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言葉が生まれる


肉を焼く香ばしい匂いが鼻をくすぐり健は夜明けと共に目を覚ました。焚き火のそばに置いた昨夜の獲物の残りが熱で温められ再び食欲をそそる香りを放っている。身を起こすと身体の節々がまだ軋むように痛んだがその痛みは心地よい疲労感に変わっており、レベルアップによる能力値の上昇が以前とは比べ物にならないほど身体を軽くしているのを実感した。

彼は焼いた肉を一口食べるとその生命力に満ちた味を噛み締め、すぐに日課である鍛錬を始めた。槍を構えゆっくりと突きを繰り返すことで昨日手に入れた【槍術】の感覚を身体の奥深くに馴染ませていく。

その鍛錬が半刻ほど続いた頃、森の茂みが静かに揺れる音に健は即座に動きを止め槍の穂先をそちらへ向けた。全身の筋肉が緊張し臨戦態勢に入る。

茂みから現れたのは昨日の少年で、彼は一人きりでその手には何も持たず、健の警戒を解くように両の手のひらを見せて敵意がないことを示した。健はゆっくりと槍を下ろしたが警戒までは解かず、集落の子供がなぜ再び一人でここへ来たのかその意図を測りかねていた。

少年は健に近づくとおずおずと一つの小さな革袋を差し出し、戸惑う健に中を見せるようにその口を開ける。中には白く粗い粒、塩が入っていた。健の目に衝撃が走り、こんな貴重品をなぜ俺にと訝しむ。少年は受け取らない健に焦れたように袋を押し付け、地面に転がっていた岩角兎の皮と自分の身に着けている粗末な服を交互に指差した。

これは取引なのだと健は理解した。昨日の肉の礼、そしてこの上質な毛皮との交換。健が革袋をそっと受け取ると少年は安堵したような表情を見せ、この瞬間二人の間に初めて明確な信頼関係が生まれた。それは生存のための打算的な繋がりだったが今の健には何よりも価値あるものだった。

この交流を好機と捉えた健はまず目の前の焚き火を指差し「火」と自分の知る単語を口にした。少年は少し考えると健の言葉を真似るのではなく「アグニ」と彼自身の言葉を発音し、健が拙くそれを繰り返すと何度か頷いてみせた。

次は地面の石を指差し「石」と言うと少年はそれを拾い上げ「イシ」と答える。偶然か日本語の音に酷似したその音を健は驚きながらも記憶に刻んだ。

川は「ナーガ」木は「ダーラ」、健が持つ槍は「ヴィン」で少年が腰に提げたナイフは「クリ」。少年は根気強く健に付き合い健が正しく発音できるまで何度も同じ単語を繰り返してくれた。

名詞だけではなく少年は立ち上がり歩いてみせて「アルク」、次に走ってみせて「ハシル」。これもまた日本語に近い響きが健の言語習得をわずかに助ける。少年は健から槍を奪うように持つと鋭く突く動作をして「ツク」と教えた。

健は夢中だった。一つ言葉を覚えるたびにこの世界の解像度が上がっていくようで、ただの物体や現象でしかなかったものが名前を与えられ意味を持ち始める。それは世界との繋がりを取り戻す人間性回復の作業でもあった。

昼になり健が残っていた肉を焼き塩を振ると、その強烈な旨味に健は涙が出そうになった。少年も黙々と肉を頬張りその表情は少しだけ和らいで見える。肉を食べながら授業は続き、肉は「マーサ」で美味いは「ウマイ」。

やがて少年は自分の胸を叩き「カイル」と言った。彼の名前だった。健も自分の胸を叩き返し「ケン」と名乗る。カイルとケン、二人は互いの名前を何度も呼び合った。それは原始的で不格好な自己紹介だったが確かなコミュニケーションの第一歩だった。

太陽が西の空に傾く頃、健の頭は覚えたての単語で飽和状態になり脳が熱を持っているのが分かった。カイルが帰ろうと立ち上がったその背中に健は覚えたての言葉で「カイル……アスタ」と声をかける。明日も来てくれるのかと、そう伝えたかった。カイルは振り返ると健の不完全な言葉の意味を正確に汲み取ってくれたらしく、一度だけ力強く頷いて森の中へ消えていった。

カイルの姿が森の奥に見えなくなった直後、健の脳内に再びあの奔流が流れ込み、今日一日かけて頭に詰め込んだ無数の単語と文法が瞬時に整理され体系化されていくのを感じた。

スキル: 【異界言語理解:Lv.1】を獲得しました。

まだ流暢には話せないし複雑な会話も無理だろう。だがLv.1のスキルは相手の言葉の大意を理解しこちらの意思を最低限伝えることを可能にした。健は一人残された焚き火の前で拳を強く握りしめる。

武器と食料、そして今日言葉を手に入れた。もう彼はただの遭難者ではない、この世界で生きるための確かな足がかりを掴んだのだ。

彼はふとカイルが去っていった方角を見つめた。カイルはなぜ自分にここまでしてくれるのか、ただの物々交換のためだけではない。彼の瞳の奥には探るような好奇心と何かに対する焦りのような色が宿っている気がした。

『あの集落で何かが起きているのか……?』

健はまだ知らない。自分という異分子の存在がこの小さな世界の均衡にどのような影響を与えようとしているのかを。今はただ明日再びカイルに会えること、そしてもっと多くの言葉を交わせるようになることだけを考えながら、静かに更けていく夜を見つめていた。


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