第61話 名前と過去
ソフィアは眉をひそめた。
「どうして?」
「俺たちが使っている偽名は、スビリウスの目を欺くためであるわけだけど、自分たちだけ安全圏にいるような感じがして、それは大人としてずるいかなって……」
ソフィアは胡坐をかいていた片足を立てると、そこに頬杖をついて呆れたように言う。
「それは仕方ないだろう。これから先も闇取引に出入りするというなら、身は隠さなければならないんだから」
「うん、そうなんだけど……。でも、何ていうかな。俺も落ち着かないんだよ。君は『甘いことばかり言って』って言うかもしれないけどさ」
「……」
「それに、助けてくれた人たちが『私たちのことは偽名で呼んでくれ』って言われたら、なんか冷たい感じがしない? 理由は分かっていても、俺だったら壁を感じて悲しい気持ちになるよ」
「全く、君はどこまで甘いんだか」
求められた通りにソフィアがそう口にすると、アレクシスは苦笑しながら謝った。
「ごめん」
ソフィアは小さくため息をつく。
(本人が自覚しているかは別として、その「ごめん」はどうせ「意見は変えないよ」って意味だ。仕事の流れに関して融通を利かせるのは上手いくせに、感情が入ってくると途端に頑固になる。それがアレクシスだ)
ソフィアは暫く目を閉じて、悩むような仕草をする。
ここで「駄目だ」と言ったところで、どうせ折を見て「偽名じゃなくてもいい?」と言い始める。そのため結局許すことになるのだが、偽名はアレクシスのためにやっていることなのに「はい、分かりました」とすんなりうなずくのも癪なので、時間を掛けた。
アレクシスはソフィアが口にするまで、辛抱強く待つ。
じっと見つめられることに限界が来たところで、ソフィアは片目を開けてアレクシスを一瞥したあとに口を開いた。
「分かったよ。だったら、この部屋にいるときだけは名前で呼んでもいいことにする。だが、部屋を出たら偽名に戻せよ。悪いが、そこは譲れない」
するとアレクシスがぱっと表情を明るくする。
「じゃあ、俺の名前もいいってことだな」
「いや、君は『ジェームス』だろう」
すかさず意地悪を言う。アレクシスは笑みを浮かべたまま固まって、ソフィアを見る。
(面白いなぁ)
ソフィアはその表情を見て、くっくっくっと笑い始めると「冗談だって」と言った。途端にアレクシスはむっとした表情を浮かべる。
「あー、もうっ。何だよ、本当に」
「悪い、悪い」
ソフィアが軽く悪びれると、アレクシスは仰向けになって深呼吸をした。
「よかった」
だが、ゆっくりと息をはきだして言うと、急に「ふふっ」と小さく笑い出す。
「何だよ」
ソフィアが怪訝そうに尋ねる。アレクシスは顔に笑みを浮かべたまま答えた。
「いや、昔のことを思い出しただけ。ソフィアは俺のこと、『公子さま』って呼んでただろう」
アレクシスと初めて出会ったときのことである。
あのときのソフィアは父に、「アレクシスさまは、次期グロリア侯爵になれる方だ。名前ではなく『公子さま』と呼びなさい」と言われ、忠実に守っていた。
「あったね、そんな時期。なのにいつのときからか、『名前で呼べ』っていうんだもんな。しかも敬称も付けずにって、無茶なことを言う」
リョダリは金持ちの商人の護衛をすることを生業としていることから、礼節は子どものころから躾けられている。そのため心の中でどう思っていようとも、接する態度だけはきちんとしないといけないと思っていた。
ゆえに、ただでさえ名前で呼ぶことに抵抗があるのに、さらに敬称も抜いて欲しいというのはソフィアにとっては訳の分からないことだったのである。
「そんな言い方はしてない。『名前で呼んでほしい』って言ったんだ」
「同じことだろう」
「でも、中々呼んでくれなくてさ。セリアのことは『セリア』って呼んでいたのに……」
セリアはアレクシスの妹である。そして名前呼びをお願いされたのは、彼女が先だった。
セリアとは屋敷に通ううちに仲良くなった。姉のように慕われるうちに、「セリアって呼んでほしいの」ときらきらした目でせがまれるようになったのである。
仲は良かったが、どうして身分の低い自分から敬称なしの名前呼びをされたいのか、ソフィアにはセリアの考えがまるで読めなかった。
リョダリは、セルディア王国の国民としても認められていない部族である。
貴族に生まれた子に対して自分が名前を呼び捨てにしまったら、「侮辱なのではないか」と思っていたため、とても彼女の要望には応えられなかった。
だが、セリアは「私がいいのですからいいのです」と頑として譲らなかった。その強さにソフィアのほうが折れ、以来、彼女のことは「セリア」と呼び、彼女は自身の屋敷の中ではソフィアのことを「姉上」とか「ソフィアお姉さま」と呼んでいる。
「最初はセリアのことも、『お嬢さま』ってちゃんと呼んでいたよ。でもセリアがそう呼べっていうから」
「俺も同じことを言っただけだ。『アレクシス』って呼んでくれればよかったのに」
「仕方ないだろう。君は侯爵の後継ぎなんだから」
ソフィアがそう言ったが、アレクシスは懐かしい記憶を思い起こして幸せな気分に浸るかのように、温かな嬉しさを秘めた笑いを浮かべた。
「でも、いつの間にか呼んでくれるようになったね」
「君がしつこいからだ」
するとアレクシスがソフィアのほうを向いて、少しむっとする。
「またそんなことを」
ソフィアは彼の表情を見て笑うと、ゆっくりと立ち上がった。
「話はこれで済んだだろう。さっさと寝ろというのに、面倒なことを話し始めるんだからな」
そしてテーブルのあるほうへ行こうとすると、「ソフィア」と優しい声で呼び留められた。
子どものころから変わらない。セルディア王国に認められていない部族だろうと、地位の低い者だろうと何だろうと、彼にはそんなものは最初から関係なかった。
何だかんだ言って意見が食い違うこともあるけれど、彼はいつだって、ソフィアを「ソフィア」として見てくれる数少ない大切な友人だ。だからこそ、失いたくない。
「何だ?」
振り向くと、いい大人のくせに少年のような笑みを浮かべていた。
「来てくれてありがとな。……おやすみ」
ソフィアはふっと笑うとうなずいた。
「ああ、おやすみ。アレクシス」




