第1話 没落寸前です
――息が、熱い。
喉の奥が焼けるように痛くて、身体がまるで鉛みたいに重い。
薄く目を開けた瞬間視界いっぱいに広がったのは、
見慣れない天蓋だった。
「……ここ、どこ……?」
掠れた声は、自分でも驚くほど幼い。
手を上げようとして、思うように動かないことに気づいた。
その瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。
書類の山。
鳴り止まない電話。
終電。
24時間営業のコンビニの明かり。
『何が何でも今日中にまとめろ!』という上司の声。
――ああ、私。
(社畜OL……)
次の瞬間、洪水みたいに”別の記憶”が流れ込んでくる。
貴族学院。
着慣れた刺繍入りの制服。
社交界。
そして――借金の帳簿。
理解した瞬間、私は思わず呻いた。
「……最悪のタイミングで、思い出したわね……」
ここは異世界。
そして私は、リーナ・フォン・クラウゼル。
つい昨日、貴族学院を卒業したばかりで――
没落寸前の、子爵令嬢だ。
◇ ◇ ◇
扉をノックする音で、意識が現実に引き戻される。
「お姉さま……お加減は……」
心配そうに顔を覗かせたのは、弟のエミールだった。
エミール・フォン・クラウゼル、十四歳。
貴族学院の中等部に通っている。
聡明だが、ちょっと気弱。
リーナのかわいいかわいい弟だ。
「大丈夫よ。ただの風邪だわ……」
そう答えながら、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
このリーナの身体は、無理を重ね続けた末に倒れたのだ。
卒業前から、必死で働き口を探し回って。
なぜなら。
(……父が事業失敗し、うちは借金まみれ)
使用人はほぼ解雇。
両親は資金繰りに追われ、屋敷内の家具など一部はすでに売却済み。
貯めてくれていた私の輿入れのための持参金も、つゆと消えた。
そして、最大の問題は。
(エミールの学費……)
貴族学院は、貴族であれば皆が通うもの。
階級で一般国民より上にある以上、
より一層学び、このアルヴェリア王国のため、民のため、貢献しなければならない。
これがこの国の方針。
だからどれだけ無理をしてでも、貴族であれば卒業までこぎつけないといけない。
成績、金銭的事情、色々問題はあるが、途中退学すれば、一律、“落伍者”の烙印を押される。
そして貴族社会でおよそ一生、蔑まれて生きるのだ。
奨学制度は存在するが、いずれかの科目で1位かつ他の科目でも上位の成績をキープしなければならず、道のりは果てしなく険しい。
実際には魔力の高い高位貴族が上位を占めるため、うちのような子爵家はよほど一芸に秀でている等がないと奨学制度には縁がないのが通例だ。
つまり、
私が、なんとか金策を立てなければ、かわいい弟の未来が終わる。
エミールは、私の沈黙を不安そうに見つめてくる。
「……姉さん、無理、してない?」
胸が痛む。
エミールもわかっているのだ。
このままでは自分の学費がままならないこと、そして姉はそのために職を探し回っていること。
「無理なんて、してないわ」
嘘だ。
でも、笑わなきゃいけない。
「大丈夫。ちゃんと、なんとかするから」
前世でも、そうやって生きてきた。
社畜として。
無理をおして、働いてきた。
……まさか異世界に転生しても、同じ状況に陥るとは思わなかったけど。
◇ ◇ ◇
エミールが部屋を出たあと、私は天井を見つめた。
私、リーナ・フォン・クラウゼルに、貴族令嬢としての価値は、もうほとんどないだろう。
婚約話も完全に白紙になった。
残された選択肢は、わずか。
「なんとか、働き口を探さないと……」
明日の訪問予定を思い出す。
――貴族学院の、ミュラー教授。
卒業前、
実家の家計が火の車となってしまい、職探しに奔走していた私を心配し、
声をかけてくれたのだ。
リーナの成績と性格を考慮した教授は、静かに言った。
『・・・家庭教師の仕事に、興味はあるかね?』
貴族の世界で、家庭教師は便利な労働力。
立場は低く、報酬も安い。
『もし興味があるなら、この日に、私のところに来なさい。』
ミュラー教授は面談の日程を提示してくれた。
(……背に腹は代えられない)
親戚筋や伝手をあたったが、親戚筋も余裕はなく、没落に巻き込まれては大変と、
手紙を送っても、お断りの返事ばかり。
子爵家にある伝手など皆無に乏しかった。
弟の未来のためなら。
私の誇りなんて、いくらでも後回しでいい。
たとえそれが、
家庭教師という、立場の低い仕事だったとしても――
リーナは、布団の中でそっと拳を握った。




