第56話 解放
(……!)
一瞬にして耳たぶに高温の熱を感じる。
エレインは驚きつつ、恐る恐る耳たぶに触れると、ヒリヒリとした痛みが周囲に広がった。
「動くなと言っている。肩を撃つのも可哀そうだと思って、さっきから耳の皮一枚をかすってやっているんだが、その情けも分からないか? それとも一思いにやってほしいのか? いい度胸だな。だったら狙ってほしい場所を聞こうか。要望に応えてやる」
女が忠告したが、エレインはそれがすぐに頭に入ってこなかった。
(この暗闇だぞ? 本当に狙ったというのか……?)
エレインは渇いた喉で、無理に唾を飲み込んだ。
拳銃を使って命中させるというのはそう簡単なことではない。
その上、暗闇だ。どこに誰がいるのか全く分からない状況である。
だが、女は自分が相手のどこを狙って撃つのか決めていて、それを確実に具現化していた。
驚異的な狙撃術である。
「……」
再び重い空気が周囲を支配する。女から放たれる重苦しい気配が、エレインたちの精神を徐々に脅かしていた。
(どうすればこの状況を打破できるのか……)
エレインが必死に考えていると、しんとした空間に低い声が響いた。
「——女、俺たちから何を聞き出したいんだ?」
糸が張り詰めたような状況で声を出したのはイグマンだった。彼は普段と変わらない冷静な声で女に問う。
すると彼女は凛とした声で聞きたかったことを尋ねた。
「どこまであの子たちを追うつもりだ?」
「何故、それを聞く?」
イグマンは素っ気なく返す。言うつもりはないという意志表示である。
だが、女は意に介さなかった。
「答えによっては、こちらも考えないといけないと思っているだけさ」
「考え?」
「ああ。あんたたちが地の果てまであの子たちを追ってくるっていうんなら、ここで始末しなくちゃならないって思ってね」
笑うような声だった。
戦いを楽しんでいるような奇妙な笑みで、エレインは背筋に悪寒が走るのを感じた。こんなことはスビリウスの上役であるカナリアと、衝立越しに話をしたとき以来である。
「お前、何者だ?」
さすがのイグマンも声が震えていた。女の気配に圧倒されているのである。
「ただの雇われ護衛だよ」
「そうは思えないが」
イグマンの指摘に、女はくすくすと笑う。
「どう思おうと構わないが、私たちを追ってもあんたたちが欲しいものは手に入らないよ」
手を引け――と言っているのだろう。
だが、スビリウスと契約をして仕事をしている自分たちには、受けた依頼から逃れることはできない。これまでもそうだったように、仕事を遂行しなければ自分たちの身に危険が及ぶ。イグマンに至っては、人質にとられている家族がどうなるのかが分からない。
「……馬鹿な。我々も追うよう定められた犬なのでね。途中で諦めるというわけにはいかないのさ」
イグマンが何とかそう言うと、女は興味がなさそうに「それが答えか。分かった」と言った。
この雰囲気を支配した女がどうするのか。自分たちを始末するのだろうかと恐怖で身をすくませていると、彼女はエレインたちが全く想像しないようなことを口にしたのである。
「……今日はここまでにしておこう。『飼われた犬』……か。あんたたちも苦労しているんだねぇ。せいぜい頑張って追いかけるがいい」
エレインは女の言っている意味が分からなかった。
あの兄弟を追われて困るのなら、ここで始末したほうがいいに決まっている。
だが彼女は、「見逃してやる」という。
すると、彼の思考を読んだのか、想像できたのか分からないが、女は言葉を付け加えた。
「ただし、忠告しておく。もしあの兄弟に手を出そうとしたら、その前に私はお前たちの喉を掻っ切る。確実にな」
そして土を踏む音から一頭の馬が動いたのが聞こえた。
女が馬に指示を出して、歩かせたのだろう。
「ああ、そうそう。明日は街で旅支度を済ませたら昼過ぎに出発する。邪魔はするな。街が血で穢れないようにしたければな」
そう言い残すと、女はいつの間にか夜の闇に溶けて消えていた。
エレインたちが彼女の恐ろしい気配から解放されたのは、東の空が日の出でほんのり明るくなり始めたことだった。




