第36話 人形とカナリア
「はっ。馬だと?」
ノーバートは、短い笑いに嘲笑を含めて聞き返した。
さぞ不快に思っただろう――とノーバートは思ったが、アベルは童顔の顔に表情を浮かべることなく、短く「はい」とうなずいた。
こういうのは苛立ちが顔に現れるのが面白いのである。ノーバートは「ちっ」と舌打ちをしてから「一応、理由を聞こう」と言葉を続けた。
「ジェレミア兄弟が、馬車から下りたとのことです」
「それで? 見失ったから戻ってきたと?」
ノーバートはアベルたちを責めるように言う。
だが、アベルはここでも一切表情を変えなかった。
それはヨハンも同じで、こちらはさらに口も開かない。彼はアベルの後ろに立ち、緑色の瞳でただじっと部屋の主を見つめている。
薄気味悪い人形のようで、ノーバートはできるだけヨハンに顔を合わせないようにした。
「いいえ、そうではなく借馬屋で馬に乗り換えたため、馬でしか入れない場所に行かれてしまったら追えなくなります。そのため、こちらで用意していただきたく――」
「借馬屋で借りればよかっただろう」
ノーバートは尤もな言葉を、アベルの説明に被せる。
しかし、アベルは変わらず静かに答えた。
「おっしゃる通りです。ですから、二頭は借りました。しかし予約をしていたわけではないため、もう二頭を借りることはできなかったのです」
「それは我々も同じことだ。常に予備の馬を用意しているわけではない。お前たちを乗せた馬車があったのは事前に用意してあったからで、それ以上のことは自分たちが考えて手配なり予約なりするべきだろう」
「……」
「お前たちには、兄弟がゲームの景品になることは伝えていただろう。だから、景品として持ち出されたら後追うようにと、それが仕事だとも言っていたはずだ。兄弟を持ち出した奴らが、『オブシディアン』なら猶更兄弟を連れ戻そうとするに違いない。……とまあ、机に張り付いて仕事をしている俺でさえ考えが点くんだから、起こりうることを考えて、最初からここにある馬を使うようにしておくとか、借馬屋に連絡を入れておくとか、そういった準備が必要だったのでは? うん?」
ノーバートは余裕の表情を浮かべながら話していたが、内心は景品で手放した兄弟たちの動きに疑問を感じ、余計な出費がかかることに嫌気が差していた。
(「闇取引」に参加した奴らは、「自分たちのことを見られないようにするため」と「夜分の乗馬を避けるため」に、絶対に馬車を使う。それなのに、あの兄弟を連れて行った連中に限って、馬に乗り換えることになるとはな。面倒なことをしてくれる。劇場には馬を用意してあるが、使うとなると馬丁に別の料金を払わなくてはならなくなる。しかも、急ぎとなると私が馬丁にお願いすることになるから、支払いが私になってしまう。これは適当にあしらってこの交渉をなかったことにしなければな……)
「準備不足だったのは否めません。ですが、馬が必要です。できれば二頭、お願いいたします」
ノーバートの質問に対し、アベルはまるで話を聞いていなかったのかというほどに、淡々と言い返した。
「無理だと言っている」
「お願いいたします」
アベルが引き下がろうとしないので、ノーバートは大きくため息をついた。
「……全く。イグマンはいつもその辺りがなっていないな」
「申し訳ございません」
「謝ればいいと思っているのか?」
「そのようには思っておりません」
「まあ、いい。どちらにせよ、ここにいても何にもならん。別の借馬屋にでも行って頼むがいい」
ノーバートが視線を書類に戻す。だが、一向にアベルとヨハンは部屋の外に出ようとしないので、再び顔を上げることになった。
「何だ? まだ言いたいことでもあるのか?」
するとアベルが小首を傾げた。表情は全く変わっていないが、ようやく見せた感情だった。
「恐れながら申し上げます。今の時間から、馬を借りることのできる借馬屋が、この近くにあるのでしょうか?」
「さあな」
ノーバートは素っ気なく答える。
「ご存じないというのであれば、こちらで手配をお願いいたします」
「できないと言っているだろう」
「馬を借りねばジェレミア兄弟を追うことはかないません。そうなれば我々の失敗です。私たちと上司の失敗は、オルディガ伯爵さまの失態にもなりましょう。そしてそれは『カナリア』さまにも影響されるかと……」
「カナリア」という名前に、彼はぎろりとアベルを睨みつける。
ノーバートもイグマンもアベルたちも、「カナリア」の傘下にいる。
「カナリア」はスビリウスの上層部に位置し、その中でも特に強い権力を持つ者の名だ。組織の中でもほとんどがその者の姿を見たことはないとされているが、使えない部下はあっさりと切り捨てるほど、情け容赦のない人であることは噂でよく聞く。
「口を慎め。お前たちが失敗しようと、私にもカナリアさまにも何の影響はない。ただ、お前たちが切られるだけだ」
ノーバートは言い切ったが、アベルの青い瞳はまるで揺れることがなく、寧ろ彼の心を見透かすように「そうでしょうか?」と言った。




