが、一歩前に出た。
「父上。準備は整っています」
「うむ」
グレイフォードは頷き、続けた。
「まず、契約は破棄する。
ただし“こちらの落ち度”ではなく、“条件不備”としてだ」
書類を一枚、エドガーが差し出す。
「先方の条項の不備を、法務官に指摘させます。既にあらかた手は回しています。
王都の評議会にも、形式上は報告を通します」
私は思わず瞬きをした。
(速い……しかも正攻法)
感情ではなく、あくまでも制度で。これが上位貴族の戦い方。
「次」
グレイフォードの声が低くなる。
「噂の芽を摘む」
家臣の一人が進み出た。
「すでにいくつかの社交界へ、“先回りの情報”を流す手筈を」
「よい」
グレイフォードは、冷たいほど淡々と頷いた。
「相手が“ローゼンベルク家は約束を反故にした”と言うなら、
こちらは“ローゼンベルク家は不誠実な条件を拒んだ”と言う」
私は内心で息を呑んだ。
(正しいことをしただけでは勝てない。正しいと“理解させてから広める”必要がある)
魑魅魍魎が跋扈する業界で噂は大いに戦局を左右する、企業買収案件など、前世でも散々見た構図だ。
◇ ◇ ◇
「そして最後に」
グレイフォードの視線が、私に戻る。
「お前の立場だ、リーナ嬢」
空気が、ひやりとした。
「この件はいよいよ表に出る。今後、君は」
グレイフォードは、はっきりと言った。
「“ルーカスの家庭教師”かつ、
我が家の仮の相談役としても動け」
頭が一瞬真っ白になる。
(相談役……?それは、高位貴族同士でたてるものでは?!)
エドガーが静かに補足する。
「もちろん、正式な役職ではありません。
外には出さない。守秘も徹底してもらう」
当主が頷く。
「お前の目的は金だろう。弟の学費あと4年分。それが目下の課題ときいている」
ぐ、と胸がつまる。
「対価は出す」
グレイフォードは言い切った。
「家庭教師の報酬とは別に、“助言料”を支払う」
(……それは)
甘い誘い、ではない。
断れば、この家に残れないという宣告。
◇ ◇ ◇
私は、指先を握りしめた。
弟の未来。
ルーカスの未来。
そして――自分自身。
ここで拒めば、すべてが崩れる。
私は、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
声は震えなかった。
グレイフォードは満足そうに頷いた。
「よろしい」
そして、椅子から立ち上がる。
「ローゼンベルグ侯爵家は動く。カイゼルバッハ商会には――“礼儀”を教えてやろう」
その瞬間、執務室の空気が一斉に動いた。
家臣たちが動き、書類が回り、命令が飛ぶ。
私はただ、背筋を伸ばしたまま、心臓の音を聞いていた。
(……始まった)
静かに、しかし確実に。
ローゼンベルク侯爵家の戦いが。
弟の学費を餌に、リーナ、まきこまれまくってます。




