第28話 エレインとイグマン
イグマンは、受付所に電話を借りに行ったのだろう。これくらいの規模の借馬屋ならば、電話線を通しているはずだ。
エレインは上司のぜい肉の付いた背中が闇の中に消えるのを見届けながら、小さくため息をつく。
(救急の看護師たちが来る前に、軽くでも手当てをしたほうがいいだろうな。俺がやらないとイグマンさまがやりかねない……)
イグマンは、スビリウスという闇を売り買いする組織の一員でありながら、情のある不思議な人物である。
エレインにとってイグマンは、上司という関係を越えて「父」に近い。それは彼に、両親の記憶があまりないのも影響している。
エレインは、自分の父親がスビリウスの組織の一員だったということは知っているが、八歳のころに消息を絶ったことで記憶がほとんどない。仕事中の出来事だったらしいが、行方不明になったのか、捕まったのか、死んだのか未だに分かっていないのだ。
また、母親は娼婦だったらしいが、それ以外のことは何も知らなかった。
父が生きていたころ、エレインも自分の出生というものを気になったことがある。
そのため、二度、父親に母親の名前を教えてもらったことがあった。だが、二回とも名前が違っていた。
そのためエレインは、父親はきっと母親に愛情も何もなく、生まれた自分すらも仕方なくて引き受けたのだろうと考えている。
愛情も注がれず、家庭の温かさを知らず、父がいなくなってからスビリウスの元で暗殺部隊として育てられたエレインだったが、イグマンに会ってから変わった。
彼は初めてエレインに優しさを与え、大切にしてくれたのである。
組織の状況では子どもも仕事に駆り出されることがあったのだが、彼はいつもエレインのことを庇い、子どもがしなくていい苦労はできるだけ自分がしていた。
こんな優しい人は、スビリウスの中で二人としていない。
そのため、イグマンが何故スビリウスにいるのか、エレインは不思議で仕方なかった。
一緒に仕事をするようになって自分のお金でご飯を奢れるようになった日、おいしい酒を沢山飲ませて薄情させると、ようやく言ったのが「家族を人質に取られている」ということだった。
しかしこれ以上のことは、話してくれなかったため分からない。
「家族が人質に取られている」ことも口にしたことを失敗したと思ったのか、酒のある食事の誘いにも乗らなくなってしまったのである。
そのためエレインは、これまでイグマンがしてきてくれた苦労を代わりに背負うようにしている。気恥ずかしくて「頼ってくれ」とはいえないが、自分がイグマンにできる唯一のことだからだ。
だから、イグマンがしそうな面倒なことは、自分が率先してやることにしている。
エレインはランプを持って馭者の元に戻ると、「警官と救急看護を呼んでおいた。彼らが来る前に止血するから、腕を出しな」と言い、ポケットから何でもない白いハンカチを取り出した。
だが、馭者は押さえている左手を離すことができないでいる。
「どうした? 動かせないのか?」
そう言ってエレインは、右腕に触れる。すると痛みのために飛びあがった。
「すまない。傷に触れてしまったか?」
傷が思ったよりも深かったのだろうか。エレインは申し訳なさそうに謝ると、馭者は痛みというよりも、恐怖に堪えるような声で弁明した。
「実は、指もやられているんだ……」
「指? 撃たれたのか?」
「違う……。拳銃に当たったせいで、引き金にかけていた指を衝撃で骨を折ったんだ」
そう言って、男は背中を丸め体を小さくする。
「そのときは、仲間がやられているからって、加勢しようと思ってランプも消していたんだ。それなのに奴は正確に腕と拳銃を狙った……」
エレインは、男の主張に少し眉を寄せた。ランプを消したのは、近くに明るいものがあると遠く薄明りが見えなくなるためと、相手の目印になって撃たれないためだろう。
しかし、今宵は新月。
譬えランプが付いていたとしても、闇に飲まれるような暗さの中で正確に撃つなどあり得ない話である。
「正確にねぇ……」
「本当なんだ! 本当なんだよ!」
エレインの反応に抗議するように馭者が言う。よっぽど怖かったらしい。
「疑っているわけじゃないよ。大丈夫、落ち着いて」
エレインは相手の気持ちが緩むように、背をさすって慰めてやる。性に合わないが、親切な人を装っているので仕方ない。
(暗闇の中、正確に的を撃ち抜いた、か……。もし、それが本当ならば、狙撃者はわざと急所を外したってことになる。でも、何故殺さなかった? 闇取引が関わっている殺生に関しては、事件化しないように参加者にも通達してある。正確に撃てるなら、殺したほうが追われなくて済むだろうに……)
エレインは追っている人物を想像しながら、さらに馭者に質問をした。




