第80話 フロイドとの約束
『そうそう。一つ言い忘れていたことがあったのを思い出したよ』
その言葉に、イグマンは笑みを浮かべた表情に一瞬だけ眉をひそめる。フロイドの「言い忘れていたこと」はろくでもないことが多いからだ。
護衛の女が「シンファ」であるかどうかを調べることですら難題であるというのに、今度は何をいい出すのだろうかとイグマンは心の中で構えた。
一方で声に感情が出ないように気を付けながら、明るい声で尋ねる。
「なんでしょう?」
『もし君たちが今回失敗したら、イグマンは私の元に来てもらおう』
イグマンの顔から笑みが消える。
「……え?」
『嫌とは言わせないよ。その代わり、君の大切な部下たちは一緒にしておいてあげる。報酬も経費が掛かっていたとしても、当初渡すと決めていた通りに出そう。エレインは今年で二十六歳だろう? 成人して八年も経っている。アベルとヨハンは、確か二十三くらいにはなったんじゃないか?』
「……二人は二十二歳ですね」
『どちらも同じようなものじゃないか。三人とも成人しているし、エレインは数年の経験がある。イグマンがいなくたって仕事はできるだろう?』
フロイドとのやり取りで最も重要なことは、何を言われも動揺しないことである。そうしないと、弱みに付け込まれるからだ。
だが、スビリウスの上司に対して厚顔を装ってきたイグマンも、エレインたちのことになるとそうはいかない。
「おっしゃることは分かりますが、その……」
いつかは言われることだろうとは思っていた。
だが、まだ先だと思っていたのだ。そのため、言い返す言葉が出てこない。
「自分がエレインたちのことを必要としている」といえば、「それならば彼らの成長のために離れたほうがいい。イグマンが私のところに来るべきだ」と言われてしまうし、「まだ面倒を見なければならないんです」と彼らを庇うようなことをいえば、「あの歳になって独り立ちができないなんて、君の教育がなっていないせいだね。もう一度教育者として私のところに来て鍛え直してあげよう」と言われてしまうだろう。
イグマンが上手く返答できないでいると、フロイドは意に介さず楽しそうに笑った。
『ふふ、いい反応だ。珍しく返しがない。あー、いい気分だ。君が機嫌を損ねるほど、私は楽しくて仕方がないよ』
イグマンは受話器を握る手に力を込めると、無理矢理笑顔を作った。引きつっている自覚はある。だが、こうでもしないと冷静でいられそうになかった。
「そうですか。それは良かったです」
『切り替えが早いな』
フロイドがつまらなそうに言う。声だけで判断しているからか、イグマンの動揺は一時的なものだと思ったようである。
イグマンは体の緊張が少しだけ和らいだような気がした。
「そうでなければやっていけませんから」
やっとのことでいつものような嫌味を交えて返答ができたと思ったが、フロイドは楽しそうにくすくすと笑う。
『さすが、イグマンだね。せいぜいもがき苦しむがいいよ。失敗したら、私のところで存分に可愛がってやろう。あ、そうそう。君たちだけでは頼りないからと思ってね、こちらからもまた別の要員を送っているんだよ。もし彼らが先に兄弟を手に入れたときも、イグマン、君は私の元で働かせるからね。それじゃあ』
「はい」
イグマンが商人を装って明るくうなずいたころには、すでに電話は切られ、ツーツーという音だけが虚しく受話器の中で響いていた。
☆
「ただいま」
アレクシスが朝食を買って戻って来ると、ふわっとハティルの良い香りが鼻をくすぐった。
テーブルの席に着いていたユーインが「おかえりなさい」と言い、その後にハティルを飲んでいたアルフィがカップから顔を上げ、兄と同じように「おかえりなさい」と言ってアレクシスを出迎えてくれる。
ハティルの香りを強く感じたのは、どうやらアルフィが飲んでいたからのようだ。
「アルフィも起きたんだね。おはよう」
挨拶をすると、アルフィがにこにこと笑って返事をしてくれた。
「おはようございます」
それを見てアレクシスはほっとする。
ユーインと違いアルフィはぐっすり眠っていたので、その点については安心したが、朝になってもぴくりとも動かないので疲れすぎているか心配だったのだ。
しかしよく眠ったアルフィは顔の血色もいいし、元気そうである。まだ油断はできない部分はあるが、体は十分に休められたようで一安心といったところだろう。
「朝食を買って来たからね。皆で食べよう」
するとアルフィが元気よくうなずいた。
「はい!」
アレクシスが買った物が入った紙袋を手にテーブルのところまで来ると、彼が帰ってきたことに気づいたソフィアがベッドから体を起こした。
「おかえり、アレクシス。早かったね」
アレクシスは、先ほどまで自分が寝ていたベッドのほうに視線を向けるとうなずいた。
「時間をかけないほうがいいかなと思って、近くのところで買って来た。ごめん、もう少し遅いほうが良かった?」
時間がかかればその分眠れていたということだろうかと思い尋ねると、ソフィアはテーブルの窓側の席に移動しながら答えた。
「別に。時間があるときに、少しでも横になっていようと思っただけから気にしなくていい。それに今日はやることが沢山あるんで、あまり時間を使わなくて済むならそのほうがいいしね」
「それならいいんだけど」
そう言うと、アレクシスは紙袋から食品用の包装紙に包まれたものを四つ取り出す。紙袋からすでに良い香りがしていたが、中身を出すと、より一層甘く煮たタレのにおいが香ってきて食欲をそそった。




