第65話 ソルドーの町と朝市
ソフィアは頼んだものが準備されるまで、壁に寄りかかり、何気なく周囲を見つめる。受付と話している間に、また入ってきた者が増えたようで、列ができ始めていたのだ。
「……」
ソフィアの瞳には彼らが受付に並ぶ様子が映っていたが、心では別のことを考えていた。
(ジェレミア伯爵らのことがアレクシスでも分からないなら、それは分かったときに対応するしかない。だが、「分からない」お陰でやることは明確になった)
するとそのとき、リゴーン、リゴーン、リゴーンという鐘の音が鳴った。
時計台の鐘である。午前六時になると一つ、七時になると二つ鳴るため、三つなった今は八時だ。
大体八時になると、宿屋の前に朝市が開かれる。
新鮮な野菜を売るのが主だが、宿屋の近辺は手軽に食べられる朝食を売っているところが多い。
元々ソルドーでは、旅人や商人の出入りがあるため、この町を通り過ぎる前に「朝ご飯として軽食を買ってもらおう」ということで始めたことらしいが、二十年ほど前からは宿泊客の大半が、この朝市で朝食を購入するようになった。
というのも、ソルドーの宿屋は大抵隣に料理店を構えており宿泊客にはそこで食事をしてもらうのだが、開店が十時なのだ。そして料理が出てくるのも少し時間がかかってしまう。
一方、朝市の朝食屋だと、頼めば一分もかからずに出てくる。
大体は片手で食べられるサジオルという、バラフ(=バンズに似ている噛み応えのあるパン)に、野菜や燻製肉などを挟んでいるものを売っており、店によって挟んでいるものや、味が違うのが特徴だ。
何度もソルドーに来ている者だと、宿屋の前においしい朝食屋が出るところを探して泊まる者もいる。そのため宿屋は人気の朝食屋に、わざわざ「自分の店の前に来てもらうようお願いする」こともあるらしい。
また、朝食屋と宿屋の料理屋が喧嘩しなくて済んでいるのは、朝食屋は朝食しか提供しないからである。
材料がなくなったり、十時になればさっさと撤退してしまうので、それ以降の時間でご飯を食べる場合は料理屋に入るしかない。
また朝食屋がいることで、料理屋は朝の時間でゆっくりと準備をすることができるため、両者がお互いを補っているのである。
(お、他の宿泊客も、鐘の音で起きて来たな)
見ると、階段のほうから数人の人が降りてきた。
若い女の二人組やよく日に焼けた中年の男。
そして年若な男と幼い少年。これはもしかすると、親子かもしれない。
彼らは順番に受付に並ぶと簡易的な部屋の札を借り、それを持って外へ出て行く。朝食を買いに行くのだろう。
彼らの背を見送っていると、ソフィアが泊っている部屋が呼ばれた。
「『383』のお部屋の方」
「はい」
彼女は壁から背を離し、受付の元へ行く。
「お待たせしました」
すると、先ほど頼んだ男はにこにこと笑って、水差しと温かいお湯の入った湯瓶、茶葉に、茶こし、四つの白いカップをトレーに載せて出してくれた。てきぱきと用意してくれたお陰で、あまり待たずに済んだ。
「ありがとう」
「また何かございましたら、お申し付けください」
「そうすることにするよ。君、名前は?」
「フォンランと申します」
「分かった。では、フォンラン、またあとで」
ソフィアはそう言うと、ポケットから百レイル(=約百円)のコインを二枚出し、これからお願いすることを示す心付けとして置く。すると、彼は「かしこまりました」と言ってにこやかにほほ笑んだ。
ソフィアもその笑みに答えるように笑うと、フォンランが用意してくれたものを持って階段を上る。これから出発する際に、特に馬のことを頼まなければならないため、その際は彼にお願いしようと彼女は思った。
(昨夜、借馬屋で借りた馬はここに置いていかないといけないから、また別の馬を手配してもらわないとな。この宿屋で借りれるのか、借りれないとしたらどこだったら貸してくれるのかを聞かないと……)
部屋に戻ると、身支度の終わったユーインが椅子に座って足をぶらぶらしているところだった。ソフィアはそれを見て表情を緩めると、トレーをテーブルに置いた。
「水とお茶を貰って来たよ。口をゆすぐときはこれを使いな」
「ありがとうございます」
ユーインのお礼を聞きながら、ソフィアは早速、カップを手に取り水差しから水を注ぐと、洗面台のところへ行きうがいをする。口の中がすっきりして気持ちが良い。
それを見ていたユーインも、彼女のやり方を真似して同じように口をゆすいだ。
そしてソフィアはテーブルに戻ると、うがいをしたカップに茶こしを置いて茶葉を入れ、そこにお湯を注ぐ。すると爽やかな香りがふわっと漂ったが、ユーインは顔をしかめていた。
お茶の香りが嫌だったのではない。彼が不愉快に思っているのは、カップのほうである。まさかうがいをしたカップで茶を飲むとは思っていなかったのだろう。
「気になる?」
ソフィアが苦笑しながら尋ねると、ユーインは口をきゅっと結んで小さくうなずいた。
「まあ、貴族の家じゃこんなことはしないよな。行儀が悪いからね。でもだからと言って洗面台の水で、使ったカップを洗うことはできない。きれいな水じゃないからね。まあ、この水差しの水で洗ってもいいけど、少し水を入れて洗うくらいしかできないし、これから先はもっと不便なこともあるだろうから、ちょっと慣れたほうがいい」
すると、ユーインは渋々《しぶしぶ》ながらも「はい……」とうなずく。
ソフィアは慣れないことをさせるのは可哀そうだなと思いながらも、ユーインがうがいで使ったカップに、先ほどと同じように茶を入れた。
気を取り直して、ユーインは自分のカップに注がれた茶を見る。
香りのよいお茶だがカップの中を覗くと、ごく僅かに薄い緑色をしているだけで、ちゃんと出ているのか疑うほどだ。
「さあ、どうぞ」
ソフィアがユーインに出すと、彼は戸惑いながらも、ふうふうと茶を冷ます。そして、ソフィアが茶を飲むのを見てから、自分も口に入れた。
するとユーインは目を丸くする。




