邂逅
森にゆっくりと静寂が戻る中、健の耳にはまだ自らの荒い呼吸と狂ったような心臓の鼓動だけが響き、目の前には命の温もりを失った岩角兎の亡骸が横たわっていた。緑の苔を鮮烈に染めるその鮮血がやけに目に焼き付く。
治まらない吐き気と手足の震えが、生き物の命をこの手で奪ったという重い事実を現実として全身に叩きつけてくる。これはゲームではない、血は生暖かく命には重さがある。生きることは他の命を奪うことなのだという、当たり前で残酷な世界の理を彼は全身で理解していた。
どれほどの時間そうしていたのか、不意に背後の茂みがガサリと微かな音を立てた。
思考より速く身体が反応し、健は反射的に槍を拾い上げて音のした方角へ身を翻した。その動きは数日前の彼とは比較にならないほど洗練され、殺意さえ帯びている。次なる脅威が何であれ迎え撃つ覚悟はできていた。
だが茂みから現れたのは飢えた獣ではなく、一人の少年だった。
歳は十歳くらいだろうか、日に焼け汚れた顔をしているがその瞳は歳不相応に強い光を宿している。服装はあの集落の門番と同じ粗末な獣の皮を継ぎ接ぎしたもので、腰には小さな石のナイフを提げていた。
集落の子供。
二人の視線が至近距離で交錯し、少年は健が瞬時に構えた槍の鋭利な穂先を真正面から見つめて息を飲む。その顔には恐怖とそれ以上に強い驚愕の色が浮かんでいた。健もまた戸惑っていた。敵意がないことは子供の表情から明らかだが、集落の者たちが彼に向けたあの冷たい侮蔑の視線が脳裏を蘇り、この少年も同じなのかと警戒を解けない。
張り詰めた沈黙が二人と一匹の亡骸の間に流れた後、先にそれを破ったのは少年の方だった。
彼はおそるおる震える指先で健の持つ槍を指差し、何かを問いかけるように首を小さく傾げる。言葉は通じないがその眼差しは雄弁に語っていた。
―――その武器をお前が作ったのか?
健は少年の問いを直感的に理解し、槍を構えたまま無言で強く頷いた。
少年の目が驚きにさらに大きく見開かれ、彼の視線は健の槍と地面に転がる岩角兎の間を何度も往復する。そして岩角兎の脇腹に空いた槍による深い傷口を見た時、その表情は驚愕から畏敬に近いものへと変わっていった。
この子供は見ていたのだ、自分がこの獲物と死闘を繰り広げそして仕留めるまでの一部始終を。健が作り上げた粗末な武器がただの飾りではない本物の狩りの道具であることを、その目で確かめたのだ。
少年はおもむろに自分の腰に提げた石のナイフを指差す。それは健が作った穂先に比べれば明らかに作りが甘い、お守りに近いような代物だった。そして自分の胸をトントンと叩きそれから健を指差す。
―――俺たちの集落の大人でもこんな獲物をこんな武器で仕留める者はいない、お前は一体何者なんだ?
その問いかけは健の胸に深く突き刺さった。集落から拒絶された「よそ者」の自分が、今目の前の少年からは侮蔑ではなく一つの驚異として、純粋な興味の対象として見られている。
健はゆっくりと槍を下ろし敵意がないことを示した。そしてこれは賭けだと、このまま孤独でいるよりは万に一つの可能性に賭けるべきだと決断する。彼は岩角兎の亡骸を指差し、それから食べる仕草をした。そして少年と自分自身を交互に指差し首を傾げる。
―――一緒に、食べないか?
少年は健の意図を即座に理解したようで、その目に一瞬戸惑いの色が浮かぶ。集落の掟としてよそ者と関わることは禁じられているのかもしれない。しかしその戸惑いはすぐに消え、彼の視線は再び岩角兎のまだ温かみの残る肉体へと注がれた。それはこの厳しい世界で生きる者にとって抗いがたい魅力を持つ生命の塊。
少年は逡巡の末、小さくしかしはっきりと頷いた。
その後の解体作業は困難を極めた。健には獣を解体する知識など全くなく、槍の穂先をナイフ代わりに見様見真似で進める作業はただ獲物を切り刻むだけの惨たらしいものになっていく。
そんな健の姿を少年はしばらく黙って見ていたが、やがて我慢できなくなったかのように自分のナイフを抜き健の隣に座った。そして手慣れた手つきで岩角兎の足の腱を断ち切ってみせる。言葉はない、ただやってみせるだけ。
それは健にとって天啓だった。少年はこの世界の住人として生きるための知恵をその身体で知っている。健は少年のやり方を必死に模倣し、ぎこちない手つきで見よう見真ねで刃を進めた。少年は時折もどかしそうな顔をしながらも辛抱強く健の作業を見守り手本を示し続ける。
言葉を交わすことなく黙々と作業を続ける中、獣の血の匂いと内臓の生臭さに満ちた空間で、奇妙な共犯関係のようなものが彼らの間に芽生え始めていた。
やがて解体は終わりいくつかの大きな肉の塊が残されると、健はその中の一つを礼として少年へ差し出した。少年は一瞬ためらったがやがてそれをしっかりと受け取り、一度だけ健の顔をじっと見つめると何も言わずに森の中へと姿を消していく。集落の方角だった。
一人残された健は残りの肉を蔓で縛り上げ自分のねぐらへと運んだ。血と泥にまみれ疲労は極限に達していたが、彼の心はこの世界で初めて他者と何かを分かち合えたことで不思議と満たされていた。
その夜、健は焚き火で自分の手で勝ち取った肉を焼いた。滴り落ちる脂が火に落ちジュウという音と共に芳ばしい香りが立ち上る。塩も香辛料も何もないただ焼いただけの肉。だがその一口は健がこれまでの人生で食べたどんなご馳走よりも力強く生命力に満ちた味がした。肉を咀嚼するたびに力が身体の隅々まで漲っていくのが分かる。
肉を食べ終えた健はふと自分のステータスを確かめてみた。
名前: サトウ ケン
種族: 人間
称号: 迷い人、半人前の狩人
レベル: 1 → 2
体力(HP): 85/85 → 110/110
魔力(MP): 5/5 → 7/7
筋力(STR): 7 → 9
耐久力(VIT): 6 → 8
敏捷性(AGI): 8 → 9
器用さ(DEX): 12 → 13
スキル:
* 【原始的な武具作成技術:Lv.1】
* 【原始的な道具作成技術:Lv.1】
* 【槍術:Lv.1】
* 【解体:Lv.1】
* 【索敵:Lv.1】
レベルが上がっていた。全ての能力値がわずかだが上昇し称号が増えスキルも増えている。【解体】と【索敵】、今日の死闘とその後の経験が新たな力として彼に刻まれたのだ。
『俺は強くなれる……』
特別な才能や強力なチートがなくても、一つ一つの経験を積み重ね血と汗を流せば確実に一歩ずつ。
健は残った肉の塊と血で汚れた石槍を傍らに置き、燃え盛る炎を見つめた。彼の心の中にもまたその炎と同じ熱くそして消えることのない決意の火が確かに燃え上がっていた。




